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レバノン旅行記

 

11月30日〜12月6日

レバノン入国とトリポリの町  11月30日

11時のバスだと聞いていた。1時間前集合は旅の鉄則なので、9時半くらいに宿を出た。宿の兄ちゃんは、少し不思議そうな顔をしていたけどいいのだ。バス停にはいつもいろんな人がいて、見ていると面白い。ここは、靴磨きの少年と、物乞いが多い。一生懸命に靴を磨いている少年の姿は美しい。新聞売りの兄ちゃんはガムをくれた。アラビックコーヒーを売ってるおやじもいる。バスは、定刻より10分ほど遅れて出発した。
ラタキアからトリポリへ向かうバスの乗客は、私たちを入れて5〜6人といったところ。しかも、国境の手前で一人降りた。シリア出国、レバノン入国共にスムーズ。荷物チェックもなし。しかもレバノンビザはタダだった。ラッキー。今日も風が強くて寒いので、手続きのために外に出るたびに「寒―い」と言いながら走っていた。

トリポリの町には、いつの間にか着いていた。あまりに早くて、違う国に来たという実感はない。人々も街の雰囲気もあまり変わらない。大都会トリポリ。クラクションがうるさい町だった。シリア入国の日みたいに、道端で降ろされたけど、幸い宿へは歩いて行けた。

荷物を置いてすぐにセント・ジル要塞へ行った。途中で迷路のような旧市街を歩いて、石鹸屋のあるキャラバンサライを見つけた。セント・ジル要塞は、トリポリの町が見渡せる。地中海も見える。住宅が密集している。東京よりも混みあっているように思えた。要塞の上を、そして町のあちこちでも、鳥が群れを作って旋回していた。

 弾痕の残るトリポリの建物の壁
たくさんの弾痕ののこる壁。内戦の傷跡はまだのこっている
トリポリの街
要塞からみたトリポリの街。アラブぽい建物の向こうに地中海が広がる

レバノン杉 12月1日

トリポリから車で約1時間、レバノン杉の森の麓の町ブシャーレがある。雪をかぶった尾根の麓の深い谷間にある町で赤い瓦が並んでいる。そこに教会の鐘の音が鳴り響く。さすが中東のスイスと呼ばれるだけのことはある。ここがアラブであることを忘れてしまう。僕たちは、この美しい山あいの村ブシャーレから2時間ほど登ったところにあるレバノン杉の森へと向かった。紀元前はこの地域をおおいに潤した輸出品のレバノン杉であるが、今ではすっかいその数は減ってしまい、ほんの一角の敷地にその森が残されているだけだった。杉は柵で囲って保護されていた。レバノン杉のシルエットはきれいだ。それは完成されたプロポーションのクリスマスツリーのように見えた。プロの職人による巨大な盆栽にも見えた。しかし、レバノン杉よりもこのまわりの山と谷の風景のほうが僕は気に入っている。 (昭浩)

レバノン杉の町、ブシャーレ
雪ののこる山に囲まれた町ブシャーレ。ここでは教会の鐘が鳴り響いていた
 世界遺産レバノン杉
レバノン杉。このあたりではスキーもできる

ベイルート 12月3日〜12月6日

トリポリで3泊した後、ベイルートへと向かった。レバノンは日本の岐阜県ほどの大きさしかない。ほとんどのところへはベイルートから行って帰って来れる。ベイルートを中心にしてレバノンを旅する人は多い。僕たちもベイルートからビブロスやバールベックといった遺跡に日帰りで観光にいった。

ビブロス 12月4日

世界で最も古い都市国家のひとつビブロス。バイブルの語源ともなっている。アルファベットを作ったフェニキア人がここを中心として繁栄したところとして、歴史的にはたいへん有名な場所だ。しかし、この遺跡、ローマによってローマ色に上塗りされていて、いまひとつ。紀元前の頃の跡もあるが、それからその頃の町の様子をイメージするのは難しい。有名な遺跡なだけあって、中途半端に観光客がぽつぽついて、中途半端にユネスコによってか整備されている。目の前に地中海は見えるが特別雰囲気がいいわけでもない。まあ、それでもいい。はじめから期待はしていなかった。あのビブロスの地に行った、ということに意味があるのだ。そう言い聞かせて、ベイルートの宿へ戻っていった。(昭浩)

世界遺産ビブロス
歴史上では派手に登場するビブロス

驚愕のバールベック 12月5日

でっけぇー!これまで見たローマ遺跡のなかで一番迫力があった。神殿の土台となっている切り出された石、柱の一個一個の石がとにかく大きい。
人のウンチクの受け売りを書かせていただく。この神殿の南に史上最大最重量の切り石が置き去りにされている。神殿を造るために運んできたらしいのだが、途中で動かなくなって、そのまま置き去りになっている。長さ21.5m幅4m奥行き4.5m、重さ21000トン。僕たちも見に行った。確かに大きい。でもバールベックを構成している石のひとつひとつもかなり大きい。そこで思う疑問がある。どうやってこれらの石を運んだのか?今世界一重いものを運べるのがアメリカナサのロケット発射台。それは1000トンのものが運べるらしい。シーザーが当時どんなに強い権力をもって、どんなに気合をいれてつくったとしても、今の技術をしてもかなり作るのに困難であろうバールベックをどうやってつくりあげたのか、本当に疑問である。当時のまま残っていれば、たいそう大きな神殿だったに違いない。なかなか感動的な遺跡だった。(昭浩)

世界遺産バールベック
比較のため柱の下に映子に立ってもらったが、この迫力は写真では伝わらない
世界一思い切石
世界で一番重い切石。。ふーんという感じ。ギネスブックにはのっているのかなあ

レバノン人は商売がうまい

レバノン人は商売が上手だ。それは、ボッていかにおおくの儲けをだすのがうまいという意味ではない。相手に満足度であったり、価値であったり、そういうものを与えるのがうまいということだ。アプローチのしかたも同じアラブ人でありながらシリア人とレバノン人では違う。シリア人はストレートに売り込んでくる猪突盲信型に対し、レバノン人はもう少しアプローチが柔らかい。トリポリの石鹸屋なんか、こちらが興味を示すまで、静かで、あまり多くを語ってこないのに、一旦興味を示すと、急に饒舌になりセールスをはじめる。セールストークもその商品の価値について語り、値段のことには一切触れない。もちろん、こちらの質問にも的確な答えが帰ってくる。

ベイルートの宿の主人ザへールも値段交渉しようとすると、いかにこのホテルが快適なのかを語っていた。それを聞いていると値段を安くしてもらう気もなくなってしまった。

スターバックスでは、僕が頼んだ飲み物がイメージしていたのと違い、不服そうな顔をしていたら、僕の反応に敏感に感じ取り、もう一杯スペシャルな飲み物を持ってきてくれた。

なぜ、レバノンはこれほど発達しているのか?なぜ?これだけ物価が高いのか?
隣国シリアで30円しないサンドイッチがレバノンでは120円。スターバックスのコーヒーは日本の料金とあまりかわらない。この国に特別な資源があるわけではない。石油がとれるわけでもない。
その答えのヒントはこのあたりにあるんじゃないだろうかと僕は考えた。価値を高める努力。これがとても大切なことなのだ。価値を高める努力こそが商売のキーと言える。宿の主人のザヘールは、語るだけでなく、オーナー自ら常にトイレがきれいかどうかチェックし、少しでも汚れていると自らすぐに掃除をしている。各部屋にひとつずつある、衛星TV、インターネットのフリーサービス・・・彼は常に価値の向上を怠らない。

今のレバノンあたりで盛んに貿易をして稼いでいた商売上手のフェニキア人。その時代からの流れなのだろうか。価値を高め、信用を高める努力をしつづけ、レバノンは発展してきたんじゃないかと僕は勝手に想像を膨らましていた。(昭浩)

トリポリ石鹸
オリーブをベースにハーブやはちみつなどいろんなものが配合されている石鹸

ベイルート サブラ地区

パレスチナ人って何?日本でパレスチナ関係のニュースを見ているときいつもそう思っていた。そんな疑問を抱いても、その頃の僕は、あまり関心がないためそれ以上パレスチナについて調べようとはしなかった。パレスチナ人とはパレスチナの地に住むアラブ人である。だからシリアやレバノンに住むアラブ人と同じである。住んでいる場所がパレスチナであっただけのことだ。
イスラエルができて、そこに今のイスラエルまたはヨルダン川西岸(ウエストバンク)に住んでいたパレスチナ人がその場所を追い出されるように、ヨルダンに移ってくる。一時はパレスチナ難民を大量に受け入れたヨルダンだが、事情が変わって、今度は逆にパレスチナ難民を追い出しにかかる。そのためパレスチナ難民はレバノンへと移動する。その時の難民キャンプのあったところのひとつがベイルートのサブラ地区である。
ここサブラ地区は、大虐殺のあった場所として有名。イスラエル軍が南ベイルートに侵攻した後に起きたことなので、イスラエル軍によるものかなと思われがちであるが、実際は、内戦当時、反パレスチナであったキリスト教マロン派のレバノン人民兵の手によってそれは行なわれた。イスラエル軍がパレスチナ難民キャンプを囲み、誰もそこから逃げられないようにし、何の武器も持たない難民を徹底的に殺した。簡単にいえばイスラエル兵がお膳立てをし、同じアラブ人であるレバノン人民兵が殺ったということだ。
そのサブラ地区は、今でもパレスチナ難民キャンプと呼ばれているエリアで、その時の生き残ったものたちや外国から戻ってきたものたちが暮らしている。
難民キャンプといっても別にそこにテントがたくさんあるようなところではなかった。ビルもあるし、商店街もある。少し外れるとトタンのような造りの粗末なバラックのならぶ場所があるのだが、そこだけ特別な境界線があるわけじゃないので、その場所にいってもどこからどこが難民キャンプエリアかわからない。誰がパレスチナ人で誰がレバノン人なんていうのもわかるわけがない。同じアラブ人だ。
そこには、虐殺というそんなことがあった雰囲気もなかったし、パレスチナ難民キャンプと聞いて想像されるイメージの雰囲気もなかった。あまりにも自然に普通にベイルートに溶け込んでいたのが、逆に驚きであった。(昭浩)

ベイルートの街

本当にここで10数年前まで内戦があったのだろうか?15年間も内戦が続いていた国だなんてとうてい思えない

確かに内戦の傷跡はいまだ残っている。壊れたビルディングや壁やシャッターにある弾痕はいたるところにある。しかし、そんな古いビルの近くには、新しく建てられたばかりのピカピカの建物が建てられていたりするので、内戦の傷跡はかえって、この町の復活するエネルギーを浮き立たせるものになってしまう。この街は生命力にあふれているように僕は感じる。

スターバックスでキャラメルフラペチーノを飲み、復興しつつあるダウンタウン、そこにあるヴァージンメガストア。日本と同じ赤を基調とした店内レイアウト。そんななかの視聴コーナーでレニークラヴィッツを聴いていると、ここはいったいどこなんだろう?ふと、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまう。ベイルートって中東であることを感じさせないそんなところだ。(昭浩)

ベイルートの町
まだまだ再開発の途中なのにすでに洗練された雰囲気のベイルートの街
 ベイルートの名所?鳩岩
ベイルートの街から見下ろせる鳩岩。ここの夕日はなかなかよろしい
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