12月23日〜12月27日
朝7時、コルカタの街はもう動き始めている。ホテルの前には、黄色いタクシーがずらっと並び、サダルストリートの人力車のおじさんも商売道具のメンテナンスに余念がない。果物屋も商店も鶏を売る人たちも、チャイ屋もプーリー屋もすでに仕事をしていた。1時間余裕を持って出発したので、空港には早く着いた。道が空いていたので、7時半に出て、1時間もかからなかったのだ。
コルカタの空港は驚くほど小さい。ビューイングギャラリーという展望室みたいなところなんて、ヒュルルーと風が吹きそうなほどさびれていて、そこから見渡したところ、飛行機もあまりいない。早めにチェックインと出国を済ませて、本を読んで待った。出国の時、係りの人に「もう1回インドに入国できるよ」と言われて、ちょっと嬉しくなる。行こうかな、とか思ってしまう。「2月から働く」と昨日宣言したばかりなのに。
飛行機が離陸する前に軽食が配られる。それもそのはず、飛び立ったと思ったらすぐに着いちゃった。「さよならインディア・・・」と感傷に浸っている暇もなかった。ダッカのホテルへ一緒に行ったのは、日本人1人とインド人1人、でも2人共今夜成田へ向かうので、宿泊するわけじゃない。ランチをホテルで一緒に食べて、その日本人の男の子といろいろ話した。彼は、一生に最初で最後と決めて、アジアを7ヶ月旅したそうだ。モンゴルやチベットの話が興味深かった。(映子)
バンコク行きの飛行機は、10時半発のはずが遅れていた。パッキングを済ませて、ホテルを出ようとロビーまで行ったのに、部屋にもどれと言われる始末。何気なくテレビを見ていて、中国人のヒーローが出ている映画に熱中し始めた頃、もう出る時間だと言われた。
飛行機は、結局12時ごろ離陸した。そして2時間半くらいでバンコクに到着。機長はアナウンスで、「バンコクの気温は22℃だ」と言ったが、実は32℃の間違いだったとすぐ訂正した。そうだよなあ。
やっぱりバンコクは暑かった。何もしなくても汗が噴出してくる。
「クリスマスのバンコクは盛り上がる」
と何人かの日本人が言っていたが、どうだろう?カオサンを歩いてみても、別にいつもと同じ、普通である。もちろんタイの一般家庭でクリスマスを祝う様子は見られない。実際に家庭にお邪魔したわけではないけれど、なんとなく、街の雰囲気から想像しても、日本のほうがクリスマスムードはあふれていると思う。
わたしたちはその辺の安食堂で、久々のビールを飲み食事を済ませた。そこまではよかったんだけど、私はまた何かにあたったらしく、夜中に下痢が止まらなかった。吐き気もしたけど、下痢のほうがひどくて吐けなかった。何があたったんだろう。海老かな、シェイクかな、インドから急にここに来て、食べ物が変わったから胃がびっくりしたのかもしれない。(映子)
下痢だ。水下痢。完璧にあたった。お腹は痛くないけど、下痢が止まらない。
昨夜、あまり寝れなかったので、今日は朝からぐったりしている。あきちゃんは一人で麺を食べに行った。そして食べ過ぎて胃重だとぼやいている。しかし調子はいいらしい。
私も昼ごろには復活してきたので意を決して、ウィークエンドマーケットに出かけた。そこはカオサンからバスで30分くらい行ったところにある。会場はあまりにも広くて、ついた瞬間にもう全部見ることはあきらめた。今日の目的である、三角クッションだけを探して歩いた。おいしそうなものもいろいろ売っていたけれど、今の私には関係のないことだ。ろうそくとお香のセットを1つ買い、三角クッションもお店を3軒くらい見て決定。その後はとくにすることもなく、見るものもなく、ただ、人の多いこのマーケット内をすり抜けて、もう帰ることにした。
帰りにケーキ屋に寄った。お腹もすっかり空いていたので、調子に乗って、バクバク食べたら、気持ち悪くなっちゃった。さらに夜、おかゆを食べたら再び下痢。下痢、下痢、下痢で何度もトイレに行く。全然ダメだ、もうだめだ。やっぱり食い意地張ってたのがいけなかったのかな。昨日の海老、おいしかったけど、私は2個食べた。あきちゃんは1個、この違いがこんなに大きいとは。
後の分析で、やっぱり原因は海老だということになった。私は海老が大好きで、殻までバリバリ食べたのがいけなかったらしい。しかも2個とも。あきちゃんは、1個だけで、殻は残していた。(映子)
昨夜も下痢でよく眠れず、ぐったり。食欲もなく、ただぐったり。12時のチェックアウトまでだらだらしていると、宿のお姉ちゃん2人が時間差で見に来た。
チャオプラヤ川を行くボートに乗って、ワットポーへ行った。けだるく暑いタイにいて、このボートはとてもさわやかで、風が気持ちいい。ワットアルンが見えてくると、景色最高。再びバンコクに戻ってきたなあと思う。
ワットポーのマッサージは他のマッサージのお店より高い。でも気持ちいいのでいつも大満足。今回私は足マッサージ、あきちゃんは全身マッサージをしてもらった。
何も食べないと、とりあえず出るものも出ないので、下痢もおさまっている。でも最後の最後に来て、何も食べれないのはつらい。あきちゃんは、というと昼も夜もラーメンを食べていた。本当は2人で最後にタイスキを食べに行こう!と言っていたのに・・・残念。
宿の近くの公園で、時間をつぶしていると、急に周りのみんなが立ち上がり、国歌みたいな音楽が流れてきたので、びっくりした。神妙な感じで、歌をじっと聞いたり、時には歌っていたりもする。日本にはない光景だなと思った。(映子)
関空に到着すると僕たちは記者団からたくさんのフラッシュをあびた。芸能人でも乗っていたのかな、とキョロキョロする。
「地震があったときどちらにいらっしゃいましたか?」
新聞社の人たちにそう聞かれて、昨日あった地震のことなのだなと思い当たる。
僕たちの旅の終わりはそんな感じだった。
インドを発ってからダッカで1泊し、タイのバンコクで丸3日過ごしたんだけど、そこでは旅の終わりのおセンチな気分なんてものはまるでわきあがってこなかった。帰路の途中トランジットのため立ち寄った外国の空港のようなもんだった。それはそれで仕方がないんだけど、3年2ヶ月も旅していたんだから、旅の本当の最後の日くらい、うるっ、ときたかった。でも現実はそれとはまったくかけ離れていた。
だから旅の最後のほうは、間の抜けた消化試合のようなムードだった。映子も下痢でまいっているようだったし・・・
物事の終わりというのはまあたいてい、たんたんとしているものかもしれない。
なんだか、最後はやけにテンションが落ちている日記になっているが、旅が終わって落ち込んでいるワケではない。日本社会復帰に向けて、意外なほど2人とも積極的だし、旅もかなりやりきったという自負もある。前途はまるで白紙状態だったが、3年以上プーをやっているから、何を今更、ってカンジで不安などカケラもない。表情明るくたんたんとしているのだ。これが僕らの旅が終わった時の状態である。
日本に帰って親との再会。母は手と足を怪我していた。スキーで転んで怪我したらしい。でも、実はそうではない。
母は夢を見た。僕らの遺体を引き取りにタイへ向かうという内容の夢だ。その時、母は祈りをささげる。
「どうか2人を助けてください。かわりに私の片腕と片足を差し上げますからお願いです。助けてください。」
夢の翌日、あのスマトラ沖地震が起こる。
母は僕らを助けるために怪我をしたのだ。母だけでなく多くの人が心配していた。実際たくさんの安否を気遣うメールが届いた。 心配をかけたのは申し訳ないが、とてもありがたいことだなと思った。3年以上、何の親孝行もせず、無収入・住所不定といった状況をつづけたのに、ただ無事に帰っただけでこれほど喜ばれるなんて、とても幸せなことだなと思った。
「旅をして何か変わりましたか」
と聞かれてもうまく答えられない。変わったような気もするし、変わらないような気もする。変わったところもあるし、変わっていないところもある。そんな抽象的なことしか、今は言えない。
ただ、いろんなことに気づいた旅だったと思う。日本で当たり前のようにあるものが、実は当たり前ではないということに気づいた。電気、きれいに舗装された道、いつでもホットシャワーが出るバスルーム、水道の水が飲めること、きちんと流れるトイレ、清潔なレストラン、きちんと整備された車、時間通りに来る電車やバス・・・・それらが当たり前のようにある国は、世界の半分もないと思う。世界の全部を見たわけではないので、断言はできないけれど、少なくとも私たちが訪れた国々には、全て当たり前にそろっている国は半分もないと思う。
自分自身がどう変わったかは、これからわかることがあると思うけれど、基本的には変わっていないような気がする。人はそうそう変われないものなんだな、とも気づいた。(映子)
自由に生きたい。それが僕のテーマである。そして、前にも書いたけど、僕は自由である、ということを自分の神様に約束したのだ。
そして、自由を求めて旅に出た。時間に縛られず、場所にも縛られず、それが自由だと思って旅に出た。しかし、僕たちは気づけばいつも旅の計画を立てていた。計画とは自分たちを縛るもの−それを僕らは積極的に自ら作っていた。
結局、どういう状況になろうと自由とは自分で決めるしかないのだと僕は旅の中で気がついた。お金がないから自由になれない、忙しくて時間がないから自由になれない・・・などというのは嘘だ。お金と時間があれば自由になれるというのは幻にすぎない。逆に自分で決めさえすれば自分は自由になれる。
こんな話をした後で言っちゃあ身もふたもなくなってしまうのだが、自由を求めて旅に出た、というのは多分嘘だ。僕はただ旅をしたかった、または、いろんな国に行ってみたかっただけで、自由を云々というのは“あとづけ”の理由の気がする。「何かをしたい」というものには理由なんてないのだ。
「旅をして得たものは何?」と聞かれることがある。多分たくさんの経験が血となり肉となり財産となるのだろうが、僕は本質的にはこういうことなんじゃないかと思う。心の底からやりたいことをやるということは、自分が背負っているものを脱ぎ放つことなんじゃないかなと。
今の僕は、昔からの夢をとことんやって、重かった鎧を脱ぎ放った、そんな気分なのである。(昭浩)