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ネパール旅行記

11月19日〜11月28日

ルクラからカトマンズへ 11月19日

僕らのフライトはシタ航空の第二便。7時30分チェックインに空港に来いと昨日言われたので、そのとおり行った。映子のウンチをせかしてまで行ったのに、結局待つこと4時間半。飛行機に乗り込んだのは正午であった。底冷えのする飛行場のなか、僕らは寒さに耐えた。ズボンの下に愛用の防寒タイツを不覚にもはくのを忘れて泣きそうになりながらも耐えた。

正午、いよいよテイクオフ。

ルクラの飛行場のテイクオフはスリリングだ。谷に張り出した小さな棚の上にあるルクラの飛行場は滑走路が長くとれないため急な斜面になっている。着陸の時は坂道を登るかっこうにして減速を早め、離陸のときは斜面を下っていって最後はがけから飛び降りるようにして離陸する。スキーのジャンプのようなものだ。よく考えられた構造ではあるが、飛行機に乗る身としてはちと怖い。開けっ放しの操縦室から前方が見える小さな飛行機の一番先頭の座席に座り、僕らは飛行機が、がけから飛び下りる瞬間を待った。

短い滑走路の向こうは宙空がある。そこに向かって飛行機は急発進で走り出した。

飛行機はがけから飛び降りる前に、気がついたらふわりと浮かんでいた。無事離陸できてよかったのだが、がけの上からストンと落ちてそれからブイーンと飛び上がる、というのを想像していたのでやや残念な気持ちでもあった。

そして僕らは22日ぶりに山を離れ都会カトマンズへと戻った。(昭浩)

食い倒れのカトマンズのはずだったのに、その日ヤツはやってきた 11月20日

 カトマンズはモノにあふれていた。トレッキングから戻ると特にそう思える。食べ物の誘惑が多い。片っ端からおなかを壊すくらいガッツリ喰いまくり、といきたいところだが、そこはグッとこらえて、朝はサモサからはじめる。あつあつのサモサにチャイ(ミルクティ)というのがここネパールでのお気に入りの朝食だ。しかもサモサ1個3ルピー、邦貨で5円弱。安い。さすがネパールという物価でうれしくなる。サモサとチャイの後はヨーグルト屋にいって手作りヨーグルトでしめる。これが僕たちの朝食ゴールデンコースだ。

朝食を済ませた後も昼は何を食べようか、夜は何を食べようか、ウフフ楽しみ、といった心境だったのだが、そこでヤツはやってきた。

それは月に一度女性を襲うヤツである。ヤツの到来は断食の到来でもある。

ガガーン・・・。食のカトマンズで2日の断食。

冷静に考えてそれはとても無理な話なので僕はその日の昼と夜だけをぬくことにした。僕たちはこの日、商店でプリングルスを買って、昼からビールでも飲んでまったり・・・の準備をしていた。そのプランもおじゃんである。目の前にあるお楽しみのプリングルスは誘惑を誘う魔性のスナックとなってしまった。

その日は午後から部屋に篭り、HPの原稿づくりにぼっとうする。断食の日っていつも思うんだけど、なんとなくどよーんとしたさえない一日となるのである。(昭浩)

インドビザ申請 11月22日

今日はインドビザ申請の日だ。いや厳密にいうとテレックスの申請だ。一度テレックスをインド本国に送りその結果を待ってOKだったらそこではじめてインドビザの申請となる。そのテレックス、結果が出るまで1週間もかかる。その上テレックス申請、ビザの申請、ビザの受け取り、と3回もインド大使館に足を運ばなければならない。時間もかかるし本当にめんどうくさい。

朝9時前にインド大使館に行くと門の前にすでに長蛇の列。すでに100人くらいはいると思われる。これはけっしてオーバーな表現ではなく、見た瞬間ぞっとするほどの人が並んでいたのである。それを見た瞬間あきらめて帰っていった日本のおじさんもいたくらいだ。

インド大使館が開くのは9時30分、僕らはその30分も前に来たというのにこのザマだ。長蛇の列の先頭にいた日本人に聞くと、彼は朝の7時から並んでいるといっていた。

これだけ並んでいるとズルこみしてくる輩が必ずいる。以前インドビザを申請したときもインド人だかネパール人だかわからない男が大使館の関係者のようなフリをして、僕らの前にいつの間にかちゃっかり並んでいた。今回も危惧したとおりメキシコ人がどさくさにまぎれて僕らの前に入り込もうとしていた。

インド大使館の受付は12時でクローズしてしまう。せっかく並んでも窓口がクローズしてしまうとまた明日並びなおしということになる。だから気が気でない。僕らのポジションは微妙だ。100人近く前に人がいる。だめかなぁー、と思うし、いやいやたぶん大丈夫だろう、とも思う。そのあたりなんともいえない。

僕らの後ろに並んでいる中国系のおばちゃんは、そんな状況のなかニコニコしている。カタコトの中国語とジェスチャーで話をすると、おばちゃんはどうやら本を書いたらしい。自分の著書をカバンから取り出し自慢げに僕らに見せてくれた。内容はチベット仏教を紹介した本で、たしかに著者紹介のところにはおばちゃんの写真が載っていた。とてもじゃないけど落ち着いてなんていられない今の状況下でのおばちゃんの穏やかな笑顔は、さすが仏につかえる身、と僕たちを感心させた。その笑顔はまさに仏の笑顔と呼べるものだった。

長蛇だった列は順調に短くなっていき、いよいよあと10人くらいで僕たちの番というところまできた。しかし、受付終了のタイムリミットまであと15分という、さらに予断を許さない状況にもなってきていた。

そんなところに二人の日本人女性がやってきた。見たところ海外青年協力隊員といった感じ。まあまちがいないだろう。

「あのう突然でしかもずうずうしいお願いなんですが・・・」

僕はその先の言葉は聞きたくなかった。実は彼女たちの視線はなんとなく少し前から気がついていた。この人日本人かな、と僕らのことを見定めるような遠くからの視線。イヤな予感はしていた。

「事情があって、今日中にどうしても申請しなきゃいけないので、一緒に申請してもらっていいですかぁ」

僕は困惑した。正直やっかいなお願いだなあと思った。こういうときに冷静にキレのよい回答をいえる明晰な頭脳があったらなあと思った。僕はたじろぎ助けを求めるように映子のほうを向くが、映子は「こっちに振るなよ」みたいな顔している。

「そののっぴきならない事情っていうのは人の命にかかわることですか、病気の母がインドにいて一刻も早くインドに行かねばならない、もしそんな事情であれば僕たち明日出直しますから、僕たちのかわりに並んで申請してください」

僕は冷静に答えた。というのはもちろん嘘で、こんなことをとっさにいえるわけがない。

「事情ってなんですか?」

事実は、鈍重なトーンでそういうのがやっとだった。

「私たちネパールの南の方に住んでいまして、1週間カトマンズにやってきているんです。でも明日から午前中はミーティングがあってここに来られないのでどうしても今日中に申請しなきゃいけないんです」

ミーティング?僕はそこで一気にトーンダウンした。

「ミーティングなんて1度や2度ぶっちすればいいんだよ、それがイヤなら旅行代理店に金払ってやってもらえばいいじゃん。この緊迫した状況のなかでそんな理由でズルこみさせてくれとは、ちょっとずうずうしいんじゃないの!」

僕はそういってきっぱりと断った・・・のならよかったのだが、気弱な僕にそんなこといえるはずはなく、最悪の返事をしてしまった。

「僕たちは全然困らないけど、僕らの後ろの人たちがよく思わないでしょ?後ろの人たちに聞いてみてよ」

まさに自分の保身のみを考えた逃げ口上である。あとから、このとききっぱり断れなかった自分に嫌悪感をいだいた。

「私たちも受付に間に合うかどうか微妙なんですよー」

映子がそういって彼女たちのとの会話は終了した。結局イエスともノーともハッキリしない日本的玉虫色の決着となったのである。

僕たちは本当にギリギリであった。前に4人を残しているところで、あと5分しか残っていなかったのだ。しかも前に並んでいた韓国人4人がフォームの書き方を間違えていたためにその場で書き直しをしているのである。おいおい頼むよー、とこちらはマジで焦るばかりだ。また、よりによってそんな切迫したときに受付のおっさんのところに電話がかかってきた。当然おっさんは作業を中断して電話に対応している。この1本の電話のためにまた明日2時間以上待たなければいけなくことになったらどうしよう。電話の向こう側の相手に、早く切れ、と祈るばかり。まさに1分1秒を争う展開になってきたのだ。

12時。タイムアップ。明日もう一度出直しー。

それだけは絶対に避けたい。

そんな最後の修羅場にイスラエル人の女の子が僕の前にズルこみしようとしてきた。僕はなんとか体をいれてそれをブロックした。英語で何やら言っていたがそれは完全に無視した。そっちに気をとられていると逆サイドから別の人がズルこみしようとする人影があった。見事に隙をつかれてしまった。見ると、逆サイドから強引に割り込んできたのは、あの仏の笑顔の作家のおばちゃんではないか!その表情に仏の笑みなんてものはない。仁王の形相となって受付に書類を渡そうと手を伸ばしていた。

12時3分、僕らの必死の戦いは終わった。無事テレックスの申請は受理された。仁王のおばちゃんのも受理され、表情は仏に戻りつつある。協力隊の無理なお願いの二人は、年末カトマンズに来たときに申請する、と話していた。はっきり断れなかったことに後悔だけが残った。

その日の午後、僕らは日本人の経営する一太という名の焼肉屋で焼肉定食にすっかり心奪われてしまっていた。 僕たちは、午前中のバトルのとき抱いた自己嫌悪も後悔の念も、すっかり忘れてしまっていたのだった。(昭浩)

15年前のナガルコット、それがすべてのはじまりだった 11月24日

僕たちはナガルコットの丘にやってきている。ナガルコットというのはカトマンズから気軽にいけるヒマラヤのビューポイントだ。トレッキングに行かない人はたいていここにやってきて、世界の屋根を堪能する。

ここのところ天気はあまりよくない。昨日も雨が降っていた。昨日雨が降っていたので、次の日もし雨がやんだら空がクリアになってヒマラヤがきれいに見えるだろうな、そう思ってあえてナガルコットに昨日やってきた。今朝起きてみると見事に雨はあがり、雲がじょじょに切れ始め、ヒマラヤがその偉大な姿を見せ始めた。

トレッキング中に見るヒマラヤは確かに近く、そしてでかい。しかし、ここナガルコットから見るヒマラヤは少しヒマラヤからは離れているが、そのため山々が重なりあって見えるため、ひとつの巨大な山の壁のように見える。本来空があるはずのところに立ちはだかる巨大な壁だ。世界の屋根なんてもんじゃない、鳥肌がたつような、神を感じさせる景色がそこにある。

僕はエリッククラプトンのチェンジ・ザ・ワールドを聞きながら、はじめての一人旅だった15年前のことを思い出していた。

15年前ここで見たヒマラヤ・・・あのときこの世界一周の旅の種子が僕のなかに蒔かれたのではないだろうか・・・僕にはどうしてかそう思えた。

15年後多分僕はまたここに来るような気がする。そして、あの世界一周があったから、今の自分があるんだ、その時51歳の僕はそんなことを思っている。僕はそんな強い予感をチェンジ・ザ・ワールドを聞きながら感じていた。 (昭浩)

ナガルコットからの見たヒマラヤは空が本来空があるところにある大きな雪の壁。神の山々としかいいようがない。それにしても手前の宿が邪魔だなあー

ゲリの話11月25日

 

朝起きると、というかさっきまでもトイレで起きてたぞ、という感じだけれど夜の惨事はうそのようにすっきり、おなかも痛くなくなっていた。ただ、食欲はそんなになく、いきなり重いものは無理なので、ヨーグルトとりんごを食べた。

そう、私は昨日から下痢である。しかも水下痢、ひどいやつだ。

昨日の昼、私は日本食レストランで餃子を食べた。しかもご飯をおかわりした。夕方になっても食欲が全然なく、気持ち悪くさえあった。でもきっと食べ過ぎたんだろうと思っていた。

 少しおなかも痛くなってきた。どうやら餃子にあたったらしい。

だんだんとつらくなってきて、ベッドに横になる。何回か、寝てはトイレに行き、トイレにいってはまた寝るというのを繰り返した。しまいには、ゲロってしまって意気消沈。すっかりやつれてぼろぼろさ。

夜中に2回目のゲロ。でももう出るものもないくらい。トイレは何回も行った。おなかも痛いけど、刺身にあたったときよりマシだなあと冷静に思った。ギョーザの肉が、そういえばしっとりやわらかかったなと分析もした。おいしかったけれど、きっとちゃんと中まで火が通ってなかったんだろう。(映子)

カトマンズの街並み 11月26日

 

カトマンズにはダルバール広場という広場がある。昔からのお寺が並ぶ広場というよりは広い交差点といった場所である。カトマンズの空気に浸るいい雰囲気の場所だ。そこは何年か前からか外国人観光客だけは入場料を払わないと入れなくなってしまい、ただ通り過ぎるだけでもお金がかかるという世知辛いスポットとなってしまった。

しかし、僕は日本人ではなくネパール人と思われることのほうが圧倒的に多いくらいとてもネパール人らしい顔をしているため、普通に素通りすれば警官に呼び止められることはない。今日もダルバール広場を何食わぬ顔でとおりすぎた。ダルバール広場の後いつもならツーリストの集うダメル地区までまっすぐに歩いて帰るだけなのだが、今日は、世界中でネパールしかないという窓、それを見るためいつもと違う路地へとはいっていったのだった。

観光客のあまり訪れない路地に行くとたくさんの発見があった。カトマンズには昔の建物がまだまだ数多く残っている。ダルバール広場周辺にある保護された建物なんかじゃなく、今でも暮らしのなかで生きていて、なのに昔の時を感じさせる古い建物が普通に存在している。人々が出入りする扉なんかにも、古きよきネパールの文化が色濃く残されていたりする。また古い路地には、この先どうなっているのだろうと思わせる、「どこかへの狭い入り口」が開いていたりする。他にも小さな祠やお寺、ネズミの像・・・ツーリストの集まるタメルにはすでに失われてしまっているものがここにはたくさんある。

タメル地区なんかでウダウダしていないで、カトマンズをもっと探検しなきゃ、と思った。無数にあるカトマンズの被写体がこの町のなかに散らばっている。じっくりまわればそれだけで一冊の写真集なんかもできるんじゃないかと思えるほどだ。

ネパールなのにあまり山が見えないカトマンズ。埃っぽくて空気が悪いカトマンズ。車やバイクが多くて騒がしいカトマンズ。なのに、僕たちがどうしてもこの町に惹かれてしまうのは、鎖国をしていた時代、またはそれ以前からのネパールをこの町に感じるせいじゃないかと思う。意識するにせよ、無意識のうちにとおりすぎているにせよ、僕らはそういったものをいつも感じていて、それがどことなく懐かしい刺激と居心地のよさを僕たちに与えているように思う。

世界のいろんな町を訪れたとき、この町にはもう来ないだろうなあ、と思うところと、また来るんだろうなあ、と思うところがあるが、カトマンズはこれからも何度も来る場所だろうという強い確信が僕にはある。(昭浩)

シュリーと最後の夜  11月27日

 前回のアンナプルナトレッキングのとき知り合ったガイドのシュリー。彼は当時ポーターだったけど、今はもう立派なガイドでクライミングもやっている。カトマンズ最後の夜は、シュリーと3人でレストランへ行って、最後の晩餐をした。

 彼はとても純粋な人だと思う。普段はいつも冗談ばっかりふざけて言ってるけれど、根はまじめで、一途である。だから2年半前のあのトレッキングで出会ったオランダ人の彼女ともまだ続いているのだろう。でも以前シュリーの家へ行ったときに、カーストの話題になって、

「外国人と結婚したら一族から立ち去らなきゃいけない。」と言ってたので、

「いつ結婚するの?」とは聞けなかった。

お兄さん夫婦は引っ越して、今は独立して住んでいるので、シュリーが両親の面倒を見ているみたい。毎日忙しくて、お母さんに「どこへ行くの?」とか「何してるの?」とか聞かれるけれど、ツーリストにかかわるそういう仕事をお母さんはよくわからないので、説明してもわかってもらえないらしい。しばらく家に帰ってこないことが多い仕事なので、お母さんは余計に心配して、帰ってくるたびに泣いているという。

 私たちがしばらくはネパールに戻ってこないと知って、シュリーは寂しそうに、

「Not nice」 と言った。そして、「明日の朝見送りに行くから」といって、帰っていった。

シュリーと別れてから、明日のパンを買いにタメルの街を歩くと、土曜日のせいか、いつもよりも数倍にぎやかで、音楽がじゃんじゃん鳴っていた。(映子)

スノウリへ   11月28日

朝6時半、約束の時間ほぼぴったりにシュリーが宿に来てくれた。宿の従業員ヴィシュヌにバイバイと手を振って別れ、シュリーと3人でタクシーに乗ってニューバスパークへ行った。

 すでにバスはたくさん、数え切れないほど並んでいて、どのバスだろう?と思ったけど、シュリーが見つけてきてくれた。シュリーはタクシーから降りると、

「Have a nice trip.」

と言って、首にカタと呼ばれる布をかけてくれた。これはチベットの習慣で、詳しくは知らないけれども旅の安全を願ってかけてくれるみたい。うれしかった。前回カトマンズを去るときには、日本人旅行者の千春ちゃんが見送ってくれた。見送ってくれる人がいるっていいな、と思った。前回も今回も私たちは幸せ者だと思う。

バスの上に荷物を載せると、シュリーは行ってしまった。本当にありがとう、シュリー。

 同じバスにはイスラエル人が多く、なんとインド大使館で並んでいるときに、あきちゃんが横入りされそうになったけど入れてあげなかった女がいた。向こうは気づいてないみたい。

 バスは7時半過ぎに出発。なかなか時間に正確だ。バスはちょこちょこ止まりながら、モンキーテンプルの近くを通り、カトマンズを後にした。いろいろ遣り残したことがあるけれど、今度いつ戻って来れるかはわからない。でも不思議ともう最後という感じはしない。こうして2年半後に戻って来れたから、またいつでもこれそうな気がしてしまうのかな。いつになるかはわからないけれど、「きっとまた来る」という、確信に近い思いがあった。

日は照ってきたけど、バスの中はまだまだ寒い。前の女が窓を全開にすると、「やめて!」というくらい寒い。冷えるとトイレに行きたくなるからやめてほしいのだ。

案の定、だんだんトイレに行きたくなってきた。さっきも行ったのに・・・

道はアスファルト崩れという感じで、ぼこぼこ穴が開いていて、お世辞にもいいとは言いがたい。がたがたよく揺れるし、時にはお尻が浮くほど跳ねる。懐かしい揺れを体に感じながら、いつのまにかウトウト・・・

朝食休憩と昼食休憩もあり、ちょこちょこ止まっては客を乗せたり下ろしたりしていたけれど、バスは順調に走っているように見えた。

ところが、夕方になって、急に車が止まった。故障かと思ったら渋滞だ。外に出て様子を見てみたが、一向に動く気配なし。どのくらいと待っていたかはわからない。

と、にわかにみんな車の中に戻り始めた。そして車はとろとろと動き始めた。でも本当にゆっくりだ。真っ赤な夕日が今まさに沈もうとしていた。夕日が完全に沈んでしまった後、やっとバスは普通に走り始めた。しかし、時すでに遅し。

終点に着いたときは、もう真っ暗である。しかもそれはスノウリではなく、バイラワで、スノウリまで4キロリクシャで行けと言うのだ。仕方なくリクシャに乗ったけど、夜風が気持ちよかった。バスステーション周辺や国境周辺には、怪しげなやつらがウロウロしていた。(映子)

これがネパールのバス。インドのメーカーTATAのもの、屋根に荷物を載せる
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