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トルコ旅行記パムッカレ・エフェス・トロイ・北キプロス編

10月19日〜11月19日

コンヤで食べ歩き 10月19日

 コンヤにはたいした見所はない。メヴラーナ博物館というイスラム教徒以外の人があまり来ることのない博物館があるだけ。僕たちがここを訪れた理由は、コンヤの郷土料理を食べたかったから。この旅の目的の半分を“世界食べ歩き”と言い張る映子にとって、コンヤははずせない場所らしい。
何の見所もないところに食べ物のためだけに立ち寄るのは、時間とお金のムダだとはじめは思っていた。しかし、後から思うとコンヤに来てよかったと思う。コンヤ名物ダンドゥル・ケバブ、これが後々まで印象に残るおいしさであったからだ。それから二度とこれと同じような料理にお目にかかれなかった。日本では高級食材の子羊が、庶民的な価格で大変おいしく食べられるのもうれしい。(昭浩)

パムッカレで宿のおやじともめる 10月20日

宿選びは慎重にしなければいけない。もし宿選びをミスった場合、1泊だけなら我慢すればいいだけだが、もしその町に2泊するとなると、また同じ宿に泊まってイヤな思いをするか、そことは違う宿に移動しなければいけない。同じ町で宿を変えるのはたいへん気まずい。
僕らはこの日の翌日に宿をかえた。お前たちはどこの宿に移るんだ!と宿のオーナーに怖い顔して責められた。しかも、かなりしつこい。その強引さとしつこいところが僕らはイヤなのにもちろん彼はわかっていない。
「値段を下げてやるからもう一泊していけ、いくらならいいんだ?」
とオーナーは殺し文句を言ってきた。昨日料金交渉のとき、まったく値引きはできないの一点ばりだったのが、宿を変えると言った瞬間アッサリ妥協してきたところがまたイヤらしい。
「値段が気に入らないんじゃなくて、お前が気に入らないんじゃ!」
と言ってやりたがったが、怖いのでそそくさと逃げるように出てきた。
こういうことはたいへん自分たちを消耗させる。まったく生産的でないばかりか、精神的疲労感を覚えるばかりだ。宿選びは重要である。(昭浩)

パムッカレ 10月21日

パムッカレこそ世界で一番の温泉だ

昔、世界の温泉が紹介されていた本を読んだときそう思ったものだ。長い年月をかけてできた美しい白い石灰棚、この棚が天然の浴場となっていて、ツーリストが水着を着て温泉を楽しんでいる。そんな極楽気分が伝わってくる写真がその本には載っていた。自分がこの温泉に入って至福の時間の中にいる姿を何度夢見たことだろうか?

しかし、それは儚い夢のまま終わる。
何年か前から石灰棚への入場は禁止されている。それどころか石灰棚に流れる温泉の湯も制限して夏以外は流さないため、湯をたたえては石灰棚からあふれ出るその姿すら見れない。乾いて干からびた様子ばかり目立つ。それはガイドブックを読んだ時からわかっていたことだが、現実を目の前にするとやはりがっかり。何千年もの間人々はこの温泉に入りつづけてきたのに、わずか何年か前に入れなくなるとは…そう思うとさらにがっかり。
石灰棚自体は悪いものではない。積み上げられたたくさんの白い大皿のような石灰棚、自然によって創り上げられたその美しさは見るだけでも価値のあるものだろう。しかし、あまりに期待しすぎたためか、僕は素直に感動できなかった。

映子は、温泉の涸れた温泉を見てポツリと言った。
世知辛いのぉ
言葉の使い方は多分間違っていると思うが、彼女も大変残念に思ったことは間違いないだろう。(昭浩)

宿のおやじともめた後のことだった。私はこの観光地はやばいと思った。そして、思わず上記のようなセリフを言ったのだ。そこで、一句、「温泉と共に涸れてくパムッカレ」
いい人もいるのだけれど、人々は減っていく観光客を奪いあって、醜い争いをしている。(映子)

お湯はないけど、白い石灰棚はきれい

遺跡めぐりと移動の日々 10月22日〜25日

 

僕がローマ遺跡を見たのは、パムッカレの石灰棚の上にあるヒエラポリスという遺跡がはじめてだ。そこから地中海岸に沿って、ローマ遺跡を訪れては移動する日々が続く。最初の頃はローマ時代の文化的な暮らしの様子が感じられるローマ遺跡に感動していたが、いくつか見ていくうちにそうした感動は薄くなっていく。これは、仕方のないことだろう。
それよりも、長距離バスでなくローカルなミニバスを乗り継いで、人々の暮らしのにおいに浸って移動する旅が心に残っている。そういう旅は、大変はところもあるが、その分多くの人々の親切によって助けられる機会も多い。ハードに動いた毎日だったが、楽しい毎日でもあった。(昭浩)

アフロディスアス

ここの大スタジアムは素晴らしかった。これだけ大きな競技場がほとんどオリジナルの状態で残っているのは奇跡に近いと思う。ローマ劇場の保存状態もいい。何よりも山に囲まれた平原にポツンと残された雰囲気が良かった。ツーリストが少ないのもポイントが高い。

保存状態最高の大スタジアム。必見
野原の中に置き去りにされている遺跡

エフェス

トルコにあるローマ遺跡のなかで一番ツーリスティックなローマ遺跡。図書館の遺跡がかなりいい具合に修復されていて当時の状況が思い浮かべられる。観光用にとても整備されてあり、細かいところまで説明が行き届いている。ローマ遺跡がどういうものか知るにはもってこいの遺跡だと思う。

遺跡はすばらしいが観光客が多すぎ
立派の修復された図書館

ベルガマ

ここのいいところはそのロケーションだと思う。山の上に作られたローマ都市。そこからベルガマの町が見渡せる。もともとギリシャのアクロポリスだったところでもあったので、ギリシャ時代の遺跡もあるにはあるがほとんど残っていない。ドイツ人に持ち去られてしまったらしい。山の斜面を利用して作られた急角度のローマ劇場が印象的。

山の上にあるので景色がいい
急斜面を登るのは結構つらい

ヒエラポリス

最初に見たローマ遺跡。初めて見たので感動した。ローマ劇場以外はあんまり残っていないのが残念。近くにある遺跡が沈む温泉プールは良かった。炭酸水の温泉のなかにローマ時代の柱やレリーフなんかが沈んでいる。日本の温泉程熱くないので、なかなか温まりはしないが長時間入っていられる。

石灰棚を登るとこんな遺跡がある
遺跡が沈む炭酸泉。持ってきたゴーグルが役立った

トロイ

夢追い人として理想的な生き方をしたシュリーマン。彼によってトロイは発見された。

ホメロスの叙事詩「イーリアス」に出てくるトロイの木馬。その話で有名なトロイは、知名度のわりにそこを訪れた人の評判はあまりよくない。価値の高いものはすべて外国に持ち去られ、残っているのはガレキの山だからなのだろう。行ってガッカリするかもしれないとわかっていたが、それでもどうしてもトロイには行ってみたかった。
シュリーマンは、当時伝説だと言われていたイーリアスに出てくるトロイ戦争を小さい時から史実だと信じ、その伝説の町トロイを見つけるという夢を抱く。彼は商人として成功し財を築くと41歳で商売をやめて私財を投じてトロイの遺跡探しをはじめる。何度も失敗を繰り返したが、彼は信じ続けた。夢のお告げや、神がかり的な幸運に恵まれ、彼はまわりの予想を裏切って長年夢見たトロイのあったヒサルルクの丘を探しあてる。

僕がトロイに行きたかったのは、そこに行ってそんなシュリーマンの夢への情熱のひとかけらでも持って帰りたかったのだ。
たしかに見るべきものは積み上げられた石ばかり。だけど、ここがあのトロイの木馬の舞台かと思うとそれだけでも感慨深い。シュリーマンがここを見つけた時、その感動はどれほどのものだったのだろう?彼の一生をかけた大きな夢が叶った時の気持ちはどういうものだったのだろう?(昭浩)

シュリーマンの夢みた地ヒサルルクの丘
観光向けロイの木馬

セマーの舞 10月27日

それはとても神秘的でした。」
カッパドキアで会ったとても神秘的な“映子さん”はそう言った。

僕たちがここ1週間ほどハードに移動と観光を繰り返す精力的な活動をしてきたのは、今日のセマーの舞を見るためだ。セマーの舞とは、イスラム神秘主義集団(スーフィー)のメヴラーナがやっていた愛をテーマにした踊りである。僕たちはカッパドキアで会った神秘的な雰囲気を持つ“映子さん”(妻の映子と偶然にも同じ名前の旅人)にセマーの舞のこと聞いてから、とにかくこの踊りが見たくて仕方がなかった。月に2度しかないセマーの舞を見るチャンスを逃すわけにはいかなかったのだ。

尺八に似た横笛、古い小太鼓、びわとヴァイオリンの間くらいの弦楽器、日本の琴にも似た楽器もある。これらが奏でる宗教音楽。奏者はみな白いシャツの上に野暮ったい黒いマントのようなコートを羽織っている。演奏がしばらく続いた後、奏者と同じような黒いコートを羽織った10人くらいのダンサーが出てきた。しばらく、ステージの脇に座り、精神統一をしているのか皆目を瞑っている。
そして、突然コートを脱ぐと、立ち上がってステージの周りを歩み始め、それから一人ずつまわりはじめた。

くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる―――
なんてことだ、ひたすら回っている。白いスカートをひらひらさせて。夢にでてきそうだ。

くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる―――
目が回らないのだろうか?それにしてもきれいな舞だ。

それは夢の光景のようだった。まったく現実味のない世界。シンプルで美しい舞。
僕の頭の中でもしばらく回っていた。
くるくるくるくる・・・・・。 (昭浩)

まわるまわる・・・・くるくるくる・・・
踊りをしきるじじいは、ほとんど動かない

アンタルヤで 11月1日

ここへ来てようやくゆっくりできそうな気がした。地中海のリゾート地アンタルヤ。やしの木が生えるストリートはどことなくハワイを思い出させる雰囲気。そう、僕たちは南に来たのだ。すっかり冬の気候になってしまったイスタンブールを後にして、逃げるように温かい場所を求めて南下した。着込んだフリースもトレーナーも脱いでTシャツになった僕たちは、ヨットの並ぶハーバーを見下ろせるカフェテリアで、くつろぎながら安息の時を楽しんだ。(昭浩)

パームツリーの間を走るトラム
ヨットハーバーを見下ろせるカフェで

今日したことをあげると、午前中に洗濯、昼間は宿の中庭でバックギャモン、夕方地中海の夕日を見ながらビールを飲んだくらいだ。そんな日もあっていいと思う。僕たちは仕事もしないで毎日が日曜日の生活をずっと続けているように思われがちである。だけど、実はそうではない。毎日観光と移動を続けていたら、毎日働いているのと同じことだ。それこそ過労死かノイローゼになってしまうかもしれない。サラリーマンの人たちが週休2日休むような“休日”というものが長期旅行者にも必要なのだ。自分を大変都合よく正当化しているともいえるが、僕にとって今日という日は大変意味のある楽しい“休日”だった。

その夜、子羊の頭の丸焼きを食べた。頭が真っ二つに切られたものをお皿にのせる。断面が見えるようにのせる。逆向きにのせると子羊の目が合ってしまう。それはかなりグロい。
脳みそ、舌、歯と骨が見える。脳みそ…白子のよう、舌…コリコリした歯ごたえ、アゴ肉…大変やわらかいお肉、どれもうまい。3つのバリエーションが楽しめて、ボリュームがあって、これで、一人1.75ミリオンTL(131円)は安い。
しかし、なぜだろう?確かにおいしいのだけど、またもう一度食べたいという気にはなれなかった。(昭浩)

羊の頭の丸焼き

今日はトラムが休み。知らなかった。これで予定がすべて狂った。ミュージアムに行く予定だったが、やめてメールチェックしたり、トルコ菓子を買ってきて宿でお茶したりしてだらけた日を送っている。
こういう何もしない一日を過ごしているとなぜかあせってくる。早く前に進まなきゃって気がしてならない。時間の自由はあるはずなのに時間に追われている・・・
ここ最近、時間に追われがちな旅が続いていたからそのクセが抜けていないのだろう。急ぐ理由なんてないのに。その心境を映子に話すと映子も驚いたように、「私もなの!」と同意していた。結局、自分の心の中が時間から自由にならない限り、どんな環境にいても時間に追われてしまうものなんだなあ、とふと気づく。自由とはまわりの環境で決まるものではなく、「自分は自由である。」と自分で決めるものなんじゃないだろうか。(昭浩)

アンタルヤの周辺のローマ遺跡 11月4日

 アンタルヤのまわりにもローマ遺跡がいくつかある。もういい加減ローマ遺跡も見飽きたが、世界一保存状態がいいといわれているアスペンドスのローマ劇場は見てみたかったので、今日も遺跡めぐりなのだ。(昭浩)

アスペンドス

世界で最も保存状態がいいといわれるローマ劇場だけあって、エフェスのローマ劇場のような、いかにも修復しました、といった部分はほとんど見当たらない。あまりにもできすぎているため、遺跡という印象を受けない。夏のシーズンにはここでちょくちょくオペラやコンサートをやっているそうなのだが、それはぜひ見てみたいものだ。

ベルゲ

崩れたスタジアムが悠久の時を感じさせる。保存状態がいいとは決していえないが、かなり広い範囲に遺跡が残っている。それほど整備されているわけでもないので、遺跡の自然の姿が見られる。そんなところが僕は好きだ。エフェスの遺跡とは対象的。長いメインロードを歩きながら当時の状況を想像するのが楽しい。

スィデ

ビーチのすぐそばにあるローマ遺跡。遺跡のすぐそばで海水浴を楽しむというのも悪くはないが、リゾート向けのホテルとレストランしかないので貧乏旅行者には難しいかもしれない。海と遺跡という構図はすばらしい。

海底遺跡ケコワ 11月5日

 映画AIに出てくるような水中に沈んでしまった町、そんなところを未来少年コナンのように素潜りで海の中を自由に泳ぎまわり、古代遺跡のゲートをくぐる。海底遺跡と聞けばそんなイメージがわいてくる。
ケコワ島には2000年前に地震で沈んだ町の遺跡。地中海に沈んだまま眠る町。ロマンあふれる場所ではないか。

遺跡のゲートを素もぐりでくぐることはできなかった。ゲートどころか、水上から見ると大きな石のかたまりしか見えない。その場所は、停泊禁止なのか止まらずに遺跡らしきところをゆっくり通過していく。風が吹いて波立っているので水面下はなんとなくしか見えない。「こんなんでいいのか?水中遺跡」少しだまされたような気になりながら僕たちはアンタルヤへ帰っていった。
遺跡はやや肩すかしであったが、地中海は良かった。僕は一年ぶりに泳ぎまくった。プール開きの日の小学生のようにはしゃいだ。クルーザーからブルーの世界へと飛び込み、クロール、平泳ぎ、潜水、溺れているように見えるバタフライまで披露した。地中海スイミングを満喫した僕はそれで十分満足だった。(昭浩)

地中海!蒼い海!
うっすらと水面下に見える?遺跡

僕たちの泊まっている宿に日本からマツタケ先生がやってきた。日本松茸研究所の所長である先生は、いわばマツタケの権威であろう。なぜ、アンタルヤにやってきたか。それは、トルコがマツタケの産地だからだ。かなりの量を日本に輸入しているらしい。トルコ人はマツタケなんかには見向きもしないので、季節のいい時に山へ入るとマツタケがポコポコ生えているのだそうだ。先生は研究のためのサンプルの採集に来たのだが、僕たちのためにマツタケを採ってきてくれるというのだ。先生は、「私が帰ってこなくても、マツタケだけはここに届くようにしますから」と寂しいことを言って山へ出かけていってしまった。

・・・二日後、マツタケとともにマツタケ先生は帰ってきた。

スーパーでしょうゆを買い、それでマツタケごはんを作った。さらに、焼きマツタケにしてごはんと一緒に食べた。土瓶蒸しのような高度なものはトルコでは作れなかったが、このトルコでマツタケ三昧の夕食が食べれるというのはたいへんうれしい。ひさしぶりに食べるマツタケには、心にしみる味わいがあった。同じ宿に泊まっている日本人と一緒にマツタケを囲んでいると、日本のペンションにでも泊まっているかのようだった。(昭浩)

マツタケ以上に先生の人柄がすばらしい

なぜ、ここアランヤに行きたがっていたのだろう?理由を忘れてしまった。ここは、海に突き出た山の上に城砦がある場所として有名。海岸沿いにはリゾートマンションやレストランなどが並んでいてかなりツーリスティックな雰囲気。「マツタケ待ち」をしていた僕たちは時間があったので、アンタルヤから1時間で来れるアランヤに日帰りで来てみた。

城壁からは地中海の180°のパノラマが広がる。眼下は断崖絶壁がまっすぐと海へと伸びている。城壁以外のものはあまり残っていないが、ここからみる地中海は大きく水平線まで続いていた。(昭浩)

地中海はとてもきれいだった。特にこの日天気がものすごくよくて、お城の上から見下ろした海は最高。ここで私たちは、地中海でダイビングすることを決意したのだった。(映子)

アランヤ城壁から望む地中海

地中海ダイビング 11月8日

 僕はダイブマスターである。ダイブマスターとは、インストラクターのアシスタントをしたり、海の中をガイドしたりできる一応プロの資格だ。しかし、1年以上海に潜っていない僕にとって、この資格はプレッシャーの元だ。ダイブマスターなのに、機材のセッティングは忘れた、とか、潜降の時に、沈めない、とかはずかしくていえない。そういう下手なことできないというのはとてもプレッシャーなのだ。
そう今回の目的は、人気のダイビングポイントであるエジプトの紅海での“本番”に備えて、人の少ないオフシーズンの地中海で慣らしておくことなのだ。

今日は朝から雨。透明度も悪くぱっとしないダイビングだった。
僕はダイビングの時、かなりの確率で雨を呼ぶ男だ。日本で潜る時は、8割近くが雨または台風。八丈島から台風で帰れなくて大事な仕事に間に合わなかった手痛い経験もある。昨日までずっと晴れていたアンタルヤに雨を降らす自分の雨運を呪った。冷たい海のダイビングで凍った体にハマーム(トルコ式サウナ風呂)がせめてもの救いであった。(昭浩)

さよならアンタルヤ 11月9日

アンタルヤでは少しゆっくりしようと思っていた。しかし、こんなに長くいることになるとは思ってもみなかった。ここは海があって、雰囲気がよくって、気の合う旅人が集まっていた。だから、毎日楽しかった。
同じ宿に泊まっている旅人は、昼間それぞれ違うことをしていて、例えば毎日ビーチに泳ぎに行っている人、トルコ語を勉強している人、ダイビングの講習を受けている人、部屋でゴロゴロしている人、みんなバラバラ。でも夕方になると宿に戻ってきて、キッチンでそれぞれ夕食を作り出す。みんなでごはんを食べながら、夜中まで話し込む。なんか学生時代の合宿の夜を思い出す。旅が楽しいかどうかって会う人によって大きく変わるものだとつくづく思う。(昭浩)

アタチュルクの命日、荒れ狂う海を渡り、北キプロスへ 11月10日

海は荒れていた。地中海といえば四方を陸地で閉ざされた海である。それなのに、このばかでかいうねりはなんなんだ。

僕たちの乗った船はシーバスといわれる高速艇である。モーターボートを大きくしたような形をしており、これがまたやたらとスピードをだす。大きなうねりを超える時、一瞬宙を浮く。1,2秒のふわりとした自由落下の後、ドシンと衝撃を伴いながら着水する。そして船はメキメキメキと痛々しい悲鳴をあげる。はじめのうちは小さな悲鳴のようなものが船内こぼれていたが、それはそのうちゲロの不快音へと変わる。あちこちでみんながゲロっているので船内は甘酸っぱい臭いが漂う。

台風の後八丈島から戻る船でもこれほどの揺れはなかった。船乗りのじいさんの血をひく僕は、船にはかなり強いほうだ。そんな僕でさえ気分が悪くなってきそうだ。船酔いしないために遠くを見ようと窓の外を見ると、大きな壁のようなうねりが次々と向かってくる。そのうねりのピークは船よりも大きく、見ているだけでも恐ろしい。
だから、僕はこの現実から逃げようと目をつむり眠ろうとするのだが、僕の席の真後ろから「オエーオエー」と聞こえてくる。マジで勘弁してほしい。

それから船は何度も止まった。そして何度も、これは遭難したのではないだろうか、と僕たちを怖がらせた。
2時間でつくはずのところ結局5時間近くかかってようやくキプロス島に到着した。フロントデッキに預けていた僕らのバックパックはすっかり水浸しになっていた。
船のなかは、いろんなところでゲロの跡があったが、今がラマダン中だったからマシなのかもしれない。ラマダンを怠ってごはん食べてしまったトルコ人は、アラーの神の怒りにふれ、ゲロの制裁を加えられたのだろう。(昭浩)

ギルネでしたこと。ガイドブックはどうなった? 11月11日

「世界一周する時ってガイドブックとかはどうしてるんですか?全部持ってきてるんですか?」
よく受ける質問だ。

ガイドブックの大半は持ってきている。だが、全部ではない。アフリカ以降のガイドブックはイスタンブールに来た両親に持ってきてもらった。それ以降のものは他の荷物と一緒にスペインにある日本大使館に送ってもらうつもりだ。送る分の荷物はすでにまとめて日本を出てきた。
世界一周をしている旅人に何人かあったが、多くの人はガイドブックを現地調達している。そのほうが身軽に旅ができる。現地調達とは会う旅人からもらったり、コピーさせてもらったり、本屋で買ったりということだ。20冊くらいのガイドブックを持ち歩いている人に会ったことあるが、恐ろしく荷物が重いとぼやいていた。

僕は昔からガイドブックを見るのが好きで、実は旅に出る1年くらい前から月2、3冊ペースで購入してはながめていた。それは、僕の楽しみでもあった。だから、地球の歩き方については行く予定の国全冊買った。旅行人ノートやロンリープラネットも何冊か持っている。せっかく持っているので、わざわざ送ったり届けたりしてもらいながら部分的に持ち歩いて旅しているわけだ。

その愛読書であり、旅の指南書でもあるガイドブックが昨日北キプロスへ渡った時にズブ濡れになってしまった。本だけでなく、寝袋、下着、ティッシュ、もろもろすべて塩水に浸かってしまった。だから今日は洗濯や荷物を乾かすのに忙しい。特に本は大変だ。1ページ1ページていねいにめくってはタオルでプレスして水分をとるという作業で、ほとんど丸一日費やしてしまった。なんと非生産的なことをしているのだろう。北キプロスでの不毛な一日だった。(昭浩)

北キプロスのギルネの海

ベッラパイス修道院とギルネの町 11月12日

ここ北キプロスからはっきりとトルコの地が見える。天気になって初めて気づいた。思ったより近いではないか。一昨日遭難しそうになったのがバカみたいだ。荒れている時は、見ているだけで酔ってきそうな海も、晴れると真っ青に輝くきれいな海だ。

僕たちはベッラパイス修道院という遺跡から地中海とその向こうに見えるトルコの地を見下ろしている。気分がいいよ、ここは。
北キプロスに来て今日で3日目。この島のことはまだ多くは知らないが、この島の魅力は良すぎないことじゃないかと思う。すっごくいい!っていう場所じゃないけど、ちょっといい、そんなやや控えめな魅力がある。ちょっといい、というのはマイナーな観光地の最大の美徳じゃないかと思う。(昭浩)

ベッパライス修道院/14世紀に建てられたフレンチゴシックの修道院跡。回廊のアーチ装飾が美しいとガイドブックには書いてある。確かにアーチはきれいだ。しかし、この修道院のいいところは、ここからの眺めに尽きる

分断された首都レフコーシャ 11月13日

白黒はっきりしろ!という人はいるけれど、僕はグレーという答えもあっていいと思う。

北キプロスはグレーな国だ。元々キプロス共和国という島全体がひとつの国だったのが、島に住むギリシャ系住民とトルコ系住民との衝突をきっかけに二つに別れ、北キプロス共和国として独立宣言した国。トルコ以外の国は、北キプロスを国として認めていない。トルコ側ではここを北キプロスと呼んでいるが、キプロス共和国(南側)はここを「トルコの侵略地」と呼んでいる。
北キプロスでは、トルコ語が標準語として使われ、クレジットカードでキャッシングすればトルコリラしか出てこない。国旗だって、トルコの国旗を赤と白を反転させたデザインだ。その国旗が掲げられているその横には必ずトルコの国旗も掲げられている。
国のようで国でない。トルコのようでトルコでもない。キプロス共和国の一部でもないような気がする。だからグレーなのだ。
しかし、それもひとつのあり方だと思う。元のようにキプロス共和国としてひとつの国であるほうがいいという考えかたもあるが、少なくとも北の人間はそれを望んでいない。それで衝突があるならとりあえず平和な状態を維持している今の状態のほうがいいではないか。今日はグレーだけれど、時が経つにつれてだんだん白に近づいてくるということだってありうる。

このグレーな国の首都レフコーシャ(南側の呼び名はニコシア)は分断線によって二つに分かれている。昔のベルリンを知らない僕らにとって、首都が分かれているっていうことが、一体どういう状態なのかまったく想像つかない。だから興味深い首都なのだ。
分断線の場所には普通のコンクリートの壁が続いていた。高さは4,5mくらい。壁にはアーミーの絵が描かれ、「STOP」と書いてある。分断線近くは朽ち果てた建物が並んでいる。これらは1983年の戦争の時のものだろうか?なんだか雰囲気も悪い。ニューヨークのひと気の少ないエリアのような危険な雰囲気だ。イイットレル塔公園に行くと金網越しに隣国キプロス共和国の町が見れる。ここ北キプロスとまるで同じに見えるが、明らかに違うのが掲げられている国旗だ。金網の向こうは、キプロス共和国の旗とその横にギリシャの旗が掲げられている。
分断線上にある人のあまりいない寂しげな公園。そこにあったポツンとあったブランコとすべり台が妙に心に残っている。(昭浩)

赤いトルコの国旗と白い北キプロスの国旗

ガズィマウサの観光名所  11月14・15日

レフコーシャの町から約1時間バスに乗って、ガズィマウサに着いた。意外に早く着いたので、町を散歩してみた。城壁に登ると海が見える。そして、歩いていて偶然見つけたオセロ塔に行った。(映子)

オセロ塔

シェークスピアのオセロの舞台になったといわれているところ。だからといって、シェークスピア本当にここに来たのかな?という感じ。特にこれといった見所がない、ただの要塞。オセロのストーリーを思い出そうとするけれど、思い出せない。オセロが黒人(ムーア人)だったこと、映画の中で、坊主頭だったことくらいしかわからない。帰ったら映画を見てみよう。

レオナルド・ダ・ビンチは来たらしい

サラミス

パウロがキリスト教の布教で訪れた地として有名なサラミスは、ガズィマウサ郊外にある。タクシーで10分くらい、そこには廃墟の町とリゾートホテルがある。
ローマ遺跡はかなり大規模に残っている。まずはエクササイズをしていたところとハマムの跡。フレスコ画とモザイク画が少し残っていた。そして、体だけ残っている銅像。次に劇場。かなり修復されている。劇に使えそうだ。
そこから歩いて、ハマムとオリーブオイル工場、そして教会跡へ。教会では、床のモザイクがきれいに残っていた。それは、幾何学模様で、色も鮮やかに残っていた。パウロの時代のものだろうか?
最後に見たアゴラは、人々が集まる場所。買い物をするところ。柱は1本しか残ってなくて、後は廃墟。昔はこの広い土地に、大きな建物があったのだろう。
ここを訪れる人は少ない。けれど、海があって遺跡があっていいところだ。帰りのタクシーがくるまで、しばらく海を見ていた。海の底が見えるくらいとてもきれいな海だった。

北キプロスのローマ遺跡サラミス
誰もいない海。映画にでてきそうな風景

散歩が楽しい町、ガズィマウサ  11月16・17日

初めてここに来たとき、この町についてまったく情報がなく、地図もなく、どこに行ったらいいかわからなかった。何とか宿を見つけて、トルコに戻るフェリーの切符を取りに行ったけど、17日まで船はないという。
この町で、「3日間もやることがないかな」最初はそう思った。そこで私はいいことを思いついた。「そうだ。ガズィマウサの地図を作ろう!

観光を一通り終えてから、私は旧市街の城壁の中を歩き始めた。まず、近くの城壁の上に登ってみた。ここからの眺めは、ガズィマウサで一番いい。海が見えて、3つの教会が見えて。教会といっても、1つはもうジャミィ(モスク)に作り変えられている。あとの2つは廃墟のまま。
この旧市街には、遺跡がとにかくたくさんある。遺跡の中に街がある、そんなところだ。当然雰囲気はとてもよく、散歩が楽しい。その日は結局、その城壁に3回も登った。夕方、夕焼けの色と、海の色、空の色、そして教会がとてもきれいだった。ほかにはもう何もいらない。そんな景色だった。

翌日は、もっと細い道も歩いてみた。すると怪しげなおやじが近づいてきて握手を求めてくる。突然「オピウム」と言われた。びびって逃げてきた。昼間だったし、人通りのあるところがすぐ近くなのでよかった。
ジャミィに作り変えられた元教会の絵を書いていると、中国人の団体旅行者に会った。ガイドの青年は、4年も北キプロスに住んでいる中国人で、英語がぺらぺら。少し話しをした。
パスターネ(お菓子屋)のお兄さんとも顔なじみになってきた。ここのバクラワは、今までどこで食べたものよりもおいしい。こうやって、いろんな人との出会いがあるのも楽しい。

そして、今日も新しい遺跡を見つけた。毎日新しい発見がある。路地裏を歩いて初めて、その町のことがわかってくるんだなと思った。地図はやっと完成し、いよいよここを去るときが来た。しばらく過ごしていたこの島を去るのは、とても寂しい。またいつかここに帰ってきたい。そう思えるところだった。(映子)

映子のフットワークには恐れ入る。彼女が地図づくりのため町を歩き回っていたのに対し、僕はほとんど宿でゴロゴロして過ごした。静かな町なのでごろごろするのもよかったよ。(昭浩)

城壁から見たガズィマウサの町。遺跡とやしの木と海の町

トルコ最後の町へ  11月18日

キプロス島から今朝トルコのメルスィンという港町に着いた。そこから、トルコとシリアの国境近くにある町アンタクヤに向かう。アレキサンダー大王がダレイオスと戦ったイッソスの古戦場が近くにあるところらしい。いよいよトルコで訪れる最後の町である。

トルコには約2ヶ月いた。すっかりこの国に慣れきってしまった。他の国に行くのがおっくうになる。人もいい。治安もすこぶるいい。食べ物はおいしい。ワインもおいしい。デザートも甘いお菓子もおいしい。気候は日本と似ている。観光地はいっぱいある。欲しいものはだいたい手に入る。物価はまあ安いかな。北キプロスとトルコをあわせると滞在日数は中国に次いで二番目。ついつい長くいてしまった。そんなトルコとも明後日にはさよならだ。 (昭浩)

アンタクヤのモザイク博物館 11月19日

アンタクヤにあるモザイク博物館にいった。ここは文字通り、このあたりで出土したモザイク画が展示されてある。モザイク画は見た感じがやわらかい。ギリシャ神話の神々もなんだか愛嬌がある。アレクサンダー大王もかわいらしい。 モザイク画を考えた人ってエライと思う。どうやってこんなものを思いついたのだろう?普通の絵では絶対出せない味がある。ここのモザイク画をデジカメに収めたので、日本に帰ったら、そのモザイク画をプリントしたTシャツを作ろう思う。(昭浩)

こんなモザイク画のTシャツ作ってもあんまりパッとしないかなあ
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