8月8日〜8月18日
イラン、この国に来るのは二度目だ。この前は、イランイラク戦争が終わった翌年1988年の夏だった。
当 時は荷物チェックが厳しく、大きなバックパックの中身を隅から隅まで入念にチェックされた。それは、僕だけでなく国境を通る全ての人がその厳しいチェック
を受けていた。ガイドブックの中も細かくチェックし、箱という箱は全て開けられた。さんざん人のバックを開け荒らして、チェックが済んだら全く片付けよう ともしない係員にムカついた。
僕を含めた4人のツーリストは、荷物チェックを一番最後にされたため、朝パキスタンの出国スタンプをもらったのに、イランに入国したのは夕方だった。唯一の最寄の町への足であるバスの最終便は、イラン人で満員で僕たちは乗せてもらえず、
「バスの屋根でもいいから乗せてくれ」
と懇願する僕らに運転手は冷たく
「ここはパキスタンじゃない。屋根には乗せられない。」
と誰もいない国境に置き去りにされたのだ。
僕にとって忌まわしい思い出の国境だ。
今回は、まったく何もなかった。荷物チェックもなし。パスポートにスタンプを押されて終わり。あと、若い兵士に「ウエルカム トゥ イラン」と言われたく らい。拍子抜けするほどあっさりしている。苦労して越境した昔の自分に申し訳なく思う。もうここはその頃のイランではないのだ。これから旅するイランは、 多分僕の知らないイランなのだろう。
イ ランに入るといろんなものが変わった。カレーが町のレストランから消え、英語が全く通じなくなり、アラビア数字からペルシャ文字の数表記に変わる。パキス タン人に比べイラン人のほうがよそよそしく感じる。でも僕たちに興味はあるみたいだ。そして、何が一番変わったかと言えば、隣にいる映子がいつもスカーフ を頭につけていることだ。バスの中、レストランではもちろん、ホテル内の部屋以外の場所、トイレや洗面所、シャワールームまであらゆる場所でスカーフを巻 いている。これは、イランの法律で決まっていることだから仕方のないことだけど、顔を洗ったりシャワーを浴びたりするのにスカーフ巻いていかなきゃいけな いってとても面倒くさそうだ。僕にとっては、いつでもスカーフを巻いている映子は滑稽で見ていて楽しい。(昭浩)
バムにあるアルゲバムという遺跡に行った。
ここは1722年アフガニスタン軍に包囲されたときに棄てられた町。城壁に囲まれた町がそのまま遺跡になっていて、城壁の中に一歩足を踏み入れれば、タイムスリップできるところだ。1722
年といえば、日本は江戸時代、享保の改革の頃だ。日本でその頃の町並みがそのままに近い状態で残っているところはどこだろう。京都の映画村くらいしか思い つかない。そう考えると、ますますこりゃすごい、と思えてくる。お城の上から町を見下ろすと当時のシャー(国王)の気分が体験できる。(昭浩)
僕たちはバテ気味だ。
夜 行で移動して着いた場所で1泊、そしてまた夜行で移動する。ラホールを出てからこのペースで移動と観光を繰り返してきた。朝、シラーズの町に着いて、あま
りのしんどさに宿で倒れるように眠ってしまった。本当はこの日のうちにペルセポリスを観光する予定だったが、今日は休養することにした。訪れる場所を減ら してでも、体を休ませなければいけないと思った。急いで旅をすれば、それだけたくさんいろんなものが見られるが、それよりもっと大切なことってあるんじゃないかと思う。体力の充実、心の余裕、これこそ旅を楽しむために必要な条件なんじゃないかな。
午 後3時ごろまでベッドでゆっくり休んで、すっかり体力を回復した僕たちは、バザールに散歩しに出かけた。バザール、それは天井には典型的なイスラミック アーチが続くアーケード。そこでは、お土産や金銀細工、布屋、食べ物屋が並ぶ。香辛料の香りがただよう。黒いチャドルを頭からかぶった人の波。パキスタン と違い、外に出ている女性の姿が目立つ。この場所が最もイランを感じさせるところかもしれない。
ショッ ピングに疲れたら、近くのチャイハネ(喫茶店)でチャイをすする。僕たちの入ったところは、マスジェデヴァキールというモスクの隣にある、中世のペルシャ
の空気をそのまま店内に運び込んだ、すばらしい雰囲気のチャイハネだった。アンティークな石造りの店内の中央には金魚が泳ぐ池があり、ドーム状の天井にあ る天窓からは自然の光がスポットライトのように差し込む。それを囲むようにペルシャ絨毯のひかれた席があって、靴を脱いでクッションにもたれながらくつろ
ぎ、チャイを飲む。壁にある古代のレリーフを間接照明が映し出していて、瞑想でもしたくなるような心地よいクラシック音楽が流れている。
このチャイハネは、身も心も疲れ果てていた僕たちに、元気を取り戻してくれた。喫茶店・オブ・ザ・イヤーにぜひ推薦しておきたい。(昭浩)
ペルセポリスの入場料は高い。一人900円もする。
僕たちは、学生割引にしてくれと、スチューデントカードを見せて粘るが、チケット売り場のおやじはガンとして受け付けない。
「お願いだから、学生割引してよぉ」
と最高のスマイルでお願いしてもダメだった。
「なんで学割きかないんだよぉ」
舌打ちして僕らはチケットを買った。
考えてみればヒドイ話だ。ヒドイのはもちろん僕たちの方。学生でもないのに学生と言い張ってるのだから。
ペルセポリスの後行ったエラム庭園でも同じだった。学生割引にして、と何度頼んでも、学割はないよ、といって返されるばかりだ。これは困った。エラム庭園の入園料が大幅に値上げされていたため、この時は本当にイランのお金の持ち合わせがなくて、中へ入れなかったのだ。
ちょうどその場をイランの大学生の集団が通りかかった。そのうちのひとりが困っている僕らを見て
「僕たちと一緒に入ったら大丈夫だから」といって、受付の係員に交渉してくれた。
「この二人の日本人も僕たちの仲間だから」そんなことを言って交渉しているようだった。
それでも係員のOKはでなかった。しばらく、ショボンと門の前で座っていたら、係員が、来い、と手招きしている。そして、二人で1人分の料金でいいよ、と中へ入れてくれた。
同情して値段を半額にしてくれるなんて日本では考えられないことだ。何人ものイラン人の好意のおかげで勝ち取った「半額」である。学生でもないのに、学生料金にしろ、といったりして、彼らの善意を裏切っているような気がした。でも、イラン人の旅人に対するやさしさは、純粋にうれしかった。(昭浩)
僕は今でもあんなことを言ってしまったことを後悔している。
昨日、僕が泊ったシラーズの元シェラトンホテルを見に行った。戦後の荒廃した雰囲気はなく、今はホマーホテルというイランの高級ホテルとして、エレガントな雰囲気を漂わせていた。当時僕は、身分不相応なこのホテルに泊っていた。
14年前にこの国を訪れたとき、為替が乱れていた。公定レートと闇レートの差が10倍もあった。 戦争中や戦後というのは、その国の通貨は暴落するためそういうことが起きやすいらしい。ほとんどの物価は、闇レートを基準にしているので闇両替しないと結
果的に10倍も高い買い物をするハメになる。反対に、国営の施設は公定レート換算で値段設定されているため、えらく安上がりになる。市場価格の1/10に なるのだ。その恩恵を一番受けやすいのが、ホテルだ。イラン革命によって、外資系一流ホテルは全て国営へと変わった。だからシェラトンホテルだったところが、1泊500円くらいで泊れたのだ。
僕はホテルのロビーでイスファハンから来ていたアボス君という当時20歳くらいのイラン人と知り合った。彼と一緒にペルセポリスを見に行き、彼と一緒にシラーズからイスファハン行きのバスに乗った。今日、僕と映子が移動したこの路線だ。
イスファハンではアボス君の家に泊めてもらった。当時エマーム広場といったところに全く興味のなかった僕は、イスファハンの記憶はアボス君の家のなかだけ だ。アボス君は、僕をいろんなところに連れて行ってくれた。つまらなそうについてきていた僕をどういうふうに思っただろうか?
ある日、アボス君は、戦場での写真を僕に見せてくれた。イラクとの国境付近の戦場で機関銃を構えてポーズをとっている。アボス君は、僕に言った。
「僕はたくさんのイラク兵をやっつけたんだ。」
僕は、冷たく答えた。
「人を殺して楽しいの?」
それまで笑顔だったアボス君は、押し黙ってしまった。その時の、とても寂しそうな目が僕は今でも忘れられない。
その翌日僕は、テヘランに向かってアボス君の家を発った。
僕 は、アボス君にあんなことを言ってしまったことを今でも後悔している。戦争を知らない僕に何が言えるのだろうか?戦争を知っている者しかわからない、戦場 に行った者しかわからない、つらいことや悲しいことがあるに違いないのに。やさしい彼が人を殺して楽しいわけがないというのは、わかることなのに。
もう一度、イスファハンでアボス君に会いたいけど、僕はアボス君の家をもうすでに忘れてしまっている。(昭浩)
「イスファハンは世界の半分だ」
17世紀イスファハンが最も栄えていた時に言われた賞賛の言葉だ。イラン人にとっても自慢の美しい町らしい。
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「えっ、これがエマーム広場?あの世界遺産の?」
これが、最初見たときの印象だ。車がブンブン通るただ広いだけの広場。映子は大変期待していただけにかなり失望している様子。
「あーあ、世界4大がっかりだよ。」とまで言い出す。
しかし、このエマーム広場に面したモスクやシャーの王宮は良かった。僕のお気に入りは、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーというモスクだ。ややマイ
ナーだけど、このモスクの中の雰囲気に惚れた。タイルの模様が美しい。目をつむっていても、体全体に模様から発するエネルギーを感じる。タイルの色や中に 差し込む光のバランスもすばらしく、透明なオレンジ色の空気が自分のまわりを包んでいるよう。
それ以外にエマーム広場の顔、マスジェデ・エマームというモスクやアーリーガープ宮殿といったところの空間装飾は、頭の中の想像力をつかさどる部分を刺激するような独特な趣があった。
生まれ変わって、建築家とかインテリアデザイナーになったら、僕は必ずここを訪れにくるにちがいない。(昭浩)
イスファハンのお気に入りは、夕方の河原の散歩だ。
イスファハンを流れる川沿いには、きれいに手入れされた芝草が生えている。週末にはイラン人の家族がこの河原にピクニックにやってくる。家族が集まって、バーベキューをしたり、チャイを飲んで談笑している。平和な光景だ。
川にかかる橋は、オールドペルシャを思わせる造りで情緒がある。サンセット前には、その美しく長い影を川面に落とす。
近くのお菓子屋でおいしいシュークリームを買って、食べながら河原を散歩するのがイスファハンでの日課だ。イランの夕日は、空気が乾燥しているせいか、昼間と同じようにオレンジ色に輝き、強い光を失っていない。
こんなイスファハンならではの風景が気に入っている。散歩道・オブ・ザ・イヤーに推薦しておこう。(昭浩)
イランの交通費は安い!ここは産油国だからガソリンが安いからだと思うが、それでも安い!
イスファハンからテヘランまで約7時間の距離が230円。乗合タクシーも2,3キロで7.5円。15円も払えば町の中ならある程度のところへはいける。ガソリン代は国から支給されているのではないかと疑ってしまう金額だ。
飛行機は使ってないけど、飛行機も安いようだ。国内線なら3000円くらいでどこでもいけてしまう。
「飛行機が安いから飛行機で移動しよう!」と一度映子に提案したことがある。しかし、反対された。今回は少々大変でもできるだけ、バスと電車で行きたいのだそうだ。
映子が曰く
「そのほうが、地球の大きさがよくわかるでしょ」
女は旅に出ると強くなる、そう感じた瞬間であった。(昭浩)
●シャーの生活 1
シャーの朝は早い。朝7時にシャーの部屋で電話が鳴る。なにやら仕事の話しをしている。日本からの国際電話のようだ。シャーは電話を切ると、装いをあらためて出て行った。シャーは忙しいらしい。
僕たちは昨日の夜からシャーの豪邸に居候している。
昨日の夕方にシャーの家に着いた。シャーの住むところは、テヘランの街を一望できる超高級マンションである。入り口には、英語の堪能なガードマンがいて、 地下にはマンションの住人が自由に使えるプールやサウナ、スポーツクラブがある。シャーの豪邸には、展望レストランのように窓がたくさんあって、アン
ティークの調度品や体にとてもよくなじむソファーの置かれた広いリビングやテヘランの夜景が美しい2つのベッドルーム、それに、トイレが3つにお風呂が2 つ、仕事部屋まである。掃除の行き届いたその豪邸は、まるで一流ホテルのスーパースイートルームのようだ。
昨日、シャーの豪邸に着いた時、僕はリビングに通してもらえなかった。汚かったからだ。汚かっただけではなく、体がかゆかった。僕はジンマシンだと主張したのだが、ノミ疑惑は晴れなかった。シャーの命令で、玄関に荷物を置いた後、すぐにお風呂へと連れて行かれたのだ。シャーの家は、ヨゴレの入れない聖域なのだ。 僕たちは、一週間シャーの豪邸でシャーの生活を楽しんだ。 //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
●シャーの生活 2
シャーは、一部上場の日本企業の所長として、ここテヘランでお勤めされている。地を這いつくばって旅してきた僕たちにとって、その生活ぶりは王そのもの、まさにシャーなのである。
シャーは、同じ大学の同級生である。大学は同じでも、シャーは英語をネイティブのように話すバイリンンガルであり、試験をパスして大学院へと進んだエリートである。シャーは、日本やタイ駐在時に実績をあげ、若くしてテヘラン駐在所の所長へと出世した。今や何百億の金を動かし、接待交際費を自由に使い、お抱え運転手に、個人秘書までいる。
そんなシャーの友達である僕たちもその恩恵にあずかることができる。
「テ ヘランの考古学博物館を見に行きたい」と言えば車での送り迎えがあり、歩いて5分くらいの場所にある「スーパーマーケットまでの行き方がわからない」と言
えば、これもまたお迎えがシャーの家まで来てくれる。「両替がしたい」と言えば、シャーの秘書がヤミ両替屋で銀行よりいいレートでドルをイランリアルに変 えてくれる。シャーは、日本大使館にも顔がきく。場所によっては、丸一日、早いところでも30分以上はかかるパスポートのページの増刷。それをテヘランの
日本大使館でした時、「このふたり、僕の友達なんでよろしく」とシャーが言ってくれたおかげで、たったの5分で増刷が終わってしまった。「キャビアが食べ たい」と言えば、今朝採れたばかりの最高級ベルーガキャビアを用意してくれる。シャーとしての力をまざまざと見せつけられたテヘランでの生活だった。
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●シャーの生活 3
シャーは、水道の水を飲まない。イランの水道は大変衛生状態が良く、水道水をそのまま飲んでもまず問題ない。しかし、シャーは、「ダマバンド」というブランドのミネラルウォーター以外の水は飲まない。
シャーの家では、ほとんど自分の家のように自由にさせてもらえたが、唯一シャーに強く命じられたことは、「ミネラルウゥーター以外の水は飲むな」、という
ことだった。コーヒーや紅茶を飲む時はもちろんのこと、煮物やごはんを炊くときも必ずミネラルウォーターを使えという、シャーからの厳命であった。
イランの食事にすっかり飽きていた僕たちは、シャーの家で自炊をはじめるのだが、その間、一滴も水道水を飲むことはなかった。
ここシャーの家ではいくつか料理を作った。肉じゃが、パスタ、ポトフ、ロールキャベツ、極め付きはキャビアごはん。高級フレッシュキャビアと炊きたての日本産コシヒカリの組み合わせは絶品であった。
イランで料理をするときに何がネックになるかと言えば、それは酒である。醤油は売っているが、酒は国で禁じられているから、いくら料理用とは言え、どこを探しても売っていない。和食を作るときに酒がないのは、大変困る。肉じゃがを作るときは、密輸した貴重な酒を使わせてもらった。
イランは物価が安く、とくに野菜が驚くほど安いので、自分たちで料理を作ればかなり安上がりだし、何よりも楽しい。
連れて行ってもらったテヘランの最高級のレストラン、キャビア、自分たちで作った和風料理、僕たちはイランで最高の食生活を楽しんだ。これもシャーのおかげだ。 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
●シャーの生活 4
シャーは、落ち込んでいる。 大事なコンペで負けてしまったようだ。シャーの仕事は国家プロジェクトなので、一つの仕事で多額のお金が動く。会社からの期待も大きい。落ち込むのも無理 はない。元気づけてあげたいけど、元気づけられる言葉を僕は知らない。事情も知らないのに、無責任な言葉はかけられない。僕たちができることといったら、 おいしいごはんを作って一緒に酒を飲んでバカ話をすることぐらいだ。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// ●シャーの生活 5 シャーは、手を振って行ってしまった。シャーは僕たちをテヘラン駅まで見送りに来てくれたのだ。シャーの最後の一言は「誘拐に気をつけろ」だった。シャーの生活は、何もしていないのに足早に去っていってしまった。
朝10時起床。朝食の後、1時間くらい長いお風呂に入る。昼食を作って食べるともう昼の3時ごろ。それから、日当たりのいいソファーや眺めのいいベッド ルームで昼寝したり、DVDの映画を見たり、たまには地下のプールで泳いだり、サウナに入ったりして日暮れまでの時間を楽しむ。暗くなったら夕食を作り始 め、シャーが帰ってきたら一緒にごはんを食べて、密輸した酒を飲む。毎日こんな生活だった。
ここはテヘランだけど、シャーの家のなかは日本だった。日本のお米、日本の調味料、日本の本や雑誌、日本のNHK衛星放送、日本語字幕の映画のDVD、そして日本の友達がいた。旅が日常となっている僕たちにとって、ここでの日本的生活は夢のような非日常だった。この生活に慣れてくると、バスや電車を乗り継ぎ、人にもまれて1年ちかく旅をしていたのが現実じゃないような気がしてくる。そして、重いバックパックを背負って旅をまた続けることが辛いもののように感じてくる。
本当はもう少しここにいたいけど、僕たちは行かなければならない。そして、シャーともお別れだ。シャーには本当にお世話になった。ありがとう。シャーがテヘラン駐在中にまたここに遊びにきたいと思う。そのときは、酒も忘れず持ってこよう。(昭浩)
1日目:テヘラン19:00出発
2日目:サルマス駅で出国手続き(12:30〜15:30)
:国境(イラン時間18:00/トルコ時間16:30)
:国境でトルコ入国手続き(17:30〜21:00)
3日目:ワン到着・ここでフェリーに乗り換え(0:30)
:フェリー/ワン出発(1:30)−タットバン到着(5:30)ここで列車に乗り換え
:タットバン出発(6:30)
:マラテヤ到着(17:00) v4日目:アンカラ到着(12:00) :イスタンブール到着(20:30)
僕はてっちゃんだ。小学生の時から特急電車やブルートレインの写真を集め、高校生から社会人になるまで、電車に乗ることが目的の旅をよくしていた。国際列車に乗れるなんて、小学生からの夢が叶ったようなものだ。70時間も全く気にならない。
昨夜7時に出発した列車にのって僕たちはトルコに向かっている。いよいよアジアを去るのだ。僕の中でイランはアジアでトルコはヨーロッパだ。サッカーの予選のエリアだってそうなっている。なによりもイラン人は、自分たちをアジア人と思っている。
長い間旅をしていたアジアから新しい世界に向かうのだと思うと興奮する。楽しみだ。
「WELCOME TO TURKY!」の看板が僕たちを迎えてくれた。(昭浩)