暑い!ここは暑すぎる!
昨日の夕方フンザを出発した僕たちは、昼の3時すぎにはインドと国境を接するパキスタン第2の都市ラホールに着いた。
フンザは標高2000m以上あるから夏でも過ごしやすい。しかし、ラホールは40度を越える温度と高湿度。不快指数は極めて高いに違いない。北海道出身の人なら狂い死にする蒸し暑さだ。異常気象でたまらなく暑い梅雨明けの日本の猛暑に似ている。僕たちは逃げるようにマクドナルドに入った。逃げ場所はそこしかないのだ。
夜は熱帯夜。水シャワーを浴びて体を冷やさないことには眠れない。そんな夜、停電になった。それまでパワー全開で回っていた、唯一頼りにしていたファンも止まる。なまあたたかくて密度が濃い空気が肺にねっとりと絡みつくようで呼吸が重い。圧迫感すら感じる。早くこの町から逃げ出したい。早くイランに行きたい。イランなら暑いかもしれないが多分空気は乾燥しているからラホールよりは過ごしやすいはず。しかし、ラホールにあるイラン領事館はビザを発給するのに12日間もの残酷な時間を僕たちにくれたのだった。(昭浩)
早朝夜明け前、モスクのスピーカーから大音響でお経が流れ出す。暑さがようやく落ち着いた明け方前、やっと眠りについている時にだ。
コーランだと思っていたそのお経は、アザーンと呼ばれる、お祈りの時間ですよ、とみんなにお知らせするものだ。その内容は、アッラーは偉大なり、アッラー以外に神はない、礼拝に来たれ、成功のために来たれ、礼拝は眠りに勝る!そんなことを長歌でも唄うかのように言っている。僕たちにとっちゃ何よりも大切な眠りに勝るものなんてないんだけど・・・。これからいろんな場所で、いろんなシーンで、アザーンを聞き、アザーンとともに生活することになるだろう。イスラムの旅がいよいよはじまったんだなあと感じた。(昭浩)
「ハラッパってやっぱり原っぱなんですか?」
僕たちがハラッパに行ったと聞くとほとんどの旅行者はそう質問してくる。シャレのつもりなのか本気でそう言っているのかよく知らないが、そんな時、「ハラッパだったよ」と僕は感情を込めず事務的にそう答える。
世界的に有名な遺跡ハラッパ。歴史の授業を居眠りしていた人でも、その名前くらい誰でも知っているインダス文明の遺跡。
崩壊が激しい遺跡だった。レンガの残骸が遺跡らしく並べられていた。この遺跡からは昔の都市国家はまるで想像できないが、僕はこの目の前に散らばっているレンガに興味を覚えた。レンガとういうものが何千年もの前から現在に至るまで使われ続けているということはすごいことだ。足元に転がっているレンガがそんな昔には実際使われていたと思うと感慨深いものがある。ただのレンガだけど、ただのレンガではない。
パキスタンで鉄道をひく際に、ここの多くのレンガは歴史的価値のわからない人々によって持ち去られ、使われた。もしかしたら、このまわりにあるレンガ造りの家屋なんかにも使われているかもしれない。そうやって奪われつづけた果ての姿が今のハラッパなのである。確かに限りなく原っぱに近く、ユネスコ世界遺産なのにほとんどツーリストはいない。インダス文明の都市国家の最期の姿があった。
のどかすぎる遺跡ハラッパ。そんなところが僕はけっこう気に入っている。(昭浩)
ツーリストがほとんど泊らない町サーヒワールでは、外国人がめずらしいらしく、僕たちは多くの奇異の視線にさらされていた。最初僕たちはまだこの国に慣れていなかったので、どこか落ち着かなかった。
朝食を食べようと出かけると、やはり今日も僕たちは好奇の対象になっていた。いろんな人々が声をかけてくる。みんなが「来い!来い!」と手招きする。朝食を食べていると、これも食べてみろ、と店の人が次々と甘いお菓子を出してくる。バス停までの行き方を若いお兄さんに聞くと、彼はスズキ(軽トラを改造した乗合タクシー)をとめて、一緒にバス停まで送ってくれたりする。しかも、スズキ代を僕らの分まで出すのだ。僕らがお金をだしても決して受け取らない。バス停のホットドック屋では、「日本はアメリカに原爆落とされて大変だったなあ。」といってホットドッグをくれたりする。
ムルタンという町に着いた。道がわからず2,3秒キョロキョロしただけで、誰かが必ず、「メイ アイ ヘルプ ユー?」と声をかけてくれる。この国の人はみな旅人にやさしい。それは、旅人をもてなせ、というイスラムの教えからくるものなのか、パキスタンの人たちが根っから親切なのかはわからないけど、そこには純粋な善意を感じる。
好奇の目で見ている人も実は英語が話せないだけで何かを話したいんじゃないないだろうか、そう気がついた。
「アッサラーム アレイクム!」
ジロジロと見ている人たちにはこちらから声をかけるとみんなとてもうれしそうな表情をして返事を返してくれる。好奇の表情がハッピーな表情へと変わる。人々の表情が変わると街の表情もかわる。楽しくてしかたがない。
いろんなところから、こっちへ来い、と手招きされる。全員の「来い来い」につきあっていたら本当にどこにもいけなくなってしまうので、バイバイと笑顔で手を振って通り過ぎる。
あるとき、車のガンガン走る大通りの向こうから声かけてきたおじさんがいたので手を振って通り過ぎようとすると、通りをわざわざ渡って追いかけてた。「なんだなんだこのおじさんは!」と思っていると、彼はチョコレートキャラメルを2つずつ僕たちに渡すと満足そうに戻っていった。
こんなこともあった、暑い日中、通りを歩いていると、コップの水を飲んでいるガソリンスタンドのおじさんと目があった。すると、すかさず水を飲むか?と生垣を超えてコップを差し出してくる。
いろんな人たちがチヤホヤしてくれるので、まるでアイドル歌手になったような気分になる国だ。(昭浩)
「アラーの思し召しじゃよ」と、じいさんは天を指した
朝食にパンとチャイを道端の露天で頼む。椅子に腰掛けて待っていると、頼んだもの以上のパンが盛られて出てきた。ベトナムだったら余分に出てきたものに手をつけたら、間違いなくその分のお金もしっかり取られる。しかしここはパキスタン。チャイ屋のじいさんは、どうぞ召し上がれ、というジェスチャーをしている。チャイも飲み終わるとどんどんおかわりを出してくる。最後にお金を払おうとすると、じいさんは天を指差して言った。「アラーの思し召しじゃよ」
ここムルタンの町は、シャールクネアラームというイスラムの聖者の眠る廟のある町。その廟は“世界の柱”と呼ばれ、イスラム教徒がその聖者に願い事をしにくるところ。だから町のなかには、熱心なイスラム信仰者が多い。その廟に行けばたくさんのイスラム教徒が、廟にくちずけをしたり額をあてたりして祈っている。祈りは純粋な行為だ。祈りの姿は美しい。僕は、そんな祈っているイスラムの人々を見ながら今朝のチャイ屋のじいさんを思い出していた。 (昭浩)
物乞いは苦手だ。ここ一年いろんな国でいろんな物乞いと会った。何度かバクシーシしたことはあるが、基本的に僕は何もあげないことにしている。たいていは無視するか、働くもの食うべからず、と心の中で唱えている。「働け!働け!」といって通り過ぎることもある。働いていない僕が言うのはとても矛盾しているのだが…。でも、正直言うと、本当はどうするのがいいのか僕の中には明確な答えはなく、いつも揺れている。
映子のほうはというと、僕よりシビアだ。お金をあげてもそれが本当にいいことだとは思えないのだそうだ。
ムルタンからラワールピンディへ向かうバスを待つ間、僕たちはバス停の近くのチャイ屋で朝食をとっていた。するとそこに物乞いのおばあさんがやってきて、僕たちに手を差し伸べてきたが、僕たちは相手にしなかった。チャイ屋の店主が、仕方がないなあ、という素振りをみせて、おばあさんにチャイを一杯あげた。それを見た映子は、どうせチャイのむならビスケットと一緒の方がいいだろう、といっておばあさんにビスケットを一枚あげた。映子はビスケットと一緒に飲むチャイが一番ウマイと常に言っている人だから、彼女が物乞いだからという理由からではなく、純粋にビスケットをおばあさんにあげたかったのだと思う。
しかし、その後その物乞いのおばあさんは予期せぬ行動に出た。彼女は感謝するどころか、怒ったようにもっとくれと僕たちのほうに駆け寄り迫ってきたのだ。それは、襲いかかってきたと言ってもいいだろう。チャイ屋の店主は、あわてて物乞いのおばあさんをとめ、店の外に追い出したので、事なきを得たのだが、僕には、「そんな…」というやりきれない気持ちだけが残った。
それを見て、「あのババアこんにゃろう!」という感情はなかった。それよりも、昔の自分を思い出された。会社に勤めていたとき、もっと給料を!もっと休みを!といって、もっともっと、を連呼していた。今だってそうかもしれない、もっと時間があったらなあ、もっとお金があったらなあ、そんなことを言っている。多くを求めることが悪いとは決して思わないが、それ以上に、今与えられているものに、そして今生かされていることに、感謝することって大事だ。あのおばあさんは、感謝の心は大事だよ、と僕に教えるために神様がよこした使徒だったと考えることにしよう。(昭浩)
ラワールピンディ−からバスで約1時間のところにある、タキシラ遺跡へ行った。ここは、紀元前2世紀から紀元後5世紀の遺跡群である。
まずは、博物館でガンダーラ美術と呼ばれている、ギリシャ人みたいな顔をした仏陀の彫刻をたくさん見た。明らかにアジアのものとは違う感じがする。
今日は、それで終わりにしようと思っていたのだけれど、博物館に前で待ち構えている、馬車のじいさんに、「ダルマラージカまで行かないか」と言われて、「1つくらい今日行っておいたほうが明日楽かなあ」と、行くことにした。
馬車でトコトコ遺跡を見に行くのは、なかなか楽しかった。ダルマラージカは、石段を登っていった上に、ストゥーパと僧院があった。観光客なのかパキスタン人とイラン人がいて、少し説明してくれた。そこには昔、刑務所と裁判所があったらしい。明日も馬車に乗ることにして、馬車のじいさんと約束して別れた
翌朝、雨がざーざー降ってる。とても遺跡めぐりに行く気にはなれない。もう行くのやめようかと思ったけど、1時間ほど馬車のじいさんを待たせて、重い腰を上げた。
最初の遺跡、ジョーリアンは、一番期待していたところだった。しかし、さらに激しくなる雨で、気分は沈んだまま。天空を支えるアトラスのレリーフを見てもたいした感動はなかった。思ったのは、本物もレプリカも素人が見たらたいして変わりはないということ。そして、その日の気分ってとても重要だということ、感動する心がないとダメだということを身にしみて感じた。体が疲れていたので、またつらかったのだ。
でも、ジョンディアール、モラモラドーとまわっているうちに、雨がやんできた。雨上がりは緑がきれいだ。シルカップに行ったときにはもう日差しが強くて暑いくらい。古代都市のメインストリートを景色を楽しみながら歩いた。寺院跡、ストゥーパ跡、そして双頭鷲の彫刻。これは風雨にさらされて、形がかなりわけわからなくなっていた。ここですごいなと思ったのは、排水溝だ。インダス文明でもそうだけど、ちゃんと下水のシステムが整っているように見える。
草刈りのおやじがお金をくれといってきたり、子供たちが変な石を売りに来たり、「晴れてくるといろんな人たちが出てくるもんだな」、なんて思いながら、終わりには、私の心も天気と同じようにすっかり晴れ上がっていた。(映子)
ラホールに帰ってきた。大きなモスクが見える。モスクの屋根がふちどるカーブは美しい。そう思う。長い歳月を経た美意識がそこには集約されている。この光景を見るのははじめてじゃないのに、今日はとくにきれいに見える。
ラホールの殺人的暑さは、少し落ち着きを取り戻していた。(昭浩)
「君たちはゲストだ」ラホール駅の偉い人はそう言った。
ラホールからの列車のチケットをとるために駅に行った。迷路のような鉄道オフィスのなか案の定迷った。そしてそこのスタッフにラホール駅の偉い人のところに連れてこられたのだ。僕たちは、チケットの買える場所を知りたかっただけなのだが、その偉い人は、「チャイ飲むか?」とたずねて、僕らの返事を聞かずに、ティーボーイ(ボーイといっているが実際はおじさん)をベルで呼び出しチャイを命じる。チャイに盛りだくさんのビスケットが出てきた。
「君たちはゲストだ。ウェルカム!」彼はそう言った。「恐縮です」そう思いながらもチャイとビスケットをきれいに平らげると、彼はもっといるか、と聞いてくる。さすがにそれは遠慮したものの、次に彼は、チケットを買える場所までの車を電話で手配してくれた。歩いて5分くらいの距離を彼の部下に送ってもらった。なんというすばらしいホスピタリティ。世界で最高クラスのホスピタリティを誇るフォーシーズンズホテルだってタダでそこまではするまい。親切な人と出会うたびに、自分が浄化されていくような気持ちになる。(昭浩)
ラホールでは500年以上も前から、毎週木曜日にミュージックショーなるものをやっている。これには昼の部と夜の部というのがある。表の部とウラの部といったほうが正確かもしれない。表の部は、歌や演奏が中心の市民によるいわば演芸大会。これもつまらないものでもないが、やはり興味深いのは夜の部。
お寺の中庭みたいな場所(あれはいったいどういう場所だったのだろう?)にパキスタン人がギッシリと体育座りしている。中心には、強いオーラいっぱいの仙人のような老人(彼は、多分偉いスーフィーなのだろう)が一段高い座敷のようなところでふかふかの座布団の上に座っている。仙人の前で、小太鼓を二人の大男がたたきだす。二人のたたきだすビートにあわせて、首振りダンスがはじまる。ただの首振りダンスではない。多分一秒間に3往復くらいの速さで頭を横に激しく振っている。その残像のため、頭が5つくらいに見えるほどだ。しかも、首を振っているのは、安岡力也とグレート義大勇と松尾伴内に似た三人組。いと恐ろしげな光景である。
まわりの異様なムードに僕は気づいた。その会場に入った瞬間感じたサイケな空気は間違いではなかった。僕の隣にすわっていたパキスタン人も目をトローンとさせながら頭をふらふらと振っている。前に座っているやつは、タバコから葉をとりだし、ハッシッシとブレンドするのに夢中だ。仙人がたまにふかす水パイプあたりから出ている煙からもハッシッシの匂いがする。しかも仙人が吸っているのだからかなりクオリティがいいものだろう。 盛り上がるにつれ、ハッシッシの煙が充満してくる。副流煙でこちらまでクラクラしてくる。みんながトランスし恐怖すら感じる異様な空気のなか、僕たちはおとなしく演奏を聞き、首振りダンスを見ていた。
彼らのたたくビートは、すばらしいものだった。魂に響くビートだ。しかも驚くべきことに、太鼓をたたく兄弟のうち兄のほうは耳が聞こえないのだそうだ。すべてバイブレーションを感じとってリズムを合わせているという。これは、神の音楽だと思った。(昭浩)
※スーフィーとは、神への愛と信仰だけに生きる人。ヒンズー教でいえばサドゥーのようなかんじ。
博物館や美術館、その類のものには、もともと興味がなかった。映子が好きなので、ついて行っている。無理についていく必要もないと思うが、無理に行くことを拒否するほどの理由もない。それに、行けば何か発見があるかもしれないからだ。
ラホールミュージアムの「断食する仏陀」。これには、美術に造詣が深くない僕でも、おおっ、と唸らせられる彫刻だった。
「こりゃホンマもんやで」「彫刻ちゃうで、目に魂入っているもん」
ふたりとも感じることは同じで、その仏陀の彫刻の恐ろしくリアルな目、背筋が寒くなるほどのその目に、感動よりも驚きがあった。彫刻に魂を宿らせるとは、こういうことをいうのだろう。
また、この博物館にはガンダーラ美術の代表作が展示されていて、少し西洋人の顔した仏像がこれまでアジアで見てきた仏像と明らかに違っているところもなかなか楽しい。(昭浩)
君の脳はハイパワーだ。今は使われていないだけだ。
何かクリエイティブなことをすれば必ず成功し、有名な人になるだろう。
君は自分でビジネスをやったほうがいい。自分の思うとおり行動しろ。
そこまで言われたら、誰だって気分は悪くないはずだ。僕だってすっかり舞い上がってしまったのはいうまでもない。
僕たちの泊っている宿「リーガルインターネット イン」のオーナー、マリックは宿泊客の手相を見てくれる。僕たちももちろん見てもらった。彼は、はじめこれ以上明るい未来はないんじゃないかと思えるくらいとてもいい未来を僕の手のひらから読んでくれた。将来は金持ちで有名、手のひらは僕に富と名声を約束してくれたのだ。しかし、そのあとがいただけない。
マリックは、そのあと内緒話をするかのように、僕の耳元で小さな声で聞いてきた?
「ハウ メニー チルドレン ユー キルド?」
「ノー ノー ネバーだよ。」
しかし、マリックは、俺にはわかる。前の彼女に聞いてみろ、とまで言う。
だんだんこのおっさんの手相占いが怪しく思えてきた。宿のオーナーとしてはとても信頼できる人だけど所詮手相ではすべてはわからないものだ。しかもこのおっさん、マリックという名前からしても、手相の信憑性を疑ってしまう。明るい未来だけを信じることにしよう。
同じ宿に泊っている日本人は、
「お前は一年以内に結婚するだろう。しかも相手はお金持ちだ。」
といわれたそうだ。その日本人に、もし本当に一年以内に結婚するようなことがあったら必ずメールして、とよくお願いしておいたから、その結果がどうなるのかが楽しみである。
映子は、占ってもらった内容について多くは語らない。それが不気味だ。(昭浩)
昨夜、ラホールを後にして、僕たちはモヘンジョダロへと夜行列車で向かった。
朝、車掌が僕たちのコンパートメントへやって来た。お前たちはどこから来たのか?結婚しているのか?といったありがちな質問から会話がはじまった。そのうち会話は、彼の一方的なグチへと変わる。
「日本は給料がいいだろう?俺なんて一ヶ月の給料は150ドルだ。これでどうやって家族を養えばいいんだ?全部政府が悪いんだ。」
「俺たちは、職業が選べないなんだ。弁護士や医者になろうとしても、なるためには金がいるんだ。これも政府が悪い。」
車掌は、自分が不幸なのはすべて政府のせいだ、と何度も何度も唱えていた。
モエンジョダロの最寄の町ラールカーナーの駅で切符回収係をしているおじさんは、楽しそうに僕に話した。
「俺は子供が6人と奥さんが二人もいるんだ。奥さんはとても美人なんだ。」
彼の目は、自慢げに輝いている。
「5000ルピー(1万円)の給料のうち2000ルピー(4000円) ずつ二人の奥さんに渡して、俺は残りの1000ルピー(2000円)をもらう。それでも俺は二人の奥さんと子供がいるから幸せだ。」
とても不幸な車掌ととても幸せな切符回収係。このふたりの違いは何だろう?お金があれば、多くの問題や多くの悩みが解決されるのは事実だ。しかし、その人が幸せかどうかっていうのは、お金とは違う問題だと思う。不幸な車掌は、多分給料が10倍になっても不幸に違いないし、切符回収係は子供が増えて経済的に苦しくなっても多分幸せだろう。
確実に言える事は、不幸な車掌は僕たちに不幸な空気を送り込み、幸福な切符回収係の笑顔は僕たちをとてもハッピーの気持ちにさせてくれた、ということだ。(昭浩)
僕の家は、昔汲み取り式トイレだった。いわゆるボットン便所ってやつだ。フタを開ければプンと臭う。大雨で近くの川が溢れ床下浸水になった時など、水位を増したウンコたちが便器からあふれそうになって、家族中がおびえた記憶がある。昔といっても十何年か前のことだ。
今から約4000年前、インダス文明の都市国家では、水洗トイレを使っていた。その事実は、僕に少なからずショックを与えた。モエンジョダロの遺跡には、確かに便器と水を置くタンクと便器から排水溝へと流れる水路がしっかりと遺跡として残っている。大昔の人は文明が遅れていると考えていたが、その考えは改めねばなるまい。町中をはりめぐらされた下水システムを見ただけでも発達した文明であったことがわかる。契約のときにハンコが使われていたというのも現在と変わらない。
また、当時の町並みを想像するのはそれほど難しくない程、保存状態がいい。世界最古の都市国家がこれだけすばらしい保存状態でのこっているのは奇跡である。ハラッパを見てきた僕らはとくにそう思う。
これほどすばらしい遺跡であるのにかかわらず、入場料は無料。パキスタン政府に感謝だ。それなのに観光客が僕ら以外誰もいなかった。(昭浩)
朝起きたら荒野の中を列車は走っていた。昨晩は落ち着いて眠れない夜だった。
モエンジョダロ周辺には武装強盗集団のアジトがあるので、危険だというウワサがある。行った人の話を聞くとそうでもなさそうだし、実際僕らが行ったときもとてものどかな田舎の遺跡に過ぎないと思った。モエンジョダロを見るためにはポリスをガードマンとして雇わなければならない、と言っていた旅人もいた。僕たちは、まさかそんなことはあるまい、と中国にいたころ笑って聞き流していた。
僕たちが夕食を食べるために宿を出ようとしたところで警官に呼び止められた。「なぜ、君たちはここにいるんだ」とでもいうように少し驚いていた様子だった。結局、そこで会った警官が僕たちのガードとして付いて来てくれることになった。レストランでも後ろの席で僕らを見張り。サンドイッチ屋の屋台でも見張り、アイスクリーム屋でも見張っている。宿から駅までもつきっきりで見張っている。駅で警官がかわり、今度はVIPの待合室で警官と一緒に列車を待つ。僕たちは護衛されていたわけだ。この状況、安全なのか、危険なのかよくわからない。警官に守られているから安心という考えもあるし、警官に守られていないといけない程危険が近くにあるともいえる。
列車が来ると、二人用のコンパートメントへ護送され、列車が発車するまで護衛付きであった。列車が走り出し、やっと二人きりになってやれやれと落ち着いたら、急に睡魔がおそってきた。僕は座席にそのまま横たわってウトウトしはじめた。
多分、出発してからそんなに時間がたっていなかったと思う。目が覚めたら列車は駅に止まっていた。こんな真夜中に乗降客なんているのかなあ、と寝転びながら窓のほうを見ると、ゲゲッ!なんとそこに人影が立っていて、しかもジィーっと窓からこっちを覗いている。僕は悲鳴をあげそうになるくらいびっくりした。よく見ると銃を持った警官だった。駅で停車中も僕たちを護衛しているのだ。
VIPのように警察に守られてありがたいことだが、逆にとても落ち着かない。映子はよく眠っているようだが、僕には眠れない夜だった。(昭浩)
アメリカによるアフガニスタン空爆がはじまったとき、テレビでクエッタの町の激しいデモの様子が映し出されていた。昨年10月、日本でその映像を見た。クエッタは、アフガン国境に近く、親タリバンの人が多い。だからデモもひときわ激しいとテレビでは言っていた。そのニュースを見て、クエッタは危険だなあ、パキスタンを通過してイランに抜けるのは無理かもしれない、と僕はそのルートでアジアを横断することを半ばあきらめていた。
インドとパキスタンが緊張状態になった時だって、パキスタンを抜けるのは無理だろうと思い、中国の北京からシベリア鉄道に乗って西へ向かうルートを真剣に考えて、「地球の歩き方 シベリア鉄道編」をカトマンズの古本屋で買ったものだ。
しかし、僕たちは、ここクエッタまでやってきて、イランとの国境へと向かっている。
3年程前、テレビのドラマのなかで佐藤浩一が言った台詞が頭の中を巡る。
「道は開かれている」
何度もあきらめかけたルートであるけれど、僕らはこの言葉を信じて前へ前へと進んできた。僕自身が勝手に、困難な道だとか閉ざされた道だと思い込んでいただけのことだった。
僕たちの前に、道は開かれているのだ。(昭浩)