12月1日〜2月24日
エアーフランスでビルバオからパリに飛び、そこで乗り換えてメキシコへ。それが今日のフライト予定だ。
ビルバオ〜パリ間とパリ〜メキシコ間の合計2回機内食が食べられる、そう思っていた。機内食がたくさん食べられてラッキー!って話をしているんじゃない、それだけ機内食があったらわざわざサンドイッチなんて持っていく必要ないんじゃないか、ってこと。
フリアンはサンドイッチを作って持っていけ、とパンとチーズにハモン(生ハム)やサラミをたっぷりと買ってきてくれていた。
飲みすぎと寝不足で胃がもたれていたから食欲はなかったが、せっかくのフリアンの好意だから、あとハモン(生ハム)がおいしそうだったということもあって、サンドイッチを作って持っていくことにした。
空港についても胃の調子は良くなかったが、ハモン(生ハム)の誘惑に勝てず、ついついサンドイッチふたつも手をつけてしまう。空港に早く着きすぎて、しかも飛行機が遅れてヒマだったのだ。けっして食い意地がはっていたワケではない。
ビルバオ〜パリ間の飛行機はしょぼかった。小さいセスナほどの小型機だった。これほんとに国際線?遊覧飛行じゃないの?しかも、エアーフランスというロゴの下には、by Brit Air と書かれている。なんだ本物のエアーフランスじゃねぇのか。
国際線だと思っていたが、この認識は間違っていた。ユーロ圏内は国境ってあってないようなもの。国内線と同じなのだ。そういえばビルバオでは出国手続きもなかったとあとから気づく。
パリからメキシコ行きの飛行機に乗り遅れてしまった。そもそも、乗り継ぎに1時間半の余裕しかなく、なのにビルバオ〜パリの飛行機が2時間遅れれば当然だ。待っていてくれるのではないか、実はそんな期待もしていたが、世の中それほど甘くない。僕らが乗るはずだったエアーフランスはとっくに出発した後だった。
エアーフランスのカウンターに行くと、エアーフランスのお姉さんは慣れた様子で翌日のフライトと今夜の宿と食事の手配をしてくれた。でもショックだったのは、エアーフランスではなく、アエロ・メヒコ (英語ヨミだとアエロ・メキシコ)になったことだ。「エアーフランス」と「アエロ・メヒコ」、その言葉の響きやそこから想像されるイメージの違いはあまりにも大きい。
小生意気なフランス人は好きじゃないが、瀟洒な感じのするエアーフランスには乗ってみたかった。
それにしてもフリアンには感謝だ。夕食まで空腹で苦しい思いをしなくて済んだのは用意してくれた食べ物のおかげだ。機内食は2回どころかまったく食べるチャンスはなかったのだから。 (昭浩)
フランス・シャルルドゴール空港でやられた。
セキュリティゲートでチェーンロックを有無を言わさず没収されてしまったのだ。女性係員がひょいと日本で買ったチェーンロックをとりあげ、透明な箱に入れてしまった。決して開けることのできない箱にだ。ちくしょー。
アエロメヒコ006便、ボーイング767-200はボロでもなかったが、最新型でもなかった。これがエアーフランスだったらもっとよかったかも・・・そんなことを考えると少しヘコむ。エアーフランスへの憧れは募るばかりだ。
大西洋横断の12時間は長かった。大西洋は広い!
ずっと海の上。つまらない。本も読み飽きた。昨日よく寝たのでぜんぜん眠くない。フランス語とスペイン語の吹き替えしかないのに映画を3本も見てしまった。
メキシコシティの上空に来たときは夕方だった。着陸前、ビル群をかすめるように飛行機がターンする、これはかなり怖い。
空港に着いた。僕たちは緊張している。メキシコって明るいノリだけど、泥棒が多くて、胡散臭いイメージがある。タクシー強盗の噂も聞く。もう日も暮れてしまったけど大丈夫?そんな不安がある。中米って僕たちにとっては未知の世界。よく旅慣れているっていわれるけど、実はけっこうビビリなのだ。
空港のタクシー使ったらあっさり宿に着いた。夜ごはん食べに町に繰り出したけど、女性や子供をはじめ人々でいっぱいだ。どこが危険やねん。
夜の街は屋台でにぎわっていた。もちろんタコス屋台が多い。そしてどこもおいしいそう。片っ端から食いまくりたい、そんな衝動に駆られる。そのなかのひとつでタコスを食べる。ウマイ!感動!泣いちゃうね、ホント。それだけでメキシコ好きになっちゃったよ。(昭浩)
明るい朝、クラクションの鳴り響く大通り、歩道には朝から屋台が出ている。朝の様子は、バンコクのカオサンロードを思い出させる。こんな朝から旅ははじまるもんだ。
中米の旅の出発地点、メキシコシティ。メキシコシティと言えばゲームを思い出す。まだ幼稚園生だったとき、僕のおじさんが「世界一周旅行ゲーム」というゲームをプレゼントしてくれた。今から思えばプレゼントしてくれたおじさんは、僕の本質を小さいときから見抜いていたのかもしれない。
サイコロをふって世界の都市をまわるスゴロクのようなゲーム。その1コマにメキシコシティはあった。実際はそこにはメキシコシティではなくて、「メキシコシチー」と表記されていた。メキシコはわかるけど、この「シチー」ってなんだ?その答えがわかるのはずいぶんとたってからだった。
このゲーム盤のメキシコシチーのコマの横にはサボテンとソンブレロをかぶったメキシコ人が描かれていた。しかし、実際のメキシコシチーは、高層ビル群があり、車がやたら多く、ネクタイにスーツ姿サラリーマンの目立つ大都会。今日一日歩いてもサボテンもソンブレロも目にすることはなかった。(昭浩)
あんまり豪華なのでびっくりした。今回の旅のなかで豪華さダントツ一番のバスだ。トイレ付、ゆったりとしたシート、フットレストまでついていて、シートを倒せばフラット近くまで倒せる。まるで飛行機のビジネスクラスみたい。昼食と飲み物も付いている。セキュリティもしっかりしていて、バスに乗り込むときにはボディチェックはもちろん、持ち込むカバンの中身もしっかり調べられる。徹底している。
スペインのバスよりはるかにゴージャス。しかし、高い。5時間乗って250ペソ(2500円)。スペインだったら5時間くらいなら2000円しないのに。
グアナファトのバスターミナルからセントロ(町の中心)まで市バスで向かう。セントロ近くになるとバスはトンネルに入る。このトンネルは地下通路と呼ばれる道で、町の下に複雑に絡まるように張り巡らされている。もともと下水道だったところを道路にしたのだ。しかし、ただのトンネルではなく、石を積んだローマ式アーチによって支えられていて、ヨーロッパの美意識が感じられる。セントロのバス停だってこのおしゃれな地下道の中にある。地下道から階段を上るとそこにはコロニアル調の旧市街が広がっている、そんな具合だ。
今日は移動で疲れたのでグアナファト観光はしなかった。京子さんという日本人女性がオーナーの宿に泊まり、そこに置いてある手塚治の漫画「ブッダ」にふたりハマっていた。(昭浩)
くすんだパステルカラーのカテドラルやテアトロやビルヂング、何百年という時間の中で少しずつその色合いはうすれ、少しずつ濁っていった。一言で言えば中世の町並みというのだろうが、同じ中世の、といってもスペインとは少し異なる。スペインの町が中世の様式を引き継ぎながら新しくなっていったのに対し、ここグアナファトは植民地時代のものがそのまま残っている。だからスペインに2ヶ月近くいた僕でも新鮮な印象を受ける。
この町は雰囲気がとてもいい。欠点といえばこれといった見所が多くないってこと。ミイラファンならミイラ博物館というのもあるが、別にミイラに興味あるわけじゃない。一般的にはリベラという画家の壁画くらいなものかな。このリベラの壁画、アジアやアフリカ、ヨーロッパではあまり見られなかったタイプのもので、上手な落書きと絵画のちょうど中間的なもの。階段の踊り場の天井や壁いっぱいに描かれたそれはなかなかの迫力である。
夕方グアナファトの町が一望できるピピラの丘に登る。風が強く、日本の木枯らしにさらされているように寒い。そんなところから日没から町の灯りの灯がともるまで1時間近く丘のうえにいたので体の芯から冷えてしまった。
ぼやけた橙の灯りによってほのかに照らされる古い町は眺めていて飽きないものだったが、なにせ寒いので、とっとと丘を下りることにした。
町におりてもまだ寒く、タコスを食べてもまだ寒い。アルコール度数75度のクカラーチャというお酒を飲んでも体はあたたまらない。それでも夜の9時まで教会の前で待った。
毎週金曜の夜9時から教会のまえでは学生たちの楽団が中世の衣装を着てメキシコ音楽を演奏する「エストゥディアンティーナ」というパフォーマンスがあって、それを僕らは待っている。
9時少しまわったところで演奏がはじまった。これはただ演奏するだけでなく、アクションをつけながらのタンバリンのパフォーマンスがあったり、聴衆を惹きつけ、盛り上げるためのトークがあったり、見ていて楽しい。2,3曲やったところで町をねり歩き始める。その行き着く先は彼らの演奏を聞きながら飲めるバル(バーのこと)ということになるのだが、僕たちはすっかり体が冷え切ってしまっていたので、そこまではおつきあいせず宿に戻った。
宿で暖かいこたつに入り、漫画「ブッダ」の続きを読むふたりなのであった。(昭浩)
「突然来られてもねぇ」
その不機嫌な声を聞いただけで出て行こうかと思った。2日前、グアナファトに到着したときのことだ。
日本人宿カサ・デ・ビアヘロスのオーナー京子さんは高熱で寝ているなか2度も電話で起こされたのだからきげんが悪いのも無理はない。(後から思うとこれは熱の問題というよりキャラクターだな)
「地球の歩き方見てきたの?」
地球の歩き方に掲載されて以来突然の客が増えて困ってんのよ、とでもいいたげな様子でたずねてきた。
「いや(ケニアでのサファリのときに会った)風間さんの紹介で来たんですけど・・・」
それを聞いたとたん2オクターブくらい声のトーンがあがる。
「あら!コーイチくんの知り合い、なーんだ。」
それから高熱があるのにかかわらず京子さんはたいそうご機嫌になられた。
・・・そして今日お別れ
まだ熱も下がっていないのにバス停まで見送ってくれた。
「あなたたち、ここ寄っていきなさい。あとこことここも・・・」
そう言って中南米にいるたくさんの知り合いの人の連絡先を教えてくれた。
「あなたたち、これ持っていきなさい。」
そう言って日本の甘納豆とほんだしを僕たちに持たせてくれた。
「あなたの夢は何?」
必ずみんなに聞いていた。僕がブッダに熱中しているのにも構わず聞いてきた。
グアナファトは、中世の町並みよりもリベラの壁画よりも、この熱血オーナーの印象のほうが強い。
グアナファトからグアダラハラという街にいった。そこで今度はミチコさんに会った。
ミチコさんに家はピンク色だった。家の中にはたくさんのカップや皿が飾られてあった。天窓から光の射すリビングにはたくさんの鳥カゴがあって、そのなかには小さな鳥が飼われていた。ハチドリがよくリビングのなかに遊びにやってきていた。
少し時代後れがかった家だ。
ミチコさんはツーリストに慣れていないためか動きがぎこちない。日本語もあまり上手でない。すぐにスペイン語がよく混じる。風貌もファッションデザイナーように奇抜な感じ。
不思議な場所に来ちゃったなあ。
「ミチコさんの家にいきなさいよ。」
京子さんのこの言葉がなければこの不思議の場所に来ていなかっただろう。そして僕たちはここにホームステイすることになった。
夕方から寝ているとコウジさんが帰ってきた。このコウジさんもナゾの人物だ。そしていきなりディスコ行こうとの誘いがあった。
ディスコのメンツは大勢いた。グアダラハラにいる留学生の女の子3人とメキシカンの男2人、そして僕たちとコウジさん。
ディスコの入場料はぶっ飛ぶほど高かった。物価の高いメキシコでの僕らの一日の食費全額に相当する額だ。しかもディスコ2軒のはしごで持っているメキシコペソを使い果たしてしまった。
ありゃりゃー、さっき会ったばかりだというのに、お金借りなきゃ、そんな僕の憂いをよそに留学生の子たちは楽しそうにサルサを踊っている。メキシカンもくねくね腰を揺らして上手に踊る。そしてコウジくんはテーブルで
「メキシコでは金のある奴と踊りのうまい奴がモテるんだ。」
酔っ払って、ややグチ気味にぼやいていた。
僕たちは、朝の4時にミチコさんの不思議な家に帰ってきた。(昭浩)
追記:後で判明したことだが、ミチコさんは日系2世の未亡人でずっとメキシコに暮らしている。コウジ君は3年ほどメキシコを旅行したときグアダラハラを気に入って住みはじめた。今は日本語教師をしている。
カバーニャスにあるオロスコの壁画を見に行った。建物の中、壁と天井に描かれた壁画は素晴らしかった。力強くて色は少し暗めな感じ。「立ち上がるイダルゴ神父」の絵は迫力がある。ここには広い椅子のような台があって、天井に描かれた絵が寝転んだまま見れる。
自由市場も行った。かなり広い。いろんな野菜や果物はあったが、ナスはなかった。アボカドをよく見かける。メキシコのアボカドは皮が硬い。市場ではスーパーの半額くらいの値段で売っていた。市場の食堂はおいしいものであふれていた。
夜、マリアッチ広場に行った。マリアッチのおじさんはちらほらいるけれど、演奏は誰もしていなかった。しかもその辺り、なんだか物騒な感じがする。仕方ないのでマリアッチが聞けるバーへ行った。ここは良かった。
まず、マリアッチの演奏が始まる。バイオリンとトランペット、そして2種類のギター。その演奏はオーケストラのよう。もっとどろくさいものを想像していたので、その洗練された感じに驚いた。メキシコの民俗音楽というよりもヨーロッパ的な雰囲気がある。
次に若い女の子とおじさんが現れて、フォルクロリコと呼ばれる踊りを踊る。軽快なステップ、衣装もかわいくて、なかなか楽しい。さらに今度はおばちゃんが現れて歌う。太ったおばちゃんが歌う様子は演歌歌手のよう。観客のリクエストに答えたりして、盛り上がる。最後に声の低いおじさんが歌って終わりだった。(映子)
コウジさんは6時頃に起きて仕事に行ってしまった。その前にミチコさんが台所で何かを包丁で刻んでいる音がカタカタカタと聞こえた。
私たちは9時半ごろやっと起きたが、やることと言えばドミノくらい。ミチコさんが作ってくれた朝ご飯を食べてから、のーんびり過ごした。
昼はタコス屋台のはしご。この国はどこでもちょっと歩くとタコス屋台がある。そしてあんまりはずれがないからうれしい。昼からまたドミノをやって、夕方から少しコンピューターで、ホームページ作りをやった。
ミチコさんはおにぎりを作ってくれた。「日本人はやっぱりおにぎりね。」と言って。
夜は再びタコス屋台へ。今日も人がたくさん並んでいたので、待ち時間が長かった。
家に帰ると、まもなくコウジさんが帰ってきた。いよいよお別れである。すでにいつでも寝れるような格好で派手なパジャマを着ているミチコさんにコウジさんと3人の写真を撮ってもらった。ミチコさんは家の門の前で見送ってくれた。コウジさんはバス停まで見送りに来てくれた。観光するところはあんまりないグアダラハラだけれど、ミチコさんとコウジさんがいるのでまた遊びに来たいな。そう思って、私は珍しく「また、来ます。」と言って別れた。
コウジさんと夜遊びした日のこと、ミチコさんが小さい頃、メキシコに来たばかりの頃の話、いろんなことを夜行バスの中で思い出していた。(映子)
朝早く、メキシコシティに着いたばかりだったけれど、今日はがんばって観光した。
まず、テンプルマヨールまで宿から歩いた。これは結構距離があって疲れた。もう1回行けと言われても地下鉄使っちゃうね。
テンプルマヨールは、昔まだこの辺りが湖でティノチティトランと呼ばれていたころに中央神殿があった場所。その博物館には、当時の様子を描いた絵や模型がある。今はもうゴミゴミした排気ガスにまみれた都会だけど、昔はきれいだったんだろうなあ。
次に国立宮殿へリベラの壁画を見に行く。明るくてきれいで描写が細かいので私はリベラのほうがオロスコより好きだな。ティノチティトランの昔の様子や、スペイン人に侵略されている情景を描いたもの、今も水路が残るソチミルコなど・・・このきれいな都が、そのまま残っていればよかったのにと心から思った。(映子)
実はティオティワカンの太陽と月のピラミッドを僕はとても楽しみにしていた。
そしてティオティワカンをはじめて見て、ようやくメキシコまで来たんだなあという実感がわいてきた。太陽のピラミッドが一歩一歩近づいている。―ようやく地球を半分以上まわったんだ―この時の僕の心の喜びは誰にもわかるまい。
このピラミッドはてっぺんまで登れる。
エジプトのピラミッドが法を犯さないと上れないのに対しこっちは合法だ。しかもご丁寧に手すりまでついている。
もちろん登った。遠足でやってきていた青いジャージの小学生たちと一緒だった。
ピラミッドは崩れないようにコンクリートで固められていた。
近くまで来てそれがわかってしまうと少し興ざめしてしまったが、ピラミッドの威容とその上から眺めは格別のものがあった。
とくに月のピラミッドの上からみたティオティワカンの全貌、そして太陽をまぶしく反射している太陽のピラミッドの堂々たる姿が印象的だった。(昭浩)
今日も楽しい一日でした。
まずベリーズビザを取りにベリーズ大使館に行きました。メトロの駅から遠くて途中から映子はぐったりです。酸素不足の金魚のように瀕死寸前といった様子です。
ベリーズ大使館の受付のお姉さんはとても感じのいい人でした。南アフリカの日本大使館の受付の人にも見習って欲しいものです。その丁寧でやわらかなその女性の応対に感心するとともに疲れを癒される思いでした。約1時間待って、3ヶ月有効のビザをいただきました。
ベリーズ大使館を後にし、戻る途中、屋台で昼ごはんを食べました。
そこの屋台ってちょっとスペシャルでした。シーフードを扱っているのです。
売りモノはカクテルと呼ばれるエビと生牡蠣をチリとレモンの汁に浸したものとそれにカニ肉のサラダをのせたトスターダ(トルティージャをカラッと揚げた物)でした。もちろん両方いただきました。
エビ、牡蠣、カニ、すべてがめまいのするほどおいしく、それだけでシアワセなキモチになるのでした。死に損ないの金魚だった映子は、すっかり元気を取り戻し、ぴちぴちと跳ねるように考古学博物館へと歩いていくのでした。
反対に僕のほうはというと、ベリーズ大使館に向かう道中では「Yo estoy andando.(僕は歩いている)」なーんて言ってスペイン語の練習しながら歩く余裕もあったのですが、だんだん疲れてきて、日本語もままならない状態になってきました。
午後にいった考古学博物館は館内が広く展示物が多いので見ているだけで体力を消耗してしまいます。博物館は内容も充実してしたので結構時間がかかってしまいました。
よく歩きかなりしんどい一日でしたが楽しい一日でした。(昭浩)
メキシコ全土で祝うお祭りグアダルーペのお祭りを見に行った。
メキシコシティのグアダルーペ寺院は奇跡が起きたまさにその場所ということで、一番盛り上がるらしい。
混雑回避のため地下鉄は最寄り駅には止まらなかったので、少し歩いた。寺院に近づくにつれておみやげ物屋や食べ物屋がびっしりと軒を連ねている。その狭い通路を牛歩のごとく進んでいくとやっと寺院の前の広場に着いた。
そこでは、様々な民族衣装を着た人々がいくつかのグループに分かれて踊っていた。
ドンドンドン、ジャラジャラジャラ。
太鼓の音と足につけた胡桃みたいな鈴の音。リズムに合わせて踊る、踊る。時にはくるっと回転。
小さな女の子も刺繍つきのかわいい服を着て踊る。男の子も一生懸命太鼓をたたく。おじさんばっかりのグループが刺繍つきの白の上下を着てるのもなんだかかわいい。
寺院の中では、厳かな感じでミサが行われている。これは一応キリスト教のお祭りなのだ。
でも外ではドンドン、ジャラジャラ踊ってる。全然違うように見えるけれど、ここではキリスト教と先住民の土着宗教とが結びついているんだなあと思った。
私たちは一通り見た後、食べるところを探した。
チキン屋で食べていると、隣で食べていたメキシコ人ポリースの4人にビールをおごってもらった。
カナダ人1人も加わって、何か盛り上がってきた。カナダ人はすぐいなくなったが、わたしたちは彼らと話しをしながら、2本目のビールをおごってもらった。
同じ宿の日本人にそのとき会ったけれど、私たちのこの酔っ払い集団を見て少々引いていた。
それもそのはず、メキシコでは、外でお酒を飲んではいけないし、ビール瓶なども持って歩いていると警察に注意されたりするという。なのにその警察と一緒に昼間っから半野外のレストランで飲んでいる姿を見れば誰だってビビるだろう。
しかし彼らはとてもいい人たちだった。勤務中にお酒飲んでいいの?と思ったらもう勤務は終わりらしい。そして、「シティは泥棒もいるから気をつけて」と言ってくれた。「何かあったらいつでも来い」、と。ガタイもよくていかにも強そう。ポリースは賄賂が横行しているとか、悪い噂も聞くけれど、メキシコシティのポリース頼りになりそう。そう思った。楽しいひとときをありがとう。(映子)
この日の夜プロレスを見に行くことになった。メキシコプロレス、そうルチャリブレのことだ。プロレスファンとしてぜひ見ておきたい。
僕は伝説のマスクマン、ミル・マスカラスとドスカラスの雄姿をテレビで見ていた。ルチャリブレは彼らのルーツだ。それを生で見られる。なんて素敵なんだ。
試合がはじまった。ゴングがないのでいつ始まったかわからなかった。いつの間にかはじまっていた。
決着がついてもゴングは鳴らない。なんかメリハリないなあ。スープレックス系の投げの大技も少ない。そしてちょっと試合の展開が白々しい感じもする。
いろいろ目に付くところはあるが、トペ・スィーシーダー、フライングボディプレス、ローリングソバットなど飛びの大技を決めてくれるのでそれなりに盛り上がる。ノリのいいメキシコ人リアクションもおもしろい。
猪木のような「闘魂」はそこには感じられなかったが、庶民のエンターテイメントとして250円で気軽に楽しむにはいい娯楽だと思う。
帰りに僕は自分へのおみやげとして覆面を買ったのだった。(昭浩)
メキシコを代表する有名な建築家、ルイス・バラガンの家へ行った。地下鉄で行くと駅から驚くほど近い。 外から見ると何の変哲もない無機質なコンクリートの建物だけれど、中は驚きの連続だった。
入ってすぐの部屋、ピンクの壁、階段、そして電話を置いている机と椅子。照明はどの部屋も間接照明で自然の光ができるだけ入ってくるようなつくりになっている。外に面した窓は2つだけなのにどの部屋も明るい。
ルイス・バラガンについて私は何も知らなかったけれど、ガイドの人がいろいろ説明してくれた。彼はとても信心深く、部屋のあちこちに十字架や祭壇がある。そしてとても孤独な人。孤独が好きな人だけれども、人が来たときには自分に注意を向けさせるようなつくりになっている。いつもお誕生日席に座り、その後ろの壁だけをピンク色にしたり、また、部屋全体が見渡せるように球体の鏡を置いたりしている。デビットボウイなど、友達もたくさんいたようだけど、結婚はせず、この家で1人、パーキンソン病で死んでしまった。
最後に見た屋上は、彼が生きているときは彼以外の人は入れなかった場所。彼はここで何を思っていたのだろう。その吸い込まれそうな空を見ながら、彼はここから天に昇っていったのだなあと思った。(映子)
その日の夜、マリアッチを見にガリバルディ広場に行った。
グアダラハラのマリアッチ広場では日曜日だったせいか誰もマリアッチをやっていなかったが、ここメキシコシティのガリバルディ広場では僕らが着いたときにはすでにマリアッチが人ごみの中で演奏をやっていた。
ところでマリアッチってなんだ?書いていてふいに疑問がわいてきた。
実は僕も厳密にはよくわからないんだけど、ソンブレロかぶって昔の衣装を着たおっさんたちがギター、トランペット、バイオリンで演奏して歌うパフォーマンスという理解をしている。
広場にはツアー団体客がちょうど来ていて、その欧米人たちに向けて演奏をやっているところだった。
みんなシェークスピアのオペラに出てきそうな中世貴族のようなコスチュームを身にまとい陽気なメキシコ音楽を何曲か奏で、歌っていた。
音楽もさることながら生演奏を明るく聞かせる広場の雰囲気がとても気にいった。
僕たちの好きな曲「クアンタナメラ」も演奏してくれたから、僕たちは喜んで一緒に口ずさんだ。
広場に面したレストランでごはんを食べている間、隣のテーブルで金持ちメキシコ人男性がその隣に座る恋人のために曲を何曲もリクエストしていた。おかげで僕たちはその恩恵にあずかり、恋の曲を間近で聴きながらの贅沢なディナーを楽しむことができた。(昭浩)
メキシコの有名日本人宿、ペンション・アミーゴ。そこにいったことのない旅人はその名前を聞いていてどんな宿を思い浮かべるだろうか?汚くて、長期滞在者が淀んでいて、小さな日本社会があって・・・。
旅人でない人のためにもう少し説明しておくと、日本人宿とは日本人旅行者が溜まっている宿のことである。アジアや中南米に多い。宿のオーナーや管理人が日本人というケースがほとんどで、宿泊者の日本人比率がほぼ100%に近い。
たいていこのテの宿には派閥が存在する。大きく長期滞在組とそれ以外の2派閥に分かれる。長期滞在でないけど長期組と仲がいいのは長期組の派閥である。
長期組のなかにエラそうな人がいたりしたら最悪である。まあだいたい旅先でエラそうにしているやつなんて気も心も金玉も小さいやつなので相手にしないのに限るのだが、こちらがどんなに避けても接触を完全に回避することは不可能なので、そうなったら多少ガマンするかさっさと宿を出るしかない。しかしペンション・アミーゴではそういう人がいなかった。
僕らが滞在していた時は長期組のなかで琥珀磨きがはやっていて、昼間から食堂に集結して琥珀の原石をしこしこと磨いていたりしていた。たまたまそんなときに食堂にはいっちゃったりしたら、小さな集団の作る閉鎖的な空気に耐え切れなくなって、すぐその場から逃げ出したくなるが、そんなことはただ気にしなければいいだけのことだ。それにここペンション・アミーゴには公共スペースとして食堂だけでなくその奥には図書室もあるのでそこにいけばいい。
過ごしやすい宿だと思う。泊まっている日本人も多いが、公共スペースも広いので、居場所がないということもない。それがいい。
ただ、ペンション・アミーゴは朝が早い。なぜなら早起きしないと朝ごはんがなくなってしまうからだ。一応朝食付となっているのだから全員にいきわたるだけの量を作ればいいのだが、全員に行き渡らないというのが半分伝統のようになっているみたいだ。宿代が安いので文句は言えない。朝食の内容はパンとバターとスクランブルエッグそしてコーヒー。スクランブルエッグはソッコーでなくなる。それだけならまだいいほうで、パンすらありつけないことだってある。でも文句は言えない。安いから。
「オレ、これからどうしようか迷っているんですよ」
ある晩そんな悩みを打ち明けられた。どうして僕に打ち明けたのかはまったく謎である。
その僕より10歳も離れている青年は、いろいろ人生について語りだした。自分はこれまでどう生きてきたのか。そしてどうして迷っているのか。これどのように生きていこうか。
人それぞれ自分が本当にやりたいことをやっていくしかないのだから何にも答えようがないんだけど、みんないろいろ考えていることあるんだなあ。こんなことがあるのも日本人宿ならでは。
日本人宿が好きか?と言われれば、半々とかまあまあだとか曖昧にいつも答える。
外国旅行しているのに、日本人ばかりがまわりにいる宿にいて、日本人とばかり話しをして、日本の本やマンガを読み漁る。それだったら日本でやればいいじゃんって思う。しかし、いろんな人間模様が見られるし、そこではたくさんの出会いだってあるし、日本語の本を交換することだってできるし、いろんな情報は得られるし、荷物や貴重品が比較的安全などなどいいとこづくめ。だからやっぱり泊まっちゃうんだよね。(昭浩)
オアハカは世界遺産に登録されている町だ。 どうして世界遺産なのかはまったくの謎だ。別に悪いところじゃないけど、どこが特別なんだろうって思う。誰かこの町のどこがスゴイのか分かる人がいたら教えてもらいたい。残念ながら僕にはこの町の魅力を発見することができなかった。(昭浩)
私が教えてあげましょう、オアハカの魅力を。それは買い物と食べ歩き。ここの市場はすごい。みやげ物から日用品まで何でも揃う。それと、夜に出る大きなトスターダスとポソレの屋台。もう少し長くいればもっとここを好きになったかもしれない。(映子)
バスはくねくねと山道を登っていった。その登りきったところに、モンテアルバンという遺跡がある。
人によってこの遺跡の評価はいろいろだけど、私はそんなに悪くないと思った。ピラミッドは低いし、修復の仕方もいまいちのところが多いが、山の上にあるという雰囲気がなかなかポイント高い。オアハカ盆地が見える。山々がきれい。
遺跡には、天文台もあり、球戯場もあり、踊る人々のレリーフもあった。ただ、そのレリーフを見た後にあきちゃんが、「踊る人々のレリーフってどこにあるの?」と、マジボケしたくらいに、踊っているようには見えなかったけど (あきちゃんにはサルに見えたらしい) 。目は閉じていて、口は開いている、そんな人のレリーフだった。(映子)
チアパス州には気をつけろ
スペイン人の友達から言われた。日本のガイドブックにもそう書いてある。
なぜか?それはゲリラだ。サパティスタと呼ばれるゲリラはチアパスで武装蜂起しサンクリストバルに進攻した歴史がある。
そのチアパス州の中心であるサンクリストバル・デ・ラス・カサスに着いた。
平屋の家が並ぶ。屋根には元々赤茶色だったのが古びてどす黒くなった瓦が並んでいる。なつかしい感じ。日本を感じる。
ピンク、パステルブルー、グリーンの派手な壁の色彩、古い瓦、町を取り囲む緑の山、遠くに見えるカトリック教会、町を歩くたくさんの先住民たち・・・ゲリラのイメージとはほど遠い。
僕は大きな勘違いをしていたみたいだ。ここのゲリラは恐い人たちじゃない。
チアパス州ではサパティスタゲリラは人気者なのだ。苦しんでいるチアパスの貧しい人々のために立ち上がったゲリラ、政府には反発するものの、市民にはけっして危害を加えない。チアパスの人たち、とくに先住民の人たちは、このゲリラにエールを送っている。インテリでハンサムであるマルコス副指令官なんかはポスターまで作られているし、町のおみやげもの屋、広場の露店にはサパティスタ人形なるものが売られていた。
僕は、このサパティスタ人形に魅せられた。ゲリラ人形なんてとてもユニークだし見た目もかわいい。市民に人気があるゲリラなんてカッコイイよ。
そして、この町も気に入った。ここ独特ののどかさがある。インディヘナ、人気物のゲリラ、日本を感じさせる町並み、不思議な魅力をもった町だと思う。(昭浩)
サンクリストバル近郊のサンフアンチャムラ村の日曜マーケットへ行った。
教会前の広場には数え切れないほどたくさんの露天が出ている。野菜や果物、日用品などなど・・・。期待していた民芸品は少ない。
でも女の人はみんな民族衣装を着ているし(もちろんその服は市で売っている)、男の人も独特の格好をしているのが興味深い。特に評議員の人たちの衣装が面白かった。つばの広い帽子のつばの部分から布がいくつも垂れ下がっている。そして服装は、7分丈くらいのズボンにポンチョ。写真が取れなかったのが残念。
ここで最もスペシャルなのは教会の中。とても神聖な空気が流れていて、床や祭壇にろうそくを立てて祈る人々がいる。かと思えば、赤ちゃんにお乳をやったり、オムツを替えたりしている女の人、また家族で座り込んでいる人たちもいたりする。何だかとても不思議な空間だった。
帰り際に目が合った双子っぽい美人姉妹に手を振った。刺繍の服を着ていてとてもかわいい。年のころは17歳くらいだろうか?こっちの人たちはモンゴロイドだけあって私たちとなんとなく似ているところがある。だから親近感がわくのだろうか?(映子)
サンクリストバル郊外のシナカンタン村に行った。
目的はこの村に住む少数民族を見るためである。少数民族が苦手だといいながら、ついつい近くにあると行ってしまう。
村に着いた。教会と広場と役場らしき建物、それに商店が少し並んでいる。そんな小さな村だった。
広場にはたくさんの男たちがいた。赤い地に花模様の刺繍のはいったハッピのようなベストを服の上から着ている。村の男全員がだ。
通りには女たちが集まっていた。黒の巻きスカートに紺と水色が織り交ぜられた肩掛けを羽織っている。村の女全員がである。恐ろしいほど民族衣装密度の高い村だった。 (昭浩)
20代の半分以上のクリスマスはひとりで過ごしていた。
好きな女性がいて、24日の夜一緒に食事でもと誘っても、そのアポイントメントはけっして24日にはならず、22日だったり23日だったり、時には27日だったりする。それならまだマシなほうで、ていよく断られたり、誘う相手さえいないか誘いたくても誘えるようなシチュエーションでなかったりしたことのほうが多かったようだ。
簡単にいえばさえないクリスマスイブを過ごしていたということだ。
だからどんな場所で迎えようとも、少なくとも今はひとりではないので、それだけでも僕のこれまでの人生でのクリスマスとしてはかなりいいクリスマスであるということになる。
どこでもいいといったが、できることならイブの夜にはクリスマスミサに参加したいなあという思いはある。
東京で暮らしているとき、映子と何度か教会にクリスマスミサに参加したことがある。教会で聖歌を歌い、キリスト教でもないのに信者と一緒に祈りを捧げる。それがとても好きだった。イブの夜、教会に流れる聖歌ほど美しい歌はないと思う。希望と祈りの歌だ。
旅に出てから、最初のクリスマスは中国だった。ここでは教会もないしもちろんミサもなかった。
次がベツレヘム、イエス・キリストの生まれた場所だ。そのときパレスチナ情勢はけっしてよくはなかったが、それでもミサに参加する人も多く、盛り上がっていた。
今年は、メキシコ、サンクリストバル。
ミサは一見厳粛。だけどどこか抜けている。
それはクリスマス用にしつらえた飾りがとてもチープだからか。紙で作られた金色の星、赤い造花のデコレーション、壇の脇には子供たちの聖歌隊がいるが衣装はバラバラ。幼稚園のお遊戯発表会を思わせる。
ミサに参加している人は子供づれが多い。隣のガキは牧師が何か言っている間もミニカーで遊んでいるし、前の列の女性もヒザはついているんだけど、まったく関係ない本を読んでいる。先住民は思ったより多くないが、確かにいた。
聖歌はすべてスペイン語なのでよくわからない。おおむね暗い曲が多かった。暗いぞ、ラテン系ではないのかここは?
ミサを1時間でひきあげた。宿に戻るとカレーが待っていた。SBゴールデンカレーのルーから作ったバリバリ日本のカレーだ。2年ぶりの日本のカレーに感動した。ああ日本に帰りたい。日本のカレーを思う存分食べたい。
旅に出て3度目のクリスマスはホームシックなイブだった。(昭浩)