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南アフリカ共和国の旅行記

6月11日〜6月30日

一時帰国   6月11日〜25日 (by 映子)

エチオピアで友達の結婚式の知らせを受けたときに決まった一時帰国だった。聞いたときは、友達が結婚すること以上に私が日本に帰れることがうれしくて小躍りした。(ごめんよ、稚ちゃん) アフリカ縦断のつらい旅の途中での、唯一の心の支えともいえる。その日から、私の旅は、南アフリカに向かっていたと共に日本にも向かっていたのだ。

日本へと出発する日の朝は、見送られるはずの私がなぜか見送っていた。私の飛行機より、あきちゃんのバスの時間ほうがうんと早かったのだ。朝6時20分、まだ真っ暗な中で、タクシーに乗ってあきちゃんは行ってしまった。別れ際はやっぱりちょっとさみしい。ずーっと一緒にいたから、それが当たり前のようになっていて、いなくなると、自分の分身を失ったような、なんだか不思議な気分。

私は同じ宿の日本人旅行者にさよならを言って、8時のシャトルバスに乗った。しかしシャトルバスとはいっても、他の宿の旅行者を乗せていくので、町をくるくる2周くらいしてやっと空港へ向かった。でも最初は国内線なので余裕だ。

ヨハネスブルクの空港はやな感じだった。まずは、国内線から国際線に乗り換えるとき、一度空港の建物の外に出て歩かなければならない。治安が悪いといわれているヨハネスブルクだけにそれだけでもちょっとドキドキだ。さらに、VAT(消費税)の払い戻しは、現物を見せないとできないと言われた。できないのは仕方ないけど、その係の女が感じ悪い。
搭乗ゲートの前で待っていると、なんとそこにはチベタンのおばちゃんが座っていた。どこへ向かうのだろう?ちゃんとチベットの衣装を着ている。

飛行機の中はとても空いていた。映画を1本見た後、テトリスにはまった。普段ゲームなんてやらないから、なんてへたっぴなんだろ?と思いながら、やめられなかった。
ドバイの空港で、関空行きに乗り換えた。搭乗口はすでに、ここは日本か?と思うくらいに日本人ばかりだった。新婚旅行風のカップルや、ビジネスマン風の男の人、1人でバカンス風の女の人、などなど。私はどういう風に見られているんだろう?緊張してきた。日本はもうすぐそこだと思った。飛行機の中も日本語が少し通じる。機内食も日本食をたのんでみたりして、日本ムードは盛り上がるばかりだ。もうここまでどっぷり日本風になったら、到着しても改めて感動しないかな。

私の予想は大きく外れた。関空に飛行機が降り立ったその瞬間、私は感動して、うれしくて涙が出そうになった。一時帰国でこうなんだから、本当に帰ってくるときはもっと感動するに違いない。

空港に迎えに来てくれたお父さんは、久しぶりに会うと、なんだかとても年をとったように見えた。折りしも日本は梅雨に入ったばかりで、小雨が降っていた。
その日、帰国して最初に家で食べたものは、納豆だった。うまかった。

日本に帰って驚いたのは、郵便局が民営化されたってこと。それは、私に直接関係がないように思えるけれど、うちの実家では一番近くにあった、小さな郵便局がなくなってしまったのだからこれは大きい。
それから、コンピューター。今回の一時帰国の目的の一つとして、壊れてしまったコンピューターの代わりに新しいものを買ってくること、があった。今まで使っていたのと同じ、ソニーのバイオを買うためにヨドバシカメラに行った。しかし、同じものなんてもうないのだ。私たちのは2年も前に買ったもの、店頭のコンピューターはすべて新しいものになっている。しかも新型バイオは人気で取り寄せに2週間かかるとか。仕方がないので、すぐに手に入る、富士通のものを買った。今のところ、これがなかなか調子いい。

うちの近くに温泉が2つもできてた。そして、近所のおばちゃん連中で混み合っている。人気があるのだ。私もおばちゃんたちと共に毎日のように温泉に入り、旅の疲れを癒した。日本の温泉はきれいだ。蛇口からコケも一緒に出てくるような、チベットの温泉とは全然違う。そんなことを考えながら・・・。

日本で食べたもの、なんでもおいしかった。高速道路のサービスエリアで食べたランチでさえ、私には感動的だった。印象に残っているのは、あきちゃんの実家でごちそうになったしゃぶしゃぶ、そしてお刺身は他の場所でも何度となく食べた。ずっと食べたかったうどんもうまかった。和歌山で最後の日に食べたお寿司もおいしくて感動。忘れないように写真も撮った。

昨年の3月にも帰国した私にとって、3回目の一時帰国。日本での生活は、今までの帰国の中で一番楽しく、そして忙しかった。友達の結婚式がメインだったが、それ以上にいろんな人と再会することができて、そのことがとても心に残っている。

まずは大阪に住んでいる兄家族が和歌山まで来てくれた。甥っ子も姪っ子もびっくりするくらい大きくなってた。3人目がもうすぐ生まれるからお腹おっきいのに、わざわざ和歌山まで来てくれてありがとう。
そして、横浜から来てくれた久美子ちゃん、前回帰国したときも、来てくれた。今回もふやけそうなほど一緒に温泉に行って楽しかった。
和歌山に帰るといつも髪を切ってもらってる、私の高校のときの友達であり、専属美容師さん、のりちゃん。なかなかゆっくり話できないけれど、また帰ったら必ず行くね。
それから、伊丹に引っ越したお姉ちゃん。前回は会えなかったけど、今回はお父さんと一緒に会いに行った。長く会ってなくても気兼ねなく会いにいける、やっぱり兄弟って良いなと思う。
川西に住んでいるあきちゃんのお父さんとお母さん、前回同様、私1人で行ってもとても温かく迎えてくれる、私の第2の実家。いつもお世話になりっぱなしです。
トルコで知り合った祥子さん。仕事もあるのに予定を合わせてくれて、西宮のトルコ料理屋で一緒に食事をした。重いのにいっぱい写真を持ってきて見せてくれた。
結婚おめでとう!稚ちゃん。おかげで日本に帰ってくることができて、私が得たものはとても大きいよ。お幸せに。いつか新婚家庭にお邪魔できる日を楽しみに・・・
稚ちゃんの結婚式で再会した多枝ちゃん、前回は多枝ちゃんの結婚式だったね。もうお母さんになってる多枝ちゃん、子育てがんばって。あんまりやせないようにね。
料理長に会うのは何年ぶりだろう?久しぶりに会って、少し太ったみたいで安心。でもやっぱりちょっと年取ったかな?
1泊2日の強行で東京から大阪に来てくれたこじこじとのじゃこ。短い時間だったけど、二人に会えたこと、とてもうれしかった。
最後になりますが、空港まで迎えに来てくれて、見送りもしてくれた、そして毎日のように温泉にも連れて行ってくれたお父さん、仕事が忙しいながらも買い物に付き合ってくれたお母さん、どうもありがとう。

会いたかったけど会えなかった人もたくさんいた。電話で少し話しただけの人も、メールだけの人も。でも、10日間でこれだけの人に会って、いろんなことを話して、たくさんのパワーをもらった。別れ際に「がんばって」とか、「気をつけて」と言ってくれたり、泣いちゃったりもした。そんな一つ一つが私にとっては大切で、それを支えにしてこれから旅を続けていこうと新たに決心するのだった。

アフリカに戻る。その言葉を聞いただけでも、重く苦しい感じがする。帰りの飛行機のチケットを取ってなかったら、このままもっと日本にいたかもしれない。そんな後ろ髪惹かれる思いだった。

出発は夜11時。その日はものすごい豪雨だった。私の飛行機はすぐ日本を飛び立つからいいけど、見送りに来てくれたお父さんの車が心配だった。空港から、友達に電話した。前回もまた、会えなかった別の友達に電話したなあ。私っていっつもこうだ。電話があんまり得意じゃないからこうなるのかなあ。

私は飛行機の中で、再びテトリスにはまった。今回の帰国でかなり上達したと見た。

朝早く起こされて、機内食を食べる。まだまだ眠い。ドバイの空港に着いたのはまだ5時ごろのことだった。待ち時間が長く、そして眠い。暇はあるけど金がなく、コーヒー1杯すら飲めずに、ただうろうろしていた。ときどき日本の家族や友達のことを考えていた。
とてもお腹を空かせて飛行機に乗り込んだ。機内食を食べて眠ってテトリスして、少し映画も見た。夕方4時過ぎ、ヨハネスブルクに到着。アフリカに戻ってきたな、と思う。よしっと気合を入れる。
ケープタウン行きの飛行機はとにかくたくさんあるけど、私の飛行機は1時間以上待たなきゃいけない。しかも30分遅れた。もう真っ暗だ。ヨハネスブルクの夜景を見ながら飛び立った。飛行機はしょぼいが、スタッフは感じが良く、空席が多くて快適だった。
ケープタウンの夜景が見えてきて、いよいよ到着。空港は夜のせいか、閑散としていて、タクシーや宿の客引きなどまったくいない。仕方ないので、外でタクシーを拾って宿まで行った。

久々に見るあきちゃんは、長旅のせいか、少し薄汚くて、野暮ったい感じに見えた。話したいことが山ほどあって、でも何から話したらいいのかわからないそんな夜だった。(映子)

南アフリカひとり旅 ジェフリーズベイ 6月11日〜20日 (by 昭浩)

 

映子3度目の帰国である。ひさしぶりの飛行機に、そしてひさしぶりの日本に、緊張しているのが伝わってくる。見送る予定だったが、僕のバスのほうが出発が早いので、見送られる側になってしまった。あしからず。

ひとりの旅は気ままではあるがやはりさびしいもの。心細いといったほうが正しいかもしれない。これから10日間全てひとりでやらなければならない。英語も話さなければならない。それも不安。

日の暮れた6時ごろジェフリーズベイの最寄の町でバスを降りた。そこでさっそく英語での電話だ。目星を着けた宿に電話して車で迎えに来てもらうのだ。とても緊張した。バスのなかで考えていた英語の文句を話す。どうやらうまくいったみたいだ。電話にでた女の子がゆっくり話してくれたので助かった。

オフシーズンの宿は、混雑はしていないものの、10人ほどの欧米人が泊まっていた。もちろん日本人はいない。欧米人に囲まれて、ひとりもくもくとキッチンで料理をつくり、ひとりもくもくと食べる。ひとりでそそくさとシャワーを浴び、欧米人が溜まっているにぎやかなバーには近づきもせず、ひとりドミトリーのベッドで日記を書いている。なんかクライ人みたい。肩身もせまい。ひとり旅の初日であった。

? 海には全然波がなかった。伝説の波を求めてきたのに波がないなんて・・・落ち込む。どうしよう何もすることがないよ。
町に出ても食べ物の買い物以外することないし、宿に戻っても欧米人にバーやソファーのあるリビングを占領されていて居場所がない。ひとり旅ってこういうときつらいよな。宿の雰囲気とも合わない。パーティ好きにはいいかもしれないけど僕には向いていない。明日は宿を移ろう。

夜、昨日と同じように、誰とも会話せず、ひとりで料理を作り、ひとりで晩ごはんを食べる。そして昨日と同じようにシャワーを浴びて、ドミトリーにひとり篭もろうかと思っていたら、同室のジョンというイギリス人にビールを飲みに行かないかと誘われた。その誘いは僕にとってはたいへん意外で、何も考えず、驚いたイキオイのまま「イ、イエス」と答えた。

さわがしいバーに入ったとき、
場違いな場所に来てしまった
と後悔した。バーにいた欧米人たちもチラリとこちらを見る。
(やっぱり来なきゃよかった。ビール少し飲んだら部屋に帰ろう)

誘ってくれたジョンには感謝しているし、親愛な気持ちもある。だから、一生懸命話した。僕は旅が長いから旅の話だったらしばらく話せるし、1年半も旅している人間の話だから下手な英語だって興味を持って聞いてくれる。ビールを1缶飲み終わるといつのまにか目の前に新しいビールがあった。そうして飲んでいるうちに調子がでてきた。

ビリヤードをやらないか?ジョンがそう言ってきた。
「OK!」とはいったものの、そう軽く答えたのを後悔する。
ビリヤードをやる、その意味するところは、1台しかないビリヤード台で今やっている人たちの勝者に挑戦するということなのだ。
知らなかった。てっきりジョンとやるもんだと思っていた。僕はナインボールしかルールは知らない。ここでさっきからやっているのはエイトボールと呼ばれるものだろう。みんなが見ている前でやるのだ。緊張してきた。さあ、どうしよう。

僕の出番が来た。ブレークをやれ、そういっている。緊張したがブレークはうまくいった。そして若い番号の玉もポケットに落ちた。幸先いい。
次のボールを狙おうとしたら止められた。僕が狙っていたボールが8番のボールだったのだ。顔が赤くなるのを感じた。そこであきらかに動揺した僕はいうまでもなくボロ負けした。
僕はやや顔を引きつらせながらも無理に笑顔を保った。けれど、心のなかははずかしさと居心地の悪さでその場をすぐにでも逃げ出したかった。

「チアーズ!」
相手がニコッと微笑んで握手をしてきた。

その一言で僕は救われた

驚いたことに僕はバーの終わる深夜までそのバーで飲んでいた。楽しかったのだ。はじめはジョンだけだったが、そのうち何人か他の欧米人とも話しをしたりして・・・。欧米人の輪のなかに入っていくためにはガッツと積極性が大事だ。今日は少しがんばったと思う。

はじめサーフボードを借りて少し遊ぶつもりだった。しかし、レンタルのサーフボードなんてありゃしない。あるにはあるがスポンジでできた子供のお遊びのようなものしかない。J-BAY(ジェフリーズベイ)は水底がゴツゴツした溶岩のような岩でしかも浅い。エントリーもイグジットもゴツゴツした岩からでなきゃいけないので、なれないサーファーのほとんどがサーフボードを痛めてしまう。だから、ちゃんとサーフィンしたけりゃ、サーフボードを買うしかないのだ。

中古のサーフボードを探しに出かける。4軒のサーフショップをまわって、中古のサーフボードは2つしかなかった。腹を決めてそのうちのひとつを1300R(19500円)で買った。安くはない。だけど、日本から休みをとってここまでくることを考えれば安いものだ。

いよいよサーフィン。ひさしぶりでパドリングが辛い。毎週海に行っていたときに比べ格段に筋力が落ちている。波も岸で見るのより大きい。何度も何度ものりおくれる。人もたくさんいて、ポジショニングも悪いので、波がとれない。
やっとのことで、のった!と思ったら、すぐにコケた。トホホ。

4、スーパーチューブスにくじける

ある日スーパーチューブスに挑戦した。スーパーチューブスとはJ-BAYのなかでもっともいいポイントで何百メートルものロングライディングができる。いつもは上手な人でいっぱいなので、波の小さい日にチャレンジしてみた。しかし、打ちのめされた。エントリーすらできなかった。チャネルと呼ばれる波うちぎわの岩岩が切れているわずかなすきからエントリーしようと思ったが、寄せる波とのタイミングがよくわからず、岩岩にサーフボードと体を打ちつけられ、ボードも体もボコボコになってしまって、おちおちと帰ってきたのだ。

波に対する熱意がない。波に負けないガッツがない。なんだが中途半端だ。

同室のマサさんはスーパーチューブスをうまく乗りこなす。この波が後半ホレてきてチューブへと変わる

5、J-BAYに打ちのめされる

J-BAYに来て10日目の朝、海に入る。波はどんどん大きくなった。そして、何度も波にのまれる。パドリングして沖にでようとするが、大きな波がちょうど目の前で爆発し、窒息するかというくらい連続して波にのまれた。そして、 僕のJ-BAYでのサーフィンが終わった。

せっかく南アフリカまで来たからついでに・・・そんな考えは甘かった。日本または海外で練習を積んできたものだけがJ-BAYのパーフェクトウェーブにのる権利があるのだ。
本気になって戦えるものにとりくまなきゃだめだ

サーフボードを買った店にボードを売りにいった。だいぶボコボコにしてしまったので500R(7500円)でしか売れなかった。しかし、サーフボードを売ったら何だかほっとした。もうこれで海に入らなくていいのだと。

伝説のパーフェクトウェーブは健在。うまく乗れば1km以上のロングライディングも可能。うまく乗れば・・・

6、J-BAYを去る

はっきり言って、ごきげんなライディングはなかった。だけど、ここに来てよかったと思っている。ここでは、波待ちしているときにイルカがよく現れる。イルカもよく波乗りしているのだ。 はじめ背びれが見えたときはサメかと思ってびっくりした。それはあまりにも普通にあることなので、そのうち驚かなくなった。

そして、ここで会ったいろんな人たち。ジョンからはじまって、しばらく同じ部屋でいっしょだったサーファーのマサさんや同じ宿にいたロブやボーたちとの生活はおもしろかった。ナイロビで会ったりょうたろうくんともここで再会し、テニスをして遊んだ。ビリヤードも少しずつ上達したし、皮肉にもサーフィン以外はうまくいっていたように思う

ナイズナ 6月21日

バズバスでナイズナへ向かう。バズバスとは予約をすれば宿の玄関まで迎えに来てくれ、次の目的地の宿を告げればその宿の前まで送ってくれるという、治安の悪い南アフリカでは大変便利なバスのこと。便利だけど料金が普通のバスに比べ高く、いろんな宿によっていくため時間もかかる。

ナイズナまでの間いくつかの町に泊まっていく。途中の町にも寄ってみたい気もするがそこへ立ち寄って自分は何をするのだろうと思うと気が沈む。トレッキング?バンジージャンプ?それにこれからナイズナにいって自分は何をするのだ?牡蠣を食べて・・・街を歩いて・・・ひとり旅ってつまんないなあ、ふとそんな思いにとらわれてしまう。いかん、いかん。
たまには、ただゆっくりと過ごす、別に何もしない、そんな旅を楽しんでみてもいいのかも。そう考えることにした。

ナイズナはナイズナヘッドと呼ばれる切り立った崖に挟まれたチャネルから広がっている潟湖のほとりの街で、町並みはヨーロッパ、街路樹の並ぶメインストリート沿いにはショッピングセンターやおしゃれなカフェ、レストランが軒を並べている。ラグーン沿いはケープタウンのウォーターフロントのようにこぎれいなモールになっている。雰囲気はいい。だけどワンパターンだなこの国の街は。

夕方、小高い丘の斜面にたつ宿で、ひとりラグーンのきれいな景色を眺めていると、とてもさみしい気持ちになってきた。それは日本にいたときもそうだったし、小さいときもひとりで夕暮れの家にいたりするとそんな気持ちになっていたものだが、旅先だとなおのことだ。 
そんなさみしい気持ちも楽しんでしまえ、そう思うことにした。僕は健康で、こうして自分の好きな旅が今現在進行形で行われている。この境遇に感謝しようと思った。

こんなことは以前にも書いたかもしれないが、それでもまた自分のために書く。

ふと、こんなことしていていいのか?そんな思いがわきあがってくる。抑えようとしても湧き上がってくる不安な思いの原因は何か。ひとつは35歳という年齢によるものだと思う。この年齢でこんなことをしていてもいいのか、まわりの人たちは日本でバリバリ働いているのに自分はのほほんと旅をしている。それに、これまで築いてきたもの、積み上げてきたものを台無しにしているのではないかという不安。仕事、人間関係そのほかいろいろ。日本を2年近くも離れると、日本での仕事の実績はリセットされ、人間関係も時間によって薄められていく、そんな気がするのだ。“今さら”なのはわかってはいるが・・・

こんなブルーな考えはバスに乗っているときや、朝目を覚ましたときに襲ってくる。

それからいろいろな考えや思いをめぐらし、最後には、自分のやりたいように生きているんだからいいじゃん、35歳にもなって旅人やっている人なんてめったにいないけど、めったにいないということは人と違うことをしていることでもあるし、だったらそれはそれでいいことじゃん、と自分を納得させる。

僕たちの夢であり目標である世界一周を完成させるのだ。その途中何度も、こんなことしてていいのか、という考えが湧いてくると思うが、そんなことにかまわず世界一周を完成させるのだ。ひとつの目標の完成のあとには必ず新たな道がそこにあるはず。道は開かれているに違いないのだ。

ひとりで旅するようになって英語が上手になったような気がする。
ナイズナの宿のオーナーの言うことや仲良くなった超ハンサムなイギリス人のジェームスのいうことがわかるのだ。TVでやっていた映画「Coming to America」の英語もまあまあ聞き取れる。
ひとりになって積極的なったのも上達の一因だと思う。自分からあいさつをし、時には自分から名乗り、握手を求める。親しくなったら英語を教えてもらう。例えば、自分がりんごをむいているとすれば、「こういうの英語でなんていうの?」なんて質問したりなんかして。わからないことはわからないって開き直ることにした。

積極的に会話しよう、と思うと語学の神様が降りてきて、不思議と相手の言うことがわかるようになった、そんな感じ。

 バスバスに乗ってオーツホーンへ向かう。
途中で9人の欧米人の若者の団体が乗り込んできた。こいつらが感じ悪くてしかたない。こっちから「ハーイ」と声をかけてもシカト。宿のレセプションでも平気で人が並んでいるのに横はいりしてくる。食事のとき、自分の席を確保するためにテーブルの上にカバンとビールとガイドブックを置いていたのに、少し席をはずしている間に僕の荷物を全部どかして、図々しく座っている。奴らがどこの国の人か知らないけど本当にイヤな感じ。

宿には欧米人が30人ほどいた。バー、食堂、リビングなどすべての場所が埋め尽くされていた。ひとり旅の人は少ない。またしても自分の居場所がなくなって困ってしまった。唯一の自分の場所がベッドの上。そこでまたひとりで日記をつけはじめる。なんか孤独だなあ。

ひとりの旅とふたりの旅は決定的に違っている。それは太陽と冥王星くらい違っている。ふたりならふたりの世界をつくれるが、ひとりの場合ただの孤独。ひとりごとをぼそぼそ言っていたら単なる気持ち悪い人だから黙々としていなきゃいけない。そうするとよけい宿のなかで異物のように浮いてしまう。こんなこと考えていること自体がストレスでイヤになってくる。

ダチョウに乗った日 6月23日

スワートベルグパスと呼ばれる峠から51kmのダウンヒル。途中からほとんど平らでけっこう疲れた
途中にあるオーストリッチファームでダチョウにのせてもらった。このあと乗ったままダチョウを走らせる。なかなかスリリング。人を振り落とすまでダチョウは走り続ける
チーターにタッチした。それが売り物の動物園。大きい毛並みのいい猫といった感じでなでると感触が気持ちいい

モッセルベイ 6月24日

僕はきれいな景色のところでぼんやりしているのが好きだ。

ここモッセルベイというところは、ぼんやりするのには最高の場所。散歩して海辺でぼんやり、海沿いのレストランでサーファーたちの波乗りを見ながらぼんやり、そして宿でもぼんやり、どこでもぼんやりできる。
宿はちょうど高台の大きな弧を描く湾全体が見下ろせるロケーションにある。できることならこんなお家で暮らしてみたい。そんな感じのいい別荘の趣。芝生の庭でもよし、屋上でもよし、大きな窓にフカフカソファーのリビングでもよし、宿のいたるところでぼんやりできる。

ひとりの旅だからこそとことん好きなだけぼんやりできる。それは、自分にとって快い時間。ぼんやりしながら、映子は今窮屈な飛行機の中か・・・どんな気分なんだろう?って考えてみたり、短い間のひとりの旅を振り返っていた。

英語で宿に電話することやバスの予約をすることにはまったく抵抗なくなった。欧米人に囲まれることに対してもタフになった。そんなことを考えるとちょっと誇らしい気持ちになった。それはたいしたことないことなのかもしれないけど、小学生のときひとりで隣の町まで電車でいった、はじめての幼き日の小旅行をやり遂げたときのような気分をぼんやりした頭に蘇えらせた。

和食レストランからモッセルベイを望む。景色もさることながら巻スシも美味

映子と再会 6月25日

 僕がケープタウンに着いたのは8時半ごろだった。それからキッチンのテーブルでゴルゴ13を読んでいたら髪を短くカットした映子が現れた。2週間ぶり。自分の想像以上に新鮮だった。

僕たちは1年と3ヶ月間ずっといっしょだったわけだ。1年以上ほとんどかたときも離れない。寝ても覚めても隣には映子がいる。そんなことって、僕のこれまでの人生の中で、赤ん坊時代母親とずっと一緒であった、それ以来のことなのだ。
14日間×24時間というブランクは頭で考えているより、感じ方としてはもっともっと長いものだったんだと思う。だから、映子と再会したときに、ちょっと不思議な感覚だが、別の人のように感じた。ひとりで旅をしていたときに頭のなかにあった映子像と目の前にいる実物とがうまく合致しない、そんな感覚。いっしょに旅していたときは自分の一部と思っていたのが、やはり別の人だった、そんな感覚。

「あきのじちゃん、さみしかった?寂しかったんでしょう?やっぱり?」
「ちょっとだけ」
「あっやっぱりさみしかったんだ。私楽しかったよ。日本楽しかったよ。楽しくてすっかりあきのじちゃんのこと忘れてたよ。」
映子に笑顔でいわれたのがなんかくやしかったが、ひさしぶりの再会に話題は尽きず、夜遅くまで宿のキッチンで話をしていた。(昭浩)

日本の週刊誌、日本のカップラーメン具太、新しいパソコン、新しいデジカメ、映子が持ってきたものはどれも刺激的なものだった。具太のうまさは感涙ものだった。パソコンとデジカメの変化には驚かされた。郵政の民営化にもびっくりした。

旅に出る前に買ったパソコンがエチオピアで壊れてしまった。新しいパソコンは、デザインこそ無骨だけど小さいわりに電池は長持ちだし、CD-RW、DVDドライブも内臓だ。液晶も明るくて見やすい。ハードディスクは、以前使っていたものの4倍の40Gにあがり、メモリーも128から248へとあがった。オフィスXPも標準インストールなのに、前に使っていたものより安い。
いいものがより安くなっていることにここ2年の変化を感じてしまう。

次にカメラ。映子は普通のカメラを置いて新しいデジカメを買ってきた。そのデジカメは小さくてポケットサイズ。本当はもっと小さいものもたくさんあったのだけど単3電池の使えるもので一番小さいものを選んできた、そう映子は言っていた。
僕の使っているオリンパス3030というのに比べはるかに小さい。オリンパス3030は買った当初は最新型だったのに、最近では「でかいカメラですね。これ本当にデジカメですか?」といわれたり、「年季ものですね。」と真剣な顔していわれたり、さんざんであった。メディアが変わりつつあるという事実もショックだった。スマートメディアにとってかわり、これからはXDピクチャーというさらに小さなメディアになるという。ちなみに僕はスマートメディアを5枚も買って持っている。

映子にデジカメをさんざん自慢された後、たいへんショッキングな事実を伝えられる。中国から南アフリカまで映子が撮ったフィルム36本の現像代、約5万円。デジカメが余裕で買える驚くべき値段だ。やはり時代はデジカメ、ということなのか。(昭浩)

ブライを楽しむ休日   6月29日

ブライとはバーベキューのことだ。韓国人の留学生ドンがホームステイしている家でブライをやるというので誘われた。ドンはケープタウンで仲良くなったりゅうすけくんのクラスメイト。
テーブルマウンテンの麓にある静かな住宅地。そこの庭で炭火をおこし、ダチョウ、ラム、ポーク、ビーフ、チキン、マッシュルーム、ムール貝を焼く。コチジャンに漬け込んだ韓国風のお肉もあった。ビールにワイン、たくさんの食べ物を午前中に買い込み、昼過ぎからブライがはじまり夕方ちかくまでひたすら飲んで食べる。こんなことをほぼ毎週末雨が降らない限りやっているのだという。ブライというのは南アフリカ人のよくある日曜日の過ごし方らしい。とてもうらやましくも思うが、毎週末ブライをするのは、それで一日つぶれてしまうから、なんかもったいないように思う。たまたま招待された僕らは大変満足な一日だったけどね。(昭浩)

ドンとそこの家族や知り合いの人もみんな一緒に食べる
りゅうすけくんにビリヤードを教えてもらう

ロベン島   6月30日

マンデラ元大統領が収容されていた刑務所がある、ロベン島へ行った。ウォーターフロントでチケットを買って、船に乗る。
ロベン島に着くと、バスに乗って、ガイドの説明を聞きながら、いろんなところをまわる。英語の説明に疲れたあきちゃんは、刑務所に着く前にすでにぐったりだった。ロベン島は、刑務所以外にも、テーブルマウンテンがきれいに見えるところや、ベンギンやスプリングボックがいるところもあるのだ。

やっぱりメインは刑務所、刑務所に実際に入っていたという太っちょのおじさんが説明してくれる。刑務所から手紙を出すのも、受け取るのも制限され、内容も見られて削除されたり、出してもらえなかったりしたらしい。食事もアジア人と黒人では内容が微妙に違う。だけど、今のこの刑務所は、きれいに観光地化されていて、昔の暗い面影はあまりなかった。ただ、青くてきれいな海が、周りに広がっていた。刑務所の中から、海やテーブルマウンテンは見えないけれど。(映子)

ロベン島から見たテーブルマウンテン。ここに捕らえられた人たちは、実際刑務所のなかからこの景色を見ることはできなかった
無機質な囚舎 ツアーの様子
英語の説明が眠気を誘う。ちと不謹慎
マンデラ元大統領が入っていた牢屋
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