6月16日〜6月28日
その道はデスロード(死の道)と呼ばれている。
幅の狭いオフロード。落ちれば奈落の底へとまっさかさま。年間200人もの人がここで命を落としている。年間200人!2日に1人以上だ。それはちょっとビビるなあ。コロンビアの年間誘拐件数の3000人もビビッたけど、これもけっこう危険な数字だ。
その死の道を自転車で下るというツアーに参加した。年間200人といっても、そのほとんどはトラックやバスの転落によるものだから自転車だったら問題ないだろう。それだけ危険な絶壁がつづくということはそれだけ絶景がつづくということでもある。
それに標高4700mから1200mへと3700m下るダウンヒルなんて、世界広し、といえどもそうそうあるもんじゃない。3700mの標高差といったら富士山のてっぺんから海までくらいあるのだ。デスロードというその危険な響きすら、魅力的なスリルへの誘惑に聞こえてくるではないか。
しかし、甘かった。この後悲劇が待っていようとは、僕らには全く思いもしなかった。
朝8時半頃、ラパスを出発し、自転車を屋根につんだバンは1時間ほどでクンブレ峠に着いた。ここが標高4900m地点だ。
朝食をとり、スタッフによる説明のあと、さっそく出発。このあたりは道が舗装されているので走っていて気持ちいい。アンデスの峻険な峰が目の前に迫る。迫る山々を仰ぎ見ながら、ぐんぐんスピードをあげて走る。
景色サイコー。
気分サイコー。
2時間のダウンヒルは至福の時間だった。しかし幸せはそこまでだった。
オフロードにはいるとハンドルを握るのがつらいほど振動が激しく、しかも急なカーブも多い。崖側に落ちてしまうとまず助からないだろう。カーブ手前でブレーキをかけるのだけど、道には浮石も多く、スリップしそうでこわい。自転車なら大丈夫、と余裕かましていたのは大間違いだった。そのことに来てみてようやく気がついたのである。
聞くと自転車ツアーでも何人かここで死んでいる。道端には自転車ツアーで亡くなったイスラエル人の墓標があった。去年も別の会社のツアーでトラックにひかれて亡くなった人がいるとも聞いた。そういえばツアーに申しこんだとき、その会社の人は、
「安全だ。死んだ人だっていない。」
といっていた。
「死んだ人がいない・・・そんなこと当たり前じゃないか、自転車なんかで死ぬかってんだ。」と僕はそのくらいにしか考えておらずその言葉を適当に流していた。
死人を出さない記録更新中、というのがどうやら僕らが申しこんだツアー会社のセールストークになっているらしい。実はここでの死亡事故は少なくない。毎年誰か死んでいるというのだ。
危険危険といわれているのに、僕ら2人とドイツ人の3人は、他のイスラエル人集団とアメリカ人グループをおいて、ガンガン飛ばしていた。
「あんまり調子にのるとケガするで」
といっていた矢先のことだ。
映子が後ろタイヤを滑らせてころんだ。スピードがあまりでていなかったので大丈夫みたいだ。それから少ししてから今度は大きく転んだ。スピードを落としきれず、オーバースピードでヘアピンにはいったため、曲がる時アウトにふくらみすぎて、道の脇の大きな石ころがっているエリアに突っ込み、跳ねあがる様にして転んだ。
強く体を打ったようだ。立ち上がれないくらい痛いみたいだ。ジャージのヒザのところには血が滲んでいる。ヒザのキズは深く縫うことになりそうだ。
4,5時間ずっと坂を下り続けているのでだんだんブレーキをかける握力がなくなってきたのだろう。ガケ側に突込まなかったのは幸いだ。
とにかく僕らはデスロードから生還した。その後映子は何針か縫ったものの大事にはいたらなかった。
今回は、僕らは高いツアーに参加していた。それが不幸中の幸いだった。スタッフによる応急処置は迅速だったし、ラパスに戻ってきた後、病院に運んでくれ、医者の通訳、医療費や薬代まで支払ってくれたり、ホテルまで送ってくれたりと、しっかりやってくれた。
でも、もう死の道はこりごりである。 (昭浩)
ルレナバケに行く前は、全然行く気がなかった。あきちゃんがちらっと行きたそうにしてたけど、私は、
「私はスピード出すから無茶してけがしそうでイヤなんよ。」
とつぶやいた。
でも、ルレナバケからラパスに帰ってくると、なぜか2人とも行く気になっていて、すぐに申し込んだのだった。
アスファルトの道は、交通量も少なく、快調に飛ばしていった。雪山が見えるし、景色はかなりいい。あー来てよかった。と思った。超気持ちいい。
オフロードに入ってからがいやだった。とてもこわかった。自転車がガタガタ揺れるたびに恐怖感を感じた。こりゃあもしかしてやばいんちゃう?というところが何度もあった。それでも相変わらず、サイクリストのドイツ人の後ろにぴったりくっついて、かなり飛ばしていた。
ガタガタでやばいところも運良く切りぬけてきたんだけど、カーブのところで一度転んだ。右ひざを打ったけど、まだいける。もうちょっとで着くかな。がんばるか。気持ち的には、「もういやだな、やめたいな」とも思ったけど、反対に「いやいや最後までがんばらなきゃ」という気持ちもあった。
再びカーブでコントロールを失い、こんどは激しく転ぶ。今度は再起不能だった。右ひざから血が出ている。傷が深い。ツアー会社の車に乗って、応急処置をしてもらった。痛い!だんだんと冷静になってくるにつれて、いろんなところが痛くなってきた。左足も、両肘も、胸も頭も少しずつ打ったらしい。終点までは、まだ小一時間ほどあった。もう怖い思いをして自転車に乗らなくてもいいのでほっとした。
今までの人生の中で、「もう私死んじゃうかも」と本気で思ったことが、3回あった。1回目は日本で自転車に乗っていて車とぶつかった時、この時もレントゲンと散々撮ったけど、骨に異常なし、ただの打撲。2回目は中国での交通事故。この時ケガをしたのはあきちゃんで、私は無傷。3回目はマラリアで入院した時。かなりつらかったけど、キニーネのおかげでなんとか生還。今回が4回目だ。でもこのくらいの傷ですんで、生きて帰って来れて本当によかった。(映子)
ラパスには毎週木曜日と日曜日に開かれる有名な古着市がある。
パタゴニア、ノースフェイス、GAP、リーバイスなどブランドものも中にはあるという。多くのバックパッカーは掘り出し物を探しに目の色変えていくのだが、僕はちょっとさめている。ハッキリ言えば古着市というものにはまったく魅力を感じていないのである。
こういうことを自分ではあまりいいたくないのだが、僕は、多分、ダサイと呼ばれる部類に入る人間だと思う。
センスがないし、見る目がないのだ。どれがいいものなのか、自分ではうまく判断できないのだ。自分の判断に自信がないとも言える。だから、日本にいるとき、できることなら僕はブランド物をきちんとしたお店でできるだけ買うようにしていた。スーツはポール・スミスなら間違いないだろうと結婚するまでずっとポール・スミスだったし、革靴ならリーガルだったらOK、運動靴はナイキかアディダスなら安心と思っていた。
おしゃれな人は下着にもこだわる、とよくいうが、僕の場合、人目につくところはセンスのないことをブランドパワーでごまかそうと、知名度のあるブランドの品で固めていたのとは反対に、たとえばパンツなんかでいえば、3枚1000円のもので十分ぐらいに考えていた。
一応、イザという時のために、勝負パンツだけは持っていた。それは会社の人からもらったきわどいブーメランカットのKIKUCHI TAKEOのブリーフだった。それは、ゆったりとしたトランクスに慣れている身にはとても窮屈に感じられた。さらに困ったことに、腰に浮き輪をつけたような体形にくいこむきわどいブリーフはとても醜く、勝負パンツなのにまったく勝負にならないのである。そして3枚1000円のパンツに落ち着くのである。
見る目のない僕のような人間にとって古着市なんかにいっても掘り出しものを見つけるのなんて、ハナからムリと思っているし、実際行ったところで悪かろう安かろうなモノをつかまされるのがオチだ。しかし、今回は状況が違う。僕はかなり追い詰められた状況にあった。
10年以上使いこんだモンベルのフリース、こいつのジッパーがもう全然ダメなのだ。
ジッパーを上げたところから開いてくるのである。ジッパーは使わないようにしているのだが、寒いとついついクセで上げてしまう。すると目の前にいる人は不思議な顔でそのジッパーに目が釘付けになる。そのたんびに「ジッパー壊れちゃって、ハハハ」と照れ隠しの弁明を何度とした。だからそろそろ買い替えたい。
ズボンのほうはもっと悲惨だ。腿のあたりがすでにつぎはぎだらけで、繕っても繕っても3日としないうちに違うところが破れてくる。今では映子もサジを投げた状態で、ポケットに手をつっこむと破れたポケットとズボンをすりぬけて、もれなく指が2,3本飛び出してくるのだ。ケープタウンで買ったズボンはちょうど1年でその寿命を終えようとしている。
そしてダウンジャケット。これから極寒といわれるウユニ塩湖や冬のパタゴニアにいくにあたって防寒用にダウンは欲しい。フリースとズボンとダウン、この3つはここラパスでゲットしておきたい。
日本で着るための服を買いこんだり、日本で売って小銭をかせごうなんていう日本人旅行者もいるが、僕にはそんな余裕なんてものはない。目の前に差し迫った事情に強く後押しされ、僕らは古着市に行くことになった。
古着市と僕たちが思っていたものは実際ガラクタ市に近いものがあった。電子部品や金具、スポーツ用品、海賊版CDなどなど。もちろん古着もたくさんあった。地面にひいたビニールシートのうえに積まれた古着の山があちこちにあった。
はじめ古着の山に飛び込んでは掘って掘って掘りまくっていたが、あまりにクズなものばっかりなので、だんだんその情熱はなくなっていった。たまに、パタゴニアのフリースやノースフェイスのズボンなんかが見つかると、とてもやる気がでてくるのだが、サイズが合わなかったり、ボロかったりでなかなかいいものにめぐり合えない。
結局いいものが見つからず、ファスナーをひとつ買った。今のフリースにファスナーだけ付け替えてこれからも使い続けようという作戦に出たのだ。
「あーあ、何しにこの古着市で半日つぶしていたのだろう」
と放心状態で歩いているところにジーンズの山があった。
売っているおっさんに聞くと、どれでも1本5ボリビアーノ(75円)だという。
本当はゆったりとしたチノパンタイプを探していたのだが、サイズがちょうどのリーバイスがあったので買ってしまった。隣では映子もちゃっかり自分に合うリーバイスを見つけ出して買っている。彼女はさらに執拗なねばりを見せ、20ボリバール(300円)のダウンジャケットも掘り出した。
実はこれ10日前の話。今日は2度目の古着市に挑戦だ。前回は不本意な結果に終ったのでもう一度今度はフリースとダウンを探すのだ。格闘技用語でいえばリベンジってやつだ。
今回はとっておきの情報を入手した。古着市の奥のほうには実は問屋街があって、そこにはなかなかいい品があるらしい。古着の山のところほど安くはないけど、きちんとつるされたブランドものがかなりの安価で売られているらしいのだ。
僕はやった。目当てのものをゲットしたのだ。ティンバーランドの新品同様のフリースが35ボリバール(525円)、同じく新品同様GAPのダウンジャケットが80ボリバール(1200円)、およそ1時間で見つかった。そして僕は変身した。自分で言うのもなんだが、小奇麗で垢抜けた旅行者になった。(昭浩)
ペーニャに行った。ペーニャとはこのあたりの民族音楽フォルクローレを聞かせるレストランのことだ。ペーニャに行けば、インカ時代から伝わる音楽が堪能できる。インカ時代の楽器とは、竹でできた縦笛のケーナや竹の小さな筒を並べてくっつけたハーモニカのような楽器サンポーニャ、小さなギターだけどやたら絃の数が多いチャランゴといったものだ。
あんまりノリ気でなかったマリちゃんとゴルくんを強引に誘って4人ででかけた。
僕らが行ったラパスで有名なペーニャは、中央正面に舞台のある60人くらいは収容できそうなレストランだった。ここは食事を楽しみながらフォルクローレを堪能するという趣旨のレストランではあるが、もちろん僕らはドリンク1杯で最後まで粘るつもりだ。
それでもドリンク1杯16ボリバール(240円)、ライブチャージが1人25ボリバール(375円)もする。日本の感覚で言えばアホほど安い、となるのだが、例えば今夜食べた中華が1人10ボリバール(150円)で腹いっぱいになることを考えると、それはとても高いということになる。1杯16ボリビアーノ(240円)の飲み物というは、日本で言えば1杯2000円のホテルのバーで飲むカクテル、そんなようなもんじゃないかな。ミミッちいハナシはおいといて、フォルクローレの話だ。
はじめに若い人たちのバンドが出てきた。フォルクローレのきちんとした演奏ははじめて聞く。その演奏は、チチカカ湖の渡し船のなかでチップ稼ぎのために演奏するお兄ちゃんたちのものとは全然ちがう。音がしっかりと出ていて、それだけで感動してしまった。
楽器屋で僕らはさんざんサンポーニャとケーナを吹く練習をしたが、かすれた音がかすかに聞こえるだけで、とてもじゃないが、音をしっかりと出すなんてできなかったのだ。
次に出てきたのが、ペペ・ムリーリョというおじさんだった。後で知ったことだが、この人はボリビアの三波春夫みたいな人で、音楽家としてというよりは、バラエティ番組なんかに出てくるタレントとしてボリビアではまあまあの有名人らしい。だからか、やたらトークに磨きがかかっていて、客を盛り上げたり笑わせたりするのがとても上手。僕たち日本人4人もペペにうまくのせられて、舞台にあげられ、そこでペペのチャランゴの演奏をバックに、「上を向いて歩こう」を歌うことになってしまった。
まあまあウケはよかった。
ペペはチャランゴの演奏がかなりうまい。しかし、やたらトークが多い。トークしながら休んでいるようにすら感じる。うまいんだからもっとチャランゴ弾け、とガツンといってやりたいところだ。それでも、会場はやたら盛り上がっている。そんな盛り上がっているなか、日本の青年に声をかけられた。
「次に僕たち出るのでこれが終ってもここにいてください。」
そういった彼の気持ちはよくわかる。
今日のライブのメインはやはりペペだろう。僕たちもこれが終ったら多分もう終わりだ、くらいに考えていた。時間も12時ごろになっていたし。
「ペペの後に演奏なんて大変だなあ。」
「日本人というよしみもあるし聞いておこうか。」
そんなことをささやきながら、ペペの演奏が終って、彼らの出番が来るのを待った。
そして、インディヘナ衣装である毛のポンチョを着た5人組登場。日本人の彼はギターを担当していた。3曲目に入るとき、リーダーの男が日本から来たアキモトを紹介した。そしてそのアキモトがメインボーカルで演奏がはじまった。ブームの「島唄」だ。超ウマイ。
ボリビア人の反応は、そのうまい歌に聞き入っている人もいれば、歌に聞き入っている僕たち日本人の様子をチラチラ見ている人たちもいる、そんな感じだ。
アキモトさんはその後ボリビアの歌なんかも歌ったりしていた。彼がボリビア人のバンドの中でかなり重要な役割を果たしているようでとてもうれしかった。
ライブが終った後アキモトさんと話し、そこでたいへんなことを聞いてしまった。僕らの隣のテーブルに座っていたおっさん、カタコトの日本語で話してきたり、ゴルくんのタバコをねだったり、調子のいいただのボリビア人のおっさんかと思っていたら、実はそのおっさん、チャランゴの神様と呼ばれるエルネスト・カブールなのだそうだ。その名前を僕はその場ではじめて聞いたが、超有名人らしく、地球の歩き方にもチャランゴの神様として紹介されている。実はペペが演奏している途中、
「今日はマエストロ(先生)が来ています。」
と紹介されたこのおっさんは、壇上にあがって、チャランゴで風の音やら馬のかける音なんかを余興でやっていた。みんなはそれに聞きいっていたためシーンとしていた。
「先生?学校の先生も僕たちみたいに壇上にあがるのか。ボリビア人の先生はノリがいいなあ。」
とそのとき僕は勝手にそう解釈をしていた。
演奏がはじまって、みんなが静まりだしたときも、
「このおっさん、場をシラけさせやがって、しーんとしちまったじゃねぇか。」
くらいに思っていたけど、どうも違ったみたい。みんな神様の技に魅せられていたのだ。
神様と知ると僕らは態度が変わる。それまで、しかたねぇなあ、タバコくらいあげるよ、みたいな感じでウザそうにタバコをあげていたゴルくんは、
「オレは神さまにタバコをたくさんあげたんだぜい。」
と自慢しだし、マリちゃんなんかはチャランゴ買って神様にサインもらってそれを高値で日本に帰ったら売るんだ、といって神様の住んでいるところをチェックしていた。
神様はもう僕らのことを覚えちゃいないと思うが、もちろん僕らのなかでは、チャランゴの神様エルネスト・カブールはアミーゴとなっている。 (昭浩)
今日は何をしたか?今までずーっと「行かない!」とかたくなに拒んでいた月の谷に行ってきたのだ。
なぜそんなに拒んでいたかというと、そんなに深い理由はないけれど、昔あきちゃんが行ったことあるということと、私も特に行きたいとは思わなかったということがあげられる。
だけど、このあいだゴルくんとマリちゃんと話していた時、「月の谷よかったよ。」と言われて、なんとなく、行こうかなという気になった。観光にそんなに力を入れていない二人が行くということは、よっぽどのことかもなと思ったのもある。
そしてあきちゃんはといえば、「月の谷の近くの動物園でコンドルが見れるよ」と言うのを聞いて行きたくなったらしい。
月の谷は、ボコボコと突き出た砂の山、そこに遊歩道のような歩く道が整備されている。あきちゃんが昔来たときはそんな道はなく、ただどうしていいかわからない状態でこの風景を一瞬見て終わり。だからよかったという印象もないらしい。
月の谷は結構よかったんだけど、入り口のおみやげ物屋のおやじとおばはんが、ドネーションで金を払えと言ってくるのには閉口した。これは払うべきなのか?迷った挙句に
「考えとくよ。」
とあきちゃんが答えた。
帰りには「プロピーナ(チップ)」と言われたので、こりゃあ払っちゃダメだと、そのまま通り過ぎた。ドネーションとチップでは全然違う。結局はこの月の谷にではなくて、おやじとおばはん個人へ払うお金ということらしい。払う義理は微塵もない。ただのおみやげ物屋のくせしてなんてやつらだ。
次は動物園。日曜日ということもあり、家族連れでにぎわっていた。入り口にある湖にはフラミンゴがいた。ジャガーはとにかくたくさんいた。小さな檻に入れられたものから、少し広い場所にいるやつ、3、4ヶ所に分けられて、合計10頭以上はいる。ピューマは2、3頭、しかもジャガーよりも地味。
目玉とも言えるコンドルは小さなかごの中、飛ぶこともできずにじっとしていた。一番大きなドームには、4羽いたが、こいつらも小高い丘からバタバタと飛んで低いところに下りるが、登りは歩きである。その背中、哀愁が漂っていた。飛べないコンドルって哀しい。動物たちと写真撮ったり、コンドルのドームの金網によじ登って写真を撮ったりするボリビア人を散々し見て楽しんだ後、宿に戻ると疲れて寝てしまった。(映子)
旅には人それぞれのスピードというのがあって、長期になればなるほどそれが顕著にあらわれてくる。僕たちはわりかし早いほうだと思う。僕と映子にもその差はあって、映子はさくさくと駒を進めたがるタイプだ。
「もうちょっと長く居ようよ。」
とダラケモードに入り、映子に提案するのはいつも僕のほうだ。
「ダメ。予定どおり今週中には出るから。」
いつも映子はきっぱりと僕の提案を一蹴する。
なのに、ラパスはいついつ出る、ということを行ってこない。こちらから尋ねても
「ケガした足の調子が良くなったら」
と返事は曖昧だ。
中国で乗っているバスが横転して僕がケガをしたその翌日でさえ、僕が休みたいというのも聞かず、500キロのバス移動を強行したそんな映子が、だ。
映子はラパスが好きになっちゃったみたいだ。
スペインのビルバオに滞在しているときもそうだった。いつ出ようかと尋ねても、
「いつ出ようかねぇ」
とキレのない返事。そうこうしているうちにダラダラとのべ1ヶ月も居候。好きな場所を離れたくないときの映子のパターンだ。
「ラパス好きでしょ?」とストレートに聞くと
「うん、好き。」と素直な返事が返ってきた。
ラパスというのは僕も好きな街だ。しかし、あんまりやることがない。ごはんを食べて、民芸品を物色するか、日本人会館に行って日本の漫画を読むことくらいしかやることがない。なのに、どうしてそんなに好きなんだろう?
「おいしいものがたくさんあって、しかも安いでしょ。朝おいしいパステル食べて、昼は何食べようかなって考えるだけで幸せでしょ。昼食べたら夜は何食べようかな、その前におやつ何食べようかなってそんなこと考えているだけで楽しい。」
映子がいうにはそういうことらしい。
食欲オンリーでラパスに沈没ムードとは・・・それでいいのか。
うまくて安いメシともうひとつ言うなら、ほどよい気候、これが映子が幸せを感じる場所の条件なんだろう。そういえばネパールのカトマンズでも35円のダルバートが大のお気に入りで毎日食べて幸せそうだった。ビルバオではおいしいごはん付の居候だったし・・・。
大好きなラパスを今日去る。
「また今度こよう。また今度来るんだ。」
映子はしきりにそう言っていた。(昭浩)
スクレといえば白い壁の建物の並ぶコロニアルシティ。その街並みはユネスコ世界遺産にも登録されている。世界遺産ハンターとしてはこの町も押さえておかなければならない。というのはウソで、いや半分は本当なんだけど、真の目的は恐竜の足跡だ。
僕たちは夜行バスで着いたばかりなのに、元気な足取りで恐竜の足跡へ向かう。ピックアップカーの荷台に乗ってきたところは、セメントの材料であるライムストーンの採掘現場だった。切り崩された山の断層に囲まれた工事現場をガイドの人と一緒に歩く。
恐竜の足跡はほとんど垂直の断層の表面にあった。巨大な動物の足跡だ。このあたりは昔湖で、そのまわりを恐竜たちは闊歩していたんだ。なんか悠久のロマンを感じるなあ。たかが足跡なんだけど。
僕は上野の国立博物館の恐竜展にいったとき、恐竜の骨を見たことがある。この恐竜の骨ってやつは全くリアリティを感じさせない。骨を見ても、恐竜は夢の中の生き物でしか感じられない。しかし、足跡は違う。なにか生々しさを感じる。この土の上を歩いた確かなあと。確かに巨大な生き物が存在した形跡。
午後はスクレ市内観光。スクレは最初に言ったとおり白壁のきれいな町。きれいな町は町ですばらしいのだけど、どう見てまわったらいいのかわからない。
僕は目的直進型の人間で、無目的にフラフラする、といったタイプの観光または旅、町めぐりにむいていないのだと思う。結局いきあたりばったりフラフラ型の映子に身を任せて、彼女にただついてまわった。
恐竜の足跡にロマンを感じ、と植民地時代の面影を残す美しい町並を、その当時に思いをはせながら歩く。ブエン・ディア(いい一日)とはこういう日のことを言うのだろう。
(昭浩)
ポトシには富の山と呼ばれる鉱山がある。かつて世界で最も銀のとれた山だ。今日はそのかつて世界ナンバーワンだった銀山のなかを探検する。探検するといえば聞こえがいいが要は鉱山ツアーに参加するだけのことだ。
ちなみに僕たちはかつて世界ナンバーワンの金鉱であった南アフリカのゴールドリーフシティの金鉱ツアーにも参加しているから、これでかつての金・銀世界ナンバーワンを制覇することになる。
しかし、今日はあいにく体調が悪い。朝から水ゲリだ。映子が昨日バスに乗る前に買ったいかにもまずそうなメレンゲケーキがあたったと思われる。つい欲張って映子より多く食べてしまったため、ゲリの映子よりもはるかにひどい水ゲリ状態なのであった。とにかく宿で出すだけ出してツアーに出発した。
作業服に長靴の格好になり、ヘッドライトのついたヘルメットをかぶる。そして鉱夫へのおみやげとしてジュースやらコカの葉やら、あと中で爆発させるためのダイナマイトやらを購入。はじめて間近で見るダイナマイトに軽い興奮を覚えた。
そういったものはインディヘナのおばちゃんが道端で売っていた。これは驚きだ。
ラパスでデモする連中のなかには過激なものもいて、ダイナマイト持って教会たてこもったり、自爆テロのようなことをしたりといった事件があったりする。そんなボリビアのご時世で、ダイナマイトが道端でしかも1ドル程度で買える。それでいいのか?
ガイドにコカの葉を薦められた。コカの葉は、コカインの原料となる葉のことであるが、この国では合法だ。それに、コカの葉を噛んだくらいでは、別にトリップしたりすることはない。それでも鉱夫たちが長時間の過酷な労働に耐えるためには、コカの葉は絶対必要なのだそうだ。ということはまったく何も効き目がないということもないのかもしれない。
コカの葉は、緑茶のような味がした。長い間、噛み続けると、舌の先がジーンとしびれてきた。気分も高揚し、水ゲリのことなど気にならなくなった。コカの効果か。
高さ2mもない小さな入り口から鉱山の中へと入った。
中はトロッコ用のレールがひかれていた。中では何人かの鉱夫のおじさんたちと会った。トロッコで石を外に運ぶ人、ドリルで穴を開ける人、ドリルで開けた穴にダイナマイトをつめ、さらに粘土でそれを固定する人など鉱山で働く人たちの姿を見物した。
小学校の社会科見学でパン工場、車工場、造幣局なんかを見学したことはあったが、鉱山見学というのはなかっったし、教育テレビで昔「働くおじさん」という番組があったが、やはりそこでも鉱山をテーマにしたものはなかった記憶がある。
現役バリバリの鉱山の現場を目の前で見られるというのはちょっとすごいんじゃないか。でも正直、鉱山でだけは働きたくないなあと思った。暗くてどんよりとした空気のなかで一日働くのは耐えられないよ。
ドン!音とともに空気の振動が伝わっていた。2,3秒してまたドン!これにはちょっとビビッた。
何かあって暗くて狭いところで閉じ込められたらどうしよう、そんな不安が襲う。どこかでダイナマイトが爆発しているらしい。ツーリストが中にいるというのに、そんなにドンドンダイナマイトを爆発させていいのか。
でも、どうやら僕らのツアーグループもデモンストレーションのためダイナマイトを爆発させるらしい。ガイドがニトログリセリンのしみこんだダイナマイトをとりだし、そこに導火線を突き刺してつける。導火線に火をつけ、穴の奥へと走っていき、そして戻ってきた。僕らは耳にトイレットペーパーをつめ、さらに手で耳をふさいだ。
ドーン!!しばらくすると大きな音とともに爆風がやってきた。体にずっしりとあたった大きな空気のかたまりだった。これが生まれてはじめて受けた爆風体験だった。思っている以上の衝撃にすこしうろたえたが、終ってみれば、なかなか面白いじゃないのと思える。
次に僕たちはその鉱山のなかで、最も鉱物の豊かな場所へと向かった。そこは、今僕たちのいる場所から6階上のところにあって、そこまで細いたて穴にかかるハシゴを登っていかなければいけない。
一つ上の階に登ったところで忘れていたゲリが再びもよおしてきた。いつも思う、人は高いところに登るとどうしてもよおすのだろう。
しばらく待ったら波が去った。そしてもうひとつ上のフロアに登ると、さらに激しい痛みと圧力を下腹部に感じた。マジかよ・・・。
僕はグループの最後尾にいたので、後ろには誰もいない。チャンス、ここでやっちまおう。マジでそう思った。ヘッドライトの明かりを消せばそこは闇。誰にも気づかれずにできる。うーん・・・。
やはりやめることにした。暗くて狭い鉱山のなかでくっさいゲリ便を垂れ流すというのはやってはいけない。劣悪な環境で働く鉱夫たちに申し分けないだろう。少なくとも36歳で所帯のもったオトナのやることではないと思ったからだ。
というのはまったくのウソで、ただケツを拭く紙がなかったからガマンしただけだ。
僕は忍耐強く、いくつかの波を越え、鉱物の豊かな場所にたどりついた。たしかに、そこには鉱脈らしきものは走っていたが、いわれなきゃわからないようなものだった。せっかく苦労してそこまできたのだから、一応記念にそこからキラキラ光る石をもぎとってきた。
最後に僕らは鉱山のなかにある祠を訪れた。祠にまつられていたのは神様ではなく、ちんぽが大きくそそりたった真っ赤な悪魔だった。悪魔を一番奥にして7,8人鉱夫がすでにできあがって座っていた。ちょうど昼休みで飲んでいるらしい。休憩時間も暗い穴の中か・・・そんな一日ってどういうものなんだろう。
彼らの給料は職種によって変わるが、月に900ドル〜1500ドルだという。ボリビアの物価から考えると、けっこうもらってるんだ、と思うが、それだけもらってもこの環境で働くのはつらいなあと思った。
この鉱山ツアーは勉強にもなる、冒険心もくすぐられる、ダイナマイトも体験できる、となかなかナイスなツアーだと思う。しかし、水ゲリの僕にとっては闘いの連続であった。宿にもどって、体中にアブラ汗をかきながら、トイレにかけこんだのはいうまでもない。(昭浩)
いやーすっきりしました。ガマンにガマンを重ね、九死に一生を得ました。
すべてを出し切って、たぶんゲリの原因であるメレンゲケーキも出し切って、体調復活したみたい。
ということで、昼ごはんにアルパカのステーキを食べ、午後には造幣局にいった。
ポトシでとれた銀はこの造幣局で銀貨にされ、そして本国スペインに運ばれたという。間違いなく世界で一番銀貨をその当時作っていたのだろう。造幣局のあと、塔に登ってポトシの町を見下ろす。きれいな円錐の形をした赤茶色の銀山リッチマウンテンと赤い屋根の並ぶポトシの町、きれいな少し哀愁のあるポトシの景色だった。
世界最高所の町ポトシは、寒々しく、寂れた感じもあり、歩いていてもどこか哀しい雰囲気が感じられる。日本的にいえば演歌の世界だ。
過去に銀で栄華を極め、銀がとれなくなってくるとともに衰退していった町。新しい時代にスズ、タングステンで復活し、活気をとりもどした町。鉱山労働者たちやポトシの人たちの哀しみと夢や希望の歴史の繰り返しが刻み込まれている。
ポトシの町で僕らはペーニャにフォルクローレを聞きに行った。ラパスのペーニャでかなり満足していたんだけど、ここポトシこそフォルクローレの似合う町だと思ったのだ。
実際聞いてみて、やはりそうだった。舞台のない小さなレストラン、ギター、ベース、サンポーニャ、ケーナ、太鼓の人たちが並んで演奏する。素朴で情熱的な音楽、インディヘナのアイデンティティ、ソウル、そういったようなものがポトシのフォルクローレの中にはあった。そして寂しげなポトシの街に、その垢抜けない音色の調べはとても合っているように思えた。ポトシの深い闇の夜空に、凍りそうなポトシの冷たい夜にとても似合っていた。 (昭浩)
ブロッケリア・・・それは道路をブロックしてしまう道路封鎖のことだ。この時期ボリビアを旅した旅行者はこのブロッケリアに苦しめられたハズだ。今日の僕らもそうだった。
僕らの乗ったバスは予定時間を1時間ほどおくれて出発した。出発した後、しばらくセロ・デ・リコ(=リッチマウンテン・富の山)の円錐状のきれいなシルエットが見えていた。この山鉱山のくせに標高4900メートルもある。ヨーロッパアルプスのモンブランより高い。
乾燥した悪路をほこりを舞い上げながらバスは走る。日も暮れかかった夕方5時半ごろバスは止まった。
パンッ パンッ 前方で音がした。花火か?いやそれともパンクか。
「ブロッケリア」
誰かがそんなことを言っている。ブロッケリア?それはとっくに終ったはずじゃ・・・。
今日ウユニにたどりつけないとマズイ。僕らのボリビア滞在可能日数は30日。今日入れてあと5日しか残っていない。ブロッケリアを解除されるまで待っている余裕の日数はない。これからポトシに戻るのはだるいし、戻ったところでそれからどこへ行ったらいいのだ。僕らの憂いとはまったく関係なしに、バスは待つという選択肢を選んだ。
僕らの席からはよく見えないのだが、どうやら道に石などを置いてバスを通らせないようにしているらしい。そこには民衆も待ち構えていて、強引に通ろうものなら襲ってかかってきそうなイキオイなのだ。さっきのパンパンというのは花火なんかではなく威嚇のための空砲だったらしい。待つというのは、待ち構えている民衆たちが、夜になって町へと戻るのを待つということらしい。
1時間ほど待ったところでバスは動きはじめた。バスの中で1泊を覚悟していたので、1時間で済んだのはありがたかった。しかし、それで済んだわけではなかった。バスは少し進んで止まった。
道にばら撒かれたこぶしサイズの小石、これを乗客のみんなも手伝って取り除く。これはたいした作業ではなかった。問題は道の真ん中に盛られた砂だ。ダンプーカー2台分の砂がこんもりと盛られている。
バスに積まれた2つのスコップでせっせと砂をかきだす。一人が疲れたら他のだれかにかわる。そうやって女性を除く乗客が順番に交代しながら砂をかき出す。僕を含む3人の外国人も手伝った。
映子の話によると、外国人も働いている!とバスのなかではちょっとした話題になったそうだ。標高4000m近くある場所での肉体労働はこたえたる。すぐにバテてしまった。
約1時間の奮闘の末、バスが通れるほどのスペースができた。ウユニの町に着いたのは夜の9時。すっかりおそくなってしまった。しかし、僕は軽い充足感に満たされていた。なぜなら、ブロッケリアに苦しめられ、ブロッケリアに悩まされ、ブロッケリアを憎む、そんな旅行者は多いけれど、ブロッケリアを壊した旅行者は少ないはずで、僕はその数少ないブロッケリアを破壊した男となったからだ。 (昭浩)
ウユニの町はずれに列車の墓場がある。
ここから2泊3日ウユニツアーのはじまりだ。
ウユニ湖に着いた。
そこではたくさんの塩を採集していた。
人類は永遠に塩に困ることはない、そう思わされる光景だった。
そこには塩の水平線が広がっていた。
そこには幾何学模様が広がっていた。
そこには白い世界が広がっていた。
イスラ・デ・ペスカード(魚の島)
魚なんていないのにどうしてそんな島があるんだろう
世界のすべてがまぶしかった。
まっ白な大地がいっぱいの光を反射させていた。
白の世界から赤茶色の世界に変わっていた。
大きな山はときたま火山灰を小さく噴出していた。
僕たちは昨日からずっと大きな世界の中にいる。
なぜかそこにはフラミンゴがいた。
人も住めないようなところで。
こんな奇岩が荒野のなかに生えていた。
日が昇る前、氷点下のなか
間欠泉がイキオイよく熱い煙をふきだしていた。
わーい、温泉だあ。
温かいそのなかに足をいれた。
気持ちがよくて、足がとろけそうだ。
温泉の近くではきつねがじっと見ていた。
途中砂漠地帯があった。
砂漠の向こうには木も草も生えてない山があった。
気が狂いそうなくらい大きな世界だった
青い湖。
そこには青白い結晶が浮いていた。
塩かなと思ったら塩じゃなかった。
氷かなと思ったら氷でもなかった。
石灰質の結晶がこの湖の姿をよりいっそうきれいにしていた。
ここがボリビアとチリとの国境。
ここでボリビアともお別れだ。
ありがとう。本当に楽しかったよ。