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チリパタゴニア旅行記

6月28日〜7月25日

愛しのボリビア  6月28日

ボリビア側の国境には何もない。そこには掘っ立て小屋のような粗末な建物があるだけ。そして、チリ側の国境にはさらに何もなく、チリに入ったはずなのに、イミグラシオン(入国審査)がないまま、かなり走った。
しばらく走ると、舗装道路に出た。1時間くらいでやっとイミグラシオンに到着。車から降りると、濡れ雑巾みたいなのを踏まされて、その後荷物検査が厳重にされた。といってもいいかげんなくせにかばんを開けろと言って、少しだけ中を探るだけ。それも無事終って、サンペドロ・デ・アタカマの町に着いた。

舗装道路がない。アドベ(日干しレンガ)でできた家々の並ぶ町。一種独特の雰囲気がある。折しもお祭りをやっていて、教会や広場で演奏と踊りがあった。驚いたことに、ラパスのグランポデールと同じ曲、踊りを同じような衣装でやっていた。グランポデールのミニ版という感じ。少し見るとあきてしまった。でも音が聞こえるとまた見に行きたくなる。そういうところもグランポデールと同じである。
そういえば昔はここもボリビアだったのか。それじゃボリビアとあんまり変わらないはずだ。しかし町の人々は、ツーリストも多いけど、それ以外でもやっぱり白人が多い気がする。それは明らかにボリビアとは違う。それと物価。あまりにも高すぎて観光も何もできなくなりそう。

ボリビアが懐かしい。あの物価が安く、食べ物が豊富だった日々が。レストランで、高いくせにボリュームのない食事を取りながら、ボリビアに戻りたい、とつぶやいた。(映子)

青い空に映えるサンペドロ・デ・アタカマの白の教会
教会のなかでは衣装を着た若者が踊っていた。そして町へとくりだしていった

チリの砂漠を走る   6月29日

アタカマ砂漠を走るバス、道はどこまでもまっすぐ続いていた。

サンペドロ・アタカマを出たのは朝の9時ごろ、そのときはまだダウンジャケットを着ていた。カラマについたのは10時過ぎ、アンティフォガスタを出るころはもう12時過ぎ。フリース、長袖シャツと1枚ずつ服を脱ぎ、ついには半袖になった
日差しの強い昼間の砂漠は暑い。バスはひたすら走って走って・・・とにかく道はまっすぐだ。少しでも曲がるともうアルゼンチンに入ってしまう、とあきちゃんが言うように(まあそれは大げさだけど)、チリは細長い国なのだ。バスはずっと変わらない砂漠の景色の中をどんどん走っていった。砂漠といっても砂ではなく、石ころや岩がゴロゴロしている乾いた大地である。

ちなみにバスの食事は、2回出た。お昼は結構遅い時間に、ご飯の上にお肉が乗ったお弁当が出た。夜は菓子パンとジュースとスナックだけ。こっちの食事はお昼がメインらしい。私は、何だか飛行機で機内食を詰め込まれているような状態で、あんまりお腹がすいていなかったけど、あきちゃんは休憩の時にさらにサンドイッチを食べてまずいと文句をいい、バスでもらったスナックを食べていまいちとぼやいていた。(映子)

細長い国を走る一本道はずっと茶色の砂漠の中を走った

サンチアゴ到着   6月30日

暗い。もう7時なのに。曇っているだけ?天気が悪いから?霧が出ているみたい。それにしても暗い。そんなことを話しながらもバスはサンチアゴに近づいていた。9時ごろやっと到着したけれど、なんだかぱっとしない天気のままだ。
地下鉄に乗って宿へと向かう。なんかヨーロッパみたいだ。人も街も建物もすべて。ここはスペインか?と思ってしまうくらい。かなりの大都会でもある。
お昼は中央市場へ行った。ここはかなりツーリスティックで客引きが多くて正直うんざりしてしまった。それでも当初の目標であるウニはバッチシ食べた。そしてワインとチーズ、オリーブ、さらにキッコーマン醤油まで買って、かなりゴキゲンさんで帰ってきたのだった。(映子)

ここはまるでスペイン。コロニアルの教会が建つ街は洗練されていて、人々も垢抜けていた

スモッグの街を観光する   7月1日

サンチアゴの朝は遅い。ていうか南に下ってきたから、日が短くなっているのは当たり前なのかもしれない。ただ、ここはスモッグのせいなのか、朝どんよりしていることが多い。そんな中、サンチアゴ観光と雑用で私たちは動き回っていた。
まず、銀行と両替。本当はモネダ宮殿の衛兵の交代を見たかったのに、全然間に合わなかった。モネダ宮殿はお庭がアートで彫刻とか銅像とかオブジェみたいなのとかいろいろある。宮殿の建物内には入れない。警備の人はたくさんいたけど、なぜか厳重な感じではなく、遠足風の子供たちとか、家族連れとか和気あいあいとして記念撮影などしていた。

次にフェリーチケットの購入を済ませてから、サンクリストバルの丘へ行った。テレフェリコという乗り物で、山頂まで行くんだけど、この乗り物はスキーのゴンドラみたいだ。ケーブルでぶら下がっているだけなので、ガタガタガタと揺れると結構怖い。高いとこ大丈夫だったのに、高所恐怖症になっちゃったかな。
そこから見える雪山たちは素晴らしくきれいだった。スモッグに煙るこの街の上にそびえ立つ山々、それだけでめちゃめちゃきれいだった。(映子)

サンチアゴの街の上空にははっきりとスモッグの層が見えた。その上にはうっすら雪のかぶった山。妙にきれいな景色

ビーニャ・デル・マルでシーフードざんまい 7月3日

この時期の南半球は冬だ。日が出るのがおそい。朝7時くらいだとまだ真っ暗だ。
そんな時間に僕たちは起きた。いや、僕の場合起こされたといったほうが正確だ。それはすべてシーフードのためだ。魚市場は朝が勝負。僕らは、いや映子はかなりハリキッテいる。今日はヤル気らしい。

魚市場は小さかった。小学校の体育館の半分もない。しかし、そこにはイカ、巨大なアサリ、ムール貝、ホタテ、サーモンの切り身、アジ、その他、名も知らぬ魚や貝が棚に並べられていた。
小さな建物を通り抜けたところでは、たった今水揚げされたばかりのたくさんのカニが売られていた。大きな毛ガニが2ハイで1000ペソ(180円 以下円表記)。マジ?安すぎない?生きたままの毛ガニとその安さにコーフンしながら、だまされたつもりで買ってみる。
その他サーモンの切り身1キロ450円、イカ1キロ90円、アサリ2キロ252円を買った。アサリと言っても、その大きさから言ってハマグリと呼んでもいいと思う。他にホタテやムール貝も買いたかったが食べきれそうもないのでそのへんでやめておくことにした。

宿に帰って、さっそくサーモンの切り身を生のままで食べてみる。大トロのごとくたいへんアブラがのっていて口の中でとろけるようだ。超うまい!
正直言って、サーモンの切り身を前にして、それをどうやってサバケばいいのかわからず、しかも、それを切ったところでそのまま食べていいのか、そんなためらいがあったのは事実である。しかし、それを一口食べてしまえば、あまりのうまさにそんなことはどうでもよいものとなってしまった。とにかく食べられるサイズに切っていけばいいだけのことだ。そしてお腹の調子が悪くなるかどうかは、悪くなってから心配すればいい。あったかいごはん、それとサーモンの刺身に醤油をつけて食べる。至福の限りだ。

昼はシーフードスパゲッティ。巨大アサリたっぷり、イカたっぷりで、麺より具のほうが多いという贅沢さ。
極めつけは夜に食べた毛ガニ。塩ゆでにして食べる。カニ肉たっぷり。カニミソもたっぷり。殻はツメで簡単に割れる。ぷりぷりしたカニ肉のかたまりを手でつまみだしては口に入れる。最高だ。1パイ90円くらいなんだからもっと買っておけばよかった。
それ以外にも、カニとイカのセビーチェ(マリネ)やアサリのワイン蒸し、焼きイカなどどれも新鮮な食材をふんだんに使った豪華な内容の晩餐だった。

実は今日、バルパライソという宿の近くにある世界遺産の町を観光してきたのだが、そんなことは、ゴージャスなシーフードを前にすれば、希薄な印象でしかない。まさにシーフードな一日だったと言えよう。(昭浩)

ビーニャの魚市場には貝、サーモン、イカなどがならんでいた
とれたばかりのカニ。よく見ると毛ガニだ。あまりの安さに驚くふたりだった
映画イル・ポスティーノのパブロ・ネルーダの家から見たバルパライソの景色

イースター島   7月4日〜11日

旅1000日記念  7月12日

旅をはじめて1000日になる。1000日といってもあまりピンとこない。2年より長く3年より短い。そう考えるとけっこうな長さだなと思う。ただ、こうやってそんな長い間ふたりとも元気に旅を続けられていることに感謝したい、そんな気持ちだ。

たかが旅行と思うかもしれないが、長い間旅行を続けるのにも、ある種の運やまわりの環境や協力などが必要なのだ。強盗や事故や病気といったトラブル、身内の不幸、旅行資金がトラブルによりなくなったり、枯渇したり、あるいは本人の旅に対するモチベーションの低下など、いろんな理由で旅の途中で帰国した例を僕は知っている。旅の途中で亡くなった友達もいる。
だからこそ僕たちを生かして、こうやって旅を続けさせてくれたものすべてに感謝したい。あこがれのモアイのいるイースター島にこうやってこられたことを感謝したい。

僕たちは今日の11時25分発の飛行機でイースター島を発った。夕方サンチアゴの空港に降り立ち、14年前に泊まったことのある宿に泊まる。そこでワインで乾杯し、ささやかに1000日目を祝った。 (昭浩)

チリのバス  7月13日

チリのバスは大きく分けて3種類ある。カマ、セミカマ、クラシコの3つ。カマはスペイン語でベッドという意味だけあって、寝台の中でも最も快適なバスであるが、私たちは今まで乗ったことがないので、詳細はわからない。
今日はセミカマに乗りたかったんだけど、空いてる席が1つしかなかったので、仕方なく、クラシコに乗ることになった。座席は狭く、リクライニングもちょっとだけ。でもセミカマより3,000ペソ(540円)安いので、その違いは大きい。とりあえず寝られればいいかな。
暖房がガンガンに効いていたので暑いくらい。でもときどき暖房を切るので、急に冷えてくる。だけどまた再びつける。その繰り返しだった。それはつまり、時々暑くて起き、時々寒くて起きるということでもあった。だから実際よく寝たのかどうかはわからない。
結局は快適さを取るか、安さを取るか、ということなのだろう。やっぱり高いバスほど快適なのである。(映子)

素敵な町・プエルトバラス 7月14日

サンチアゴを南へと行くとプエルトモンという港町がある。交通の要所でチリを旅行する人なら誰もが知っている町だ。多くの旅行者がそうするように、僕らもプエルトモンへと向かうつもりだったが、ひょんなことからその手前にあるプエルトバラスという町にいくことになった。
それは日本人だったら誰も知らないようなそんな町だ。もちろん僕たちも知らなかった。どうしてそんな町にいくことになったかといえば、イースター島から帰ってきた日、バスターミナルに宿の客引きに来ていたスコットというアメリカ人にそこをすすめられたのだ。
「プエルトモンよりプエルトバラスに泊まったほうがいい。」と力説していたのだ。
そして、彼の言葉に素直に従ったのは正解だった。素直さは得てして幸運を呼ぶものだ

プエルトバラスは素晴らしい町だった。
大きな湖に面しており、その湖の向こうには雪を半分以上かぶった美しい火山が並んでいた。そのうちのひとつは観光用パンフレットなんかでもよく登場するオソルノ山。きれいな円すい状の火山で、富士山に似たシルエットを持つ。もうひとつのほうも富士山をさらに平べったくし、頂上をギザギザにしたような形をしている。
 絵ハガキのように美しい風景の町というのはこういう町をいうのだろう。天気は昨日のサンチアゴと違って、快晴。最高の気分だ。

オソルノ山の麓ちかくには滝があり、そこではすがすがしい青緑色をたたえた川の流れ、迫力ある轟音響く滝が落ち込んでいた。そのまわりを濃い緑の森と山が囲んでいる。多分このあたりには、奥に行けばもっともっと美しい、そしてさわやかな自然があるにちがいない。

プエルトバラスには、「売り出し中」と書かれた家があった。いっそこの家を買って宿でもやろうか、そんな夢さえ見てしまう。ここは一泊しかする予定はないけれど、こういう町に出会えた幸運に感謝したいと思った。(昭浩)

山あいを清流が流れる、ペトロウエの滝
オソルノ山の麓には緑があり、きれいな川の流れがあり、ごうごうと落ち込む滝があり、済んだ空気があった
プエルトバラスの夕暮れは、どこかほっとさせる、そんなやわらかさを感じた

ウロコのチロエ島 7月15日

ウロコ・ウロコ・ウロコ・・・それもいろんなウロコがあって、目が離せない。 チロエ島はウロコの島だ
ウロコといってもそれは家の壁のことだ。チロエ島の家の壁は、魚のウロコの形をした小さな木の板を魚のウロコのように重ね、ひとつの壁を作っている。ウロコ壁にも微妙にデザインの相違というのがあって、家の壁をながめていると楽しい。家だけでなく教会の壁もウロコであるところは多い。
教会はチロエ島の名物でもある。チロエ島の教会群はユネスコ世界遺産だ。200以上あるといわれているチロエ島の教会、映子はより多くの教会をみてやろうという野望に燃えているらしく、バスの車窓から必死に教会を探してはカウントしていた

僕たちがついたのはチョンチという寒々しい感じのする小さな町だった。そして実際寒かった。東京の冬のような寒さだ。
宿の目の前には水鳥たちがいて、たまにアシカがあらわれる。イルカやペンギンがいるらしいのだが、それらはみかけられない。
そこは海なのだが、対岸に島がせまっているため幅広の川のようである。かといって川みたいな流れなんてものはまったくなく、でも入り組んで蛇行している水路は海とも呼びがたい。そんなありそうでなかなか見あたらないような景色だった。それが夕日によってピンクに染められ美しく映えていた。(昭浩)

チョンチの町はヨーロッパの田舎のイメージをもっていた。チロエ島は独特な光と独特な空気の色がある

教会めぐり  7月16日

昨夜はここ2〜3年で一番の冷え込みとか、そのおかげで今日はとてもいい天気だ。宿のオーナー、ドン・カルロスに教えてもらった通りにフェリー乗り場まで歩いた。4Km?近い近いと軽く考えていたけど、1時間くらいかかるんだよね。車はびゅんびゅん飛ばしていくし、ちょっとこわかった。目の前を歩いていた兄ちゃんはヒッチしてた。私たちは、まだかまだか、遠いなーなんて言いながら歩いた。 フェリーはタダで乗れるということだけが、私たちを突き動かしていた。

フェリーでレムイ島に渡ってからも歩いた。しかしさすがに疲れてきたので、車が通るたびにヒッチを試みるが、誰も止ってくれない。前を歩いている女の子4人組も車が通るたびに親指を立てていた。みんなダメモトでやってみるのがこの辺りの習慣らしい。
イチュアックという小さな村の教会を見た。誰もいない。閑散としていて、教会は閉まっていた。小さな小さな小屋のようなトイレがあったので、行っておいた。
そこからさらに歩く。そろそろ車に乗りたい。もう歩くのはイヤだ。と、親指を立てると、若者が止ってくれた。カーラジオからは、懐かしい80’s、A-haのTake on meが流れてきた。無口でシャイな若者2人組だった。何も言わず、プケルドンという村まで乗っけてくれた。助かった。
プケルドンの教会の前で、パンにハムとトマトを挟んで食べた。教会の中には入れなかった。ちょっと中をのぞいてみた。シンプルで素朴な教会という印象だった。
帰りはバスでチョンチまで帰れた。もうタダのフェリーに乗ろうなどという考えは捨てて、バスごとフェリーに乗って海を渡った。ラクチンだった。とにかくたくさん歩いたので、今日は疲れた。教会めぐりも楽じゃないな。(映子)

てくてくてくてく。こんな景色のなか僕らは歩いた
なつかしいシルエット、
イチュアックの教会
プケルドンの教会を見上げながらふたりサンドイッチを食べた午後

世界遺産ハンターとしてチロエ島の教会群を訪ねてやってきた。そのはずなのになぜかチロエ島からフェリーで隣のレムイ島というところに渡って、とことこと舗装されていない道を僕たちは歩いている。タダという言葉につられて、ついついフェリーにのってしまったのだ。

イチュアックという村の教会を見たとき僕たちが結婚式をあげたハワイ・マウイ島にあるクラシックな教会を思い出した。その教会もイチュアックの教会と同じようにウロコのような木の板を重ね合わせたそんな壁をもった教会だった。
ここにある教会とマウイ島の教会、僕らがマウイ島の小さなウロコの教会で式を挙げたことと、ツーリストなんてほとんどこないこの島のこの教会に、タダのフェリーに惑わされたというきっかけも手伝って、やって来てしまったこと、それはどこかでシンクロしている、そんな気がした。偶然が重なってレムイ島に来てしまったのだけどそれは必然のことだったのかもしれない、となぜか知らないけど不思議になんとなくそう思えた。 (昭浩)

アチャオとダルカウエの教会  7月17日

チョンチの町からカストロというチロエ島で一番大きな町へ移動した。このカストロを基点に教会をまわろうということなのだ。
今日のターゲットは隣の島にあるアチャオという町にあるこのあたりでは最古の教会だ。カストロに行くまでは、そんな田舎に行くバスはあるかなあと心配していたが、ここチロエ島の交通機関は僕らの予想を大きく上回る数のバスが島のあちこちに行きかっているのである。それはあたかもチロエ島自体が独立した国かのようにカストロを中心にバスが走っている。

森とパッチワークのような牧草地帯が入り交じる丘陵地帯を越えて、さらにバスごと渡し舟で隣の島へ渡り、そのあたりでうとうとしはじめ、気がついたらアチャオの町に着いていた。
そこにはもの寂しげな木造りの教会が立っていた。この教会は1730年にできたらしい。日本でいえばまだ刀を差し、ちょんまげをしていた時代だ。たしかに古い教会だけど、そんな古さは感じられない。

アチャオの町は冷たい風が吹く、極寒の地だった。空は曇っていて、海も鈍色に沈んでいて、全体的に暗い。しかし、そんな海の向こう側には、白い山々が輝いていた。遠くの山のあたりだけ雲が切れていてそこに太陽の光が射し、山々にスポットライトを浴びせている。暗い世界のなかにあって、白峰の山々だけが輝いていた

アチャオから僕たちは来た道を戻り、途中のダルカウエという町にも寄った。もちろん教会を訪れるためだ。
しかし、いい加減教会めぐりもあきてきた。僕は結婚式場の広告を約10年間売ったり作ったりといった仕事をしていた。チャペルや教会と呼ばれるところには何百も見て歩いているということもあって、4つや5つの教会めぐりなんてたかがしれていると思っていた。しかし、もういい加減いいよ、十分満足だ。
そんな僕とは対象的に映子はまた別の機会にでもチロエ島に訪れて、あとまだまだ残っている教会をめっこり訪れてまわりたいと考えている。たかが教会になぜそんなに熱心になれるのか、まったくの謎の女である。(昭浩)

これがチロエ地方で最古の教会
暗いこちら側の世界からみえる、遠くの山々。そこは明るい光に照らされていた。明と暗のふたつ世界が同時に目の前に存在している不思議にしばらく見とれた

チロエ島の想い出   7月18日

チロエ島では、教会めぐりをした。ここは世界遺産に登録されている教会が、200もあるとか。さすがに200もめぐるのはムリだけど、そのうちのいくつかを見たいなあ、とこの3日間、結構がんばってまわった。ウロコ模様の家々が建ち並ぶこの島では教会もウロコ模様。わりと地味だけど雰囲気のある教会が多かった。
今日見たカストロの教会は、今まで見たチロエ島の教会の中で一番大きい。中ではこれからミサが行われようとしていた。ギターの音と賛美歌を歌う声が聞こえた。日曜日は教会へ、という人たちが続々と集まってきていた。

カストロの宿のキッチンでご飯を炊いて、鮭の刺身を食べていると、
鮭を生で食べるの?お腹大丈夫?」と驚かれた。お箸もめずらしいらしく、使い方を教えてあげて、家族と少々交流。親戚が集まってきているのか、子供が異常に多かった。

ここでの食べ物はなんといってもシーフード。鮭の刺身も安くておいしかったけど、スモークサーモンもおいしいらしい。今日はそのスモークサーモンを探しに市場へ行った。町の中心からちょっと離れている上に、途中で雨が降ってきてつらかった。泣きそうだった。その辺のおじさんに道を聞いて何とかたどり着いた。このサーモン、見た目は焼き鮭だけど、食べてみるとちゃんとスモークサーモンの味がする。おいしーい!

そんなチロエ島とも今日でお別れ、プエルトモン行きのバスに乗って、チロエ島に来てから毎日しているようにバスごとフェリーで海を渡った。今度来る時はもっとゆっくり滞在して、教会めぐりやグルメを楽しみたいな。国立公園にも行く時間がなかったし、教会もまだ見てないのが100以上ある、はずだ。とってもとっても寒かったので、次来る時は夏がいいな。(映子)

カストロの教会ではたくさんの人が日曜のミサにやってきていた

船が来ない日   7月19日

そういえば、チロエ島で出会ったポールというイギリス人が、
フェリーは火曜日になるよ。多分。」
と言っていたな。彼もプエルトモンからプエルトナタレスに行くフェリーに乗る予定なのだ。フェリーは月曜日発の予定だけど、たいてい遅れるらしい。でも私たちは、今日行けると信じて疑わなかった。だから荷物を全部持って、フェリー乗り場まで行ったのに。フェリー乗り場は閑散としていた。受付のお姉さんは、「明日の12時に来てください。」と言う。明日?なんでー?
プエルトナタレスから来るフェリーはまだここプエルトモンに到着してさえいなかったのだ。天気が悪いとかで、遅れているらしい。仕方がないので、とりあえず目の前にある安宿にチェックインした。

だいたい今日の始まりからしておかしい。朝8時ごろ、ドンドンドンと激しくノックされて目が覚めた。
「チロエに行くのか?」
と聞いてくる声はまぎれもなく、宿のおばはんだ。
「No!」
と半分キレながら答える。もちろん再び寝たのだけど、気分は最悪だ。
後で会っても、おばはんは、
「他のカップルと間違えたかな?」
と悪びれもしない。
アンヘルモという魚市場の食堂に行っても、食事時じゃないので、静かなもんだ。開いている店で急いで食べて、フェリーの時間に間に合うように、コレクティーボで宿に戻って、再びコレクティーボでフェリー乗り場まで来たのに・・・・。
宿からはフェリー乗り場が見えるけど、今日の夜の時点では、フェリーが到着した様子はなかった。(映子)

プエルトモンの日々 7月20日

船は今日も順延となり、出発は明日となった。
こうなるとここでやることはあれしかない。シーフードとワインだ
アンヘルモの魚市場にいって、今日は何を食べようか物色する。カキ、ウニ、アナゴのフライにアナゴのスープ、魚介類のスープ。カニのサラダにカニのグラタン。もちろん中身は決してカニカマではない。あわびだってある。あわび4個で4000ペソ(720円)だって、安いんじゃないこれ?あわびなんて僕は友達の結婚式で出てきたのを食べたことがあるくらいで、映子はまだあわびの味を知らない。そんなあわびが普通に売られている。ビーニャ・デル・マルといい、ここといい、シーフード天国だな、チリは。
でもチリは魚だけじゃない。自炊しているからわかるがチリは肉も安くてしかもおいしい。野菜もたくさんあってどれも安い。食材の豊富さはピカイチな国だと思う。それに安くておいしいチリワインがあって・・・なんだかそれだけで暮らしてみたくなるそんな国だ。
今日もたらふくシーフードを食べ、ワインをあける。そして明日の船を待つのであった。(昭浩)

フィヨルド・船の旅 1 いよいよ出航フィヨルドの旅  7月21日

結局2日順延での出発となった。魚市場でのシーフードにもあきてきた頃なので、これ以上延びたらどうしようかと思っていたところだ。はっきりいって、 ムール貝の香りをかいだだけでウッとなる

夕方4時過ぎ、赤いボディのプエルトエデン号にのりこんだ。そしてAAクラスに案内された。
スイートルームがAAA(トリプルA)なので上から2番目のクラスということになる。僕らが買ったのは一番安いチケット。4つあるグレードのうちの最下クラス。2クラスアップグレードされたことになる
今オフシーズンで人が少ないためか、もしくは遅れたおわびのためか、乗客全員がアップグレードされたみたいなのだ。

2段ベッドが2つ並ぶ4人部屋。ヒーターと個人ロッカーが付いていて、窓から外の様子がみえる。トイレとシャワーも部屋専用となっている。部屋をシェアする4人うち3人が日本人でもう1人がフランス人。もうひとりの日本人は、メキシコのグアナファト、ボリビアのラパス、イースター島で一緒だったジュンペイだ。
プエルトモンからプエルトナタレスまで船で行こうと思っているんです。」
船でパタゴニアを南下しようというのは、もともとジュンペイがそう言ったことに端を発している。

世界地図を見てもわかるとおりチリのプエルトモンの町から下は、入り組んだフィヨルドになっていて、直接パタゴニア地方へと抜ける道がない。陸路で南下しようとすれば一度アルゼンチンに入国し、冬の場合そこから南へと向かう道も状態が悪くバスが走らないので、さらに大西洋まで東に進んでからでないと南へといけない。かなりの大回りの上、パタゴニアから今度北上する場合同じ道を戻らなければいけなくなる。それも何百キロもの長い距離を、だ。
船だと3泊4日で180ドル。一瞬高い!と思ってしまうが、食事付で3泊ならまあ許せる範囲だし、フィヨルドを観光しながら、のんびりとクルーズしているうちに目的地につくのだからラクなもの。それに楽しそうだ。

すっかり暗くなったプエルトモンの港を船は出港した。港の灯りが遠ざかるとあたりは漆黒の闇に包まれる。ここから南は人も少ない場所。町や村などがぽつんぽつんとあるだけ。手つかずの大自然が広がっているのだろう。(昭浩)

船は進む。次から次へとあらわれる島の間を抜けて、静かな海を進む。その先には人をよせつけない自然があるはずだ

フィヨルド・船の旅 2  船酔いとマリアミンで眠り続けるジュンペイ

この船は基本的にほとんど揺れない。 フィヨルドの水路の間を通っていくため、太平洋の荒波をまったく受けないのだ。動いているのか止っているのか、それすらわからないくらい静かに動く。水の上を滑るといったほうがいいかもしれない。
ただ一箇所だけ揺れる区間がある。一度太平洋に出ないと抜けられないところがあるのだ。時間にして8時間。それは、2日目の夜にやってきた。

外人や映子は映画をみていたが、僕はさっさとベッドに入った。船に弱いジュンペイはマリアミンという強力な酔い止めを飲んで、もうすでにベッドの中だ。というか、彼は、昨日の夜からずっと部屋のベッドでごろごろしていて、寝ているか本を読んでいるかだ。
酔い止めを飲んだジュンペイはそれからさらに激しく眠りつづけた。3日目の日もごはんのときだけはちゃっかりと起き上がってくるものの、それ以外はずっと寝ている。恐るべしマリアミン。結局ジュンペイは船旅の最終日である4日目にようやく外のデッキに現れて、その美しい景色に感動していたが、それまでほとんど船室に閉じこもっていたのだ。

僕は、船が揺れている区間はほとんど寝ていた。揺れているほうがよく眠れる。さて映子のほうはどうだったのだろう?(昭浩)


この日、夕食を食べる時間になると、船が揺れ始めた。それでも私はお腹がすいていたので、いっぱい食べた。それがいけなかったのだろう。
食事の後、映画を見ていると、気持ち悪くなってきた。それでも映画を見たかったので、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせ、時々ゲップをしてなんとか凌いできたのだった。

映画が終った後、立ち上がると、思った以上に揺れていてびっくりした。2階の船室に上がる時も手すりにつかまらずには上れない。
部屋に戻って歯を磨こうとは磨きセットを手に取った瞬間、「ウッ」とくるが早いか、口からゲロが出た。それは2口半くらいあったので、一口必死で飲み込んでもまだ口から少し出てしまった
それを必死で手で受けて、急いでトイレへ駆け込んだ。びっくりした。大丈夫だと思っていたので余計にびっくりした。精神的に船酔いしたと思う前に、体に来ていたのだ。
すごい揺れは一晩中続いていて、しばらく眠れなかった。(映子)

フィヨルド・船の旅 3  船上での生活

朝8時に朝ごはんで起きる。それから本を読んだり、食堂でコンピュータと向かいあったりして過ごし、午後からは午睡したり、読書したり、外に出て景色を見たりして過ごす。この船は操舵室も開放されているため、そこからフィヨルドの景色をみるのは寒さもしのげてなかなかよい。天気がよければデッキのベンチでワインをあけて飲むのもいい。夜はホールで毎晩映画を上映しているし、日記を書いたりしていたらすぐに寝る時間になってしまう。一日が長いようでいてすぐに終ってしまう。

船による移動というもの程快適なものはないと思う。それも波による船特有の揺れがなければなおさらだ。
飛行機は船なんか比較にならないくらい早く目的地に行けるし、バスは船に比べてリーズナブルかもしれない。しかし、飛行機もバスも動いている間のそのほとんどは自分の席に縛り付けられている状態。ほぼ同じような姿勢で過ごさなければならない。
その点この船はいい。ごろりと横になれるし、揺れがないから船に弱い人でも船内で活字と向かいあっても酔うことはないだろう。電源だってあるから食堂のテーブルでホームページを作る事だってできちゃう。チェスにトランプ、花札などなどなんでもこいだ。大海原をいく船と違って、入り組んだフィヨルドの水路を進むので、流れ行く美しい景色を楽しめる。動く景色を楽しみながらチリワインをぐびぐびなんて最高だ
夜は快適なベッドでゆっくり休み、昼間は好き勝手に楽しくぐうたらと過ごしている。その間にも着々と目的地へと近づいている。まったくありがたいかぎりだ。 (昭浩)

仲良くなったベロニカといっしょにデッキでワインを飲む豊かな午後のひと時
操舵室は前方の見通しがよく、地図も広げられている。いててあきない
ボーッボーッっと船は汽笛をならして、昔ここで座礁した沈船の残骸をとおりすぎていった
うっすらと新雪をかぶるフィヨルドの島。そこにはいくすじもの滝が落ちていた

フィヨルド・船の旅 4  船で出会った人々

イギリス人カップル、ポールとキャロラインとは、チロエ島のチョンチの宿で知り合った。
「明日、国立公園へ行くんだけど、車に乗っていかないか?」
と誘ってくれたのだ。残念ながらそのときは、時間がなくて一緒に行けなかったけれど、彼らも船でプエルトナタレスまで行くということで、フェリー乗り場で再会したのだ。
彼らは香港に住んでいるからか、アジア人にもわりと抵抗なく話しかける。
「次のバケーションには日本に行きたい!日本の学生のかばんをポールは愛用しているのよ。」
と話してくれた。そして最後に「香港にきたら、遊びに来てね」と言ってくれた。

プエルトモンで出航の日が2日間遅れたので、私たちは、フェリー乗り場の目の前の安宿に2泊した。同じようにその宿で出航を待っているチリ人が3人いた。一人は船のスタッフ、エドワルド。電気関係のエンジニアらしい。後の2人は親子で旅行中のラウルとベロニカだ。私たちは、暇だったこともあって、宿にいる時から何度となく話をしていた。    
船の上での食事の時間はいつも一緒のテーブルで食べていた。食事の後にカードゲームをしたり、昼間はデッキで一緒にワインを飲んだり、部屋で話をしたり、楽しく過ごすことができた。途中から日系二世のペルー人、アントニオも加わった。

一緒に飲もうと部屋に招待された日、日本人の3つの特徴は何?という話になった。チリ人の特徴はフレンドリーで、ホスピタリティーがあって、トラバハドール(働き者)だそうだ。チリという国は、移民の国なので異国の人にも優しい。つまりツーリストに親切にしてくれるという特徴があるらしい。確かに、そうかもしれない。

チリという国は、物価が高いというだけで旅行者には敬遠されがちで、私もそういうイメージしか抱いてなかったけど、実際に来て見ると、とてもいい国だと思う。将来住んでもいいかなと思うくらい。きっと彼らとの出会いが余計にそう思わせてくれたのだと思う。

同室のフランス人、アントニオ。彼は村上龍が好きらしく、フランス語版を持っていた。フランス語のほかに英語、スペイン語が話せるらしく、得意げにベロニカたちと話していた。なんとなく、鼻につくタイプ。

カナダ人の男、通称企画屋。彼はいろんな企画をするのが好きで、チェス大会を企画したり、到着時間当て大会を企画したりする。しかし、基本的には一人旅らしく、孤独な一面も見られる。私たちは、到着時間当てには参加したけど、チェス大会には参加しなかった。

いろんな人がいた。好きな人もそうでない人も。そんな一人一人がいたから、この船旅がより楽しいものになったと思う。(映子)

一言付け加えさせて頂くと、企画屋の企画したチェス大会というのは、船の屋上デッキに描かれている大きなチェス盤で、子供くらいの大きさの巨大チェス駒を使ってプレイするというもの。雪が降り出しそうな勢いの寒さの冬のフィヨルドで屋外チェスをやろうなんて狂気の沙汰としかいいようがない。(昭浩)

フィヨルド・船の旅 5  プエルトナタレス到着 7月24日

わっ 何?氷山だよ!氷山!
映子は朝まだ暗いというのに窓の外を見て興奮している。

よくみるとそれは氷山ではなかった。フィヨルドの水路はぐっと幅が狭まり、両岸には小山が迫っていて、しかも雪によってすべてが白で包まれている。それは、ぱっと見ると氷山、あたかも映画タイタニックに出てきた巨大氷山のようであった。まだ薄闇の早朝を氷山の間を抜けて静かに走る船、そんなかんじだった。

朝食を済ませた後、日の出がはじまる。日の出の時刻は9時ごろ。だいぶ高緯度の地に来たのだなと思う。
新雪の積もるフィヨルドの夜明けは厳かで神聖な雰囲気に包まれた光景だった。人間の住むことのむずかしい場所、地球上にわずかに残された、まだ汚されていない場所の夜明けだった

船は航路のなかで最も幅の狭まるところ(幅80m)を通過する。このあたりは小さな岩や小島がたくさんあって、船は器用にカーブを繰り返して進んでいった。その難所を抜けると大きな湾になっていて、湾の先には大きな雪山が見えた。
雪山に囲まれた閉ざされた海とフィヨルドと呼ばれる複雑な地形が組み合わさったその船からの景色は僕がこれまでみたことがない種類の景色だった。気温0℃、体感温度はもっと低いはずの走る船の屋上デッキには乗客のほぼ全員がまわりの風景を見て写真を撮ったり、感嘆の溜息をついたりしている。
素晴らしい景色によるクライマックスを迎え、船はいよいよプエルトナタレスの町へと近づいていった。(昭浩)

雪に包まれたフィヨルドは生まれたばかりのオレンジの輝きを映し、神さまでも降臨してきそうな雰囲気をつくっていた
狭いフィヨルドの水路をくぐり抜けて船はパタゴニアの地へと向かう
雪の山に閉ざされたフィヨルドの海。静謐と摂氏0℃の冷たい空気がそこにあった

パイネ国立公園  7月25日

パイネ国立公園一日ツアーに参加した。ミロドンの洞窟はまあまあ楽しめた。氷河によってできた洞窟というのが興味深い。パイネの滝もきれいだ。
しかしなんといってもトーレス・デル・パイネとその周りの山々が美しい。素晴らしい。なんと表現したらいいのだろう。とにかくきれい。自然のその素晴らしさにしばし圧倒された。
一番きれいだったのがアマルガ湖から見るパイネ。湖にくっきり映ったその姿は絵のようにきれい。こんなきれいな風景を今までに見たことがない。とにかくきてよかったと思った。

グレイ湖のほとりから見る氷河と湖に浮かぶ氷山たちもよかった。光を受けた氷山は青かった。とてもきれいな青で、持って帰りたい!と思ったくらい。遊歩道はところどころ雪が積もっていたり、凍っていたりした。
ミラドールからの景色もまたすばらしかった。しかし正確にどこがミラドールかはよくわからない。なぜって景色のいいところがとにかくたくさんあるから。

帰り道もいろんなところで停まっては写真を撮った。最後に停まったとても景色のよいところで、車がパンクしていることに気づき、タイヤの取替え。スペアタイヤを取り出すのに苦労して、結構時間がかかったが、ドライバーががんばって飛ばしたので、19時ごろにはプエルトナタレスに着いた。(映子)

その日風の国パタゴニアにはまったく風がなかった。雲ひとつない完璧な空とトーレ・デ・パイネの美しすぎる姿を湖の鏡に映していた。僕らはただ息をのむばかり
グアナコはパイネの美しさにはまったく無関心だ
どうしてカメラでは氷河のあの美しい色を写し出すことができないのだろう。人の心だけが見ることのできる色なのかもしれない
最後の最後まで空は一点の曇りのない空だった
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