8月31日〜9月16日
ブラジルへ入国した。49カ国目だ。
8月の1ヶ月間アルゼンチンを旅したことになる。振り返ってみるとここのところ僕らは1カ国1ヶ月のペースで旅している。4月のエクアドルからはじまって、5月ペルー、6月ボリビア、7月チリ・・・と。旅が終って日本の日常に戻ったとき、たとえば6月になったらボリビアのことを思いだしたり、8月にアルゼンチンを思い出したり、そんな風になるのかな。そう思うとキリよく旅するのもいいなあと思う。
今日の国境越えは何の問題もなく無事に終った。
学生時代、この国境を越えた時はトラブル続きだった。
15年前、僕はブラジル側のイミグレで、置き去りにされた。バスは僕の荷物をのせたまま立ち去ってしまった。パスポートとお金と帰りの飛行機のチケットなんかは身につけていたから手元にあったものの、それ以外のすべての荷物、ガイドブックすらいっしょに持ち去られてしまい、僕はただ唖然と立ち去るバスの後ろ姿を見送るだけだった。
バスの終点にいけば荷物はあるだろう、そう考えて荷物を持ち去ったバスの1本後のバスに乗ってとにかく終点を目指した。しかし、いつまでたっても終点はやってこず、パラグアイの国境にまで来てしまった。
途方にくれるばかりでどうしていいのかわからずとにかく町を歩きまわった。何の情報ももたず、地図なんかもなく、言葉の通じない国のはじめての町で、ただ僕は荷物を見つけるため歩き回った。町を歩いていても荷物が路上に落ちているはずもないことはわかっていたが、そうするよりどうしていいのかまるでわからなかったのだ。
しかし、荷物はあった。道端にちょこんと置いてあったのだ。荷物を見つけた僕自身荷物がどうしてそんなところにあるのか信じられない気持ちだった。僕はとても不思議な気持ちになった。
やれやれ、でも荷物がみつかってよかったと思って、サンパウロ行きのバスチケットを買おうと売り場に並んでいると今度は怪しい男が現れた。
「俺は警官だ。パスポートを見せろ」
IDカードをチラリと見せながらそんなことをいっている。ニセ警官が旅行者から金を巻き上げるという話は南米ではよくある話なので、僕は無視した。あまりにしつこいので、パスポートをちらりとその男に見せた。するとその男は僕のパスポートをひったくるようにして奪い、早足でチケット売り場から外の路地へと出て行ったのである。当然僕はその男の後を追い、パスポートを返せと執拗に迫った。
路地に出ると、そこにはこれまたさらに怪しげな男を相手に暴れている日本人がいた。それを見た瞬間僕のパスポートを奪った男は腰からピストルを出し、
「*****!!」
と言った。たぶん手をあげろ!といったのだと思う。暴れている日本人の相手の男もピストルを出し、怪しい男たちは僕と暴れていた日本人青年を壁に向け、銃口を後頭部に突きつけたのだ。僕たちは、アメリカの映画で出てくるような、悪者が警察にホールドアップさせられている、そんな姿をしていた。不思議なことに恐怖は全く感じなかった。映画みたいだな、と思った。
「これってマズイ状況ですよね」
「マズイですね」
壁に手を着きながらそんな話をしていると
「****!!」
といってさらに銃口で後頭部を押さえられた。だまれ、ってことなのだろう。素直に黙った。
しばらくするとボロイ車がやってきて、僕らはそれに乗せられた。ますますヤバイ状況だ。車で人のいないところにいって、金を巻き上げられるか、下手すりゃズドンか。
しかし、意外と落ち着いている。この状況で落ち着いている自分を不思議に思った。僕は度胸があるほうでなく、はっきりいってビビリなのだが、このピンチにおいてこれだけ落ち着いているのはなぜだろう、と冷静に考えていたりしたのだ。人は本当にピンチの状況に陥ったら意外と落ち着くもんだなと思った。開き直れるといったほうがいいのかもしれない。
結局僕らが連れて行かれた建物は警察だった。建物の裏口からはいったので、その建物が警察暑だと知ったのはかなり尋問されたあとだった。
部屋でいろいろ尋問されたが、スペイン語もままならず、もちろんポルトガル語なんてからっきしダメで、相手の言っていることはてんでわからない。それでも僕は、「ポル・ケ?」(なぜ、逮捕されるの?といいたかった)と繰り返すが、返ってくることばが全然わからない。拉致があかない。
たまたまそこに日系人の人が働いていたので、通訳してもらって、ようやく僕らは警察の誤解をとき解放されたのだ。どうやら、僕らにはある容疑がかかっていたようである。くわしくはわからないままだ。
たてつづけにロクでもない目に遭った想い出があるので、僕はこの国境を越える時、少し臆病な気持ちだった。すんなりいっても、こんなにすんなりいっていいのか、と逆に不安になったりした。
国境を越え、そのままサンパウロまでいくつもりなのだが、夜のバスまで時間はたっぷりあるので、ブラジル側のイグアスの滝を見に行くことにした。
ブラジル側の滝はイマイチと聞いていたので、期待せずヒマつぶしくらいのつもりでいったが、これがなかなかよいではないか。アルゼンチン側と違い川の反対側から見えるので、全体の様子がパノラミックに見渡せる。滝の上に突き出た展望台なんかは、前後左右滝に囲まれていて、まるで滝に包まれているみたいだ。
「ブラジル側もすごいええやん」
「ブラジル側もかなりイケテルで」
「こっちのほうが好きかも」
ヒマな夫婦はそんな会話をしながらブラジル側のイグアスの姿に感動していたのである。(昭浩)
ポルトガル語がわからない。モザンビークも本場のポルトガルでもポルトガル語で何とかやってきたはずなのに、バスターミナルからいきなり苦労した。こっちの質問はスペイン語でも通じるんだけど、答えが全く聞き取れないのだ。しかも、ブラジル人は何か質問しても「はい」か「いいえ」かを言ってくれない。
例えば、「このバスはセントロまで行きますか」と聞くと、「ペラペラペラー」とポルトガル語で何かを言っているけど、訳が分からない。「はい」か「いいえ」かだけ言ってくれればいいのに。(映子)
夜行バスでサンパウロにやってきた。
サンパウロでは東洋人街に宿をとる。東洋人街はもともと日本人街と呼ばれていただけあって日系人が多い。日本とはちょっとちがう日本がそこにある。不思議な雰囲気のアナザーワールドだ。日本語の看板が並び、ポルトガル語に交じって日本語も街なかでよく聞かれ、絶対日本じゃないんだけど、日本がそこにはある。
日系人のやっている商店に入ると、そこには日本の麻婆豆腐の素やふりかけ、大福に今川焼きなんかがあったり、本屋には日本語の本なんかがならんでいたりして、3年近く日本に帰っていない僕としては、とても刺激的だ。
しかし、お店に入るときにとても戸惑う。日本語で「こんにちは」というべきなのか、ポルトガル語で「ボン・ジア」というべきなのか。
ここは日本だという意識とここは日本ではないという意識が葛藤しているというのもあるし、この人は本当に日本語が話せるのだろうか、という疑念もある。それが僕をまごつかせる。
言語というものは人格を持っていると思う。日本語は、礼儀正しく、控えめ。英語は攻撃的、スペイン語は、はきはきと明るくノリがいい、おおざっぱに僕が感じるのはそんなところだ。例えば、日本語で話しているととても礼儀正しく謙虚なのに、英語になると急に攻撃的なかんじになる、そんな人をみたことがないだろうか。スペイン語を話しているときはノリノリなのに、日本語になると少し落ち着いた感じになる人、そんな人にもあったことがある。だから、どの言葉で話すかというのは、重要なことなのだ。
だから、日系人のお店に入るとき、ポルトガル語モードの人格になるのか、日本語モードの人格になるのか、という部分で戸惑っているということなのだ。
でも、そうやってもまごまごするのもなかなか楽しい経験だ。世界広しといえども、このような日本の外にある日本世界というのは稀だからだ。スペイン人のイニャキたちが、アルゼンチンなんかに来ると、今日僕ら感じているのと同じような共感と違和感を内包したもうひとつの母国を感じるのだろうか。(昭浩)
アイルトンセナ。僕らのヒーローだった。
F1がはやっていたころ80年代後半から90年代前半、セナはホンダ・マクラーレンで素晴らしい走りを見せ、ことごとく優勝していた。
僕が、生まれて初めて鈴鹿サーキットにF1を見に行った時もセナが優勝した。
「セナー!!」
ウイニングランの時、親友たちと一緒に大きなブラジル国旗を振って叫んだ。
そのセナが死んだ。
もうだいぶ昔のことだ。
セナの墓はサンパウロの喧騒から離れた芝生の丘にある。よく晴れた日曜日にビニールシートをひいて、サンドイッチをつまんで・・・そんなピクニックのシーンがよく似合うかんじの場所だ。墓石などなくアイルトンセナとかかれたプレートが置かれていた。とてもいいところだった。
しかし、僕はただセナの墓に来てみたかっただけで、いいところだろうがそうでなかろうがどっちでもよかった。ここに来れただけで満足だった。
セナの墓にいったらやることがなくなった。サンパウロというところはメキシコシティ、ニューヨークに次ぐアメリカ大陸で3番目に人口の多い大都会で、観光という点ではなにもないところだ。
だが、にわかゴーギャンファンとしては、美術館は行ってゴーギャンの絵を見ておかなければならないだろう。ということで美術館にいった。
サンパウロの美術館も有名どころが目白押しで、ゴーギャンだけでなく、セザンヌ、マネ、モネ、ゴッホ、ピカソ、ルノワール、フランダースの犬で有名なルーベン、ポルトガルでも見たメムリンクなどがあった。
僕らは旅行しながら美術館なんかをまわっていて、いわゆる有名どころ、巨匠と呼ばれる人たちの絵をみてきているわけなのだが、はたして絵を見る目というのは養われているのだろうか。そのへんがとても疑問だ。有名人の絵を見たぞ!という自己満足だけなのかもしれない。
自分の目で見た素晴らしい絵が、自分のなかの潜在意識のなかにひとつの種として落とされ、それがいつの日か芽を出し花を咲かせる、そんなことがあったらいいなあ、と夢を見ながら、ふむふむとわかったようなツラして絵を見ているのである。
その日の夜僕らは日系人経営の立ち飲み居酒屋にいった。おでんがうまいと聞いたからだ。居酒屋はやはりそこも日本であった。
「新鮮な日本語が聞こえるなあ」
おでんをつまみにビールを飲んでいると、隣で飲んでいたおじさんがそう話しかけてきた。
おじさんは、同じこと何度も繰り返して話したり、少し説教くさいことをいったり、おやじギャグを連発したり、日本のおじさんと同じようなんだけど、とてもパワーがあって、元気で、自分の力で0から今にいたるまでやってきたという本物の自信のようなものがみなぎっていた。
1950年代に渡ってきて、言葉もわからない、身寄りもないこのブラジルで、生き抜いてきたという経験がおじさんたちに強いオーラを出させているのだと思う。元気のある人の話は楽しいものだ。
「若い人はどんどん外国にいっていろんなものを見たほうがいい。君たちみたいに外に出るのはいいことだ」
おじさんのその力強い言葉は僕らに勇気を与えた。(昭浩)
イースター島でモアイを巡ってレンタカーで走り回っていたとき、歯に詰めてあった銀が取れた。それから1ヶ月以上もほうっておいたので、いい加減その穴の部分が痛くなってきた。
「歯医者に行こう!」
ブエノスアイレスでも歯医者に行ってる友達がいたので、行こうかと思ったけれど結局忙しくていけなかった。サンパウロって特に観光するところもないし、日本食を食べるだけが楽しみ、だから時間はある。
その歯医者さんは東洋人街にある、日系ブラジル人のためのセンターの中にある援協と呼ばれている建物内にあった。先生は日系2世なので、日本語がぺらぺら、安心である。海外で病院に行く時に何が不安かって、やっぱり言葉の問題である。特に歯医者は痛くても分かってくれなかったらどうしよう?とか、ちゃんと治してくれるかなあ、と不安である。その点ここは、そんな不安は全くなし。あとは技術の問題か・・・
「時間があまりないので、とりあえず応急処置でもいいので、1回で治してください。」
そんな無理なお願いを私はした。
オバタ先生は、
「詰めてあったところの穴がやっぱり虫歯になってます。神経の治療をしないといけないので、3回はかかります。」
とおっしゃった。
今日をあわせて3回なら何とかいけるかな、かかる費用はだいたい100ドルくらい。よし、それなら治してもらおう!
と歯の治療を決めたのがおととい、そして今日は最終日だった。
初日も次の日も、治療をした後に物を噛むと痛みがあった。それが不安だった。でもオバタ先生は、
「神経の治療をした後はしばらく痛いと思います。」
とおっしゃったので、ちょっと安心。きっとそのうちよくなるのだろう。
ブラジル人は、見かけを気にするらしく、銀とか、金とかはあまり使わないらしい。だから私の歯も仕上がりは白く、きれいになった。私も銀よりは白いほうがいいと思うので、その仕上がりにも大満足、やっぱり行ってよかった。オバタ先生、ありがとう。(映子)
サンパウロからリオデジャネイロに着いたばかりだというのに僕たちは元気だ。さっそく今夜から活動的にバーにくりだした。もちろんボサノヴァを聞くためである。
ボサノヴァというジャンルの音楽を僕はきいたことがない。だからそれがどういうものか僕にはわからない。
「ボサノヴァといえばイパネマの娘や」
映子はそういってメロディを口ずさんでいたが、わかるようなわからないような。
こぢんまりとしたステージにギターを持ったおっさんが登場しライブがはじまった。
軽いノリ、テンポのいいリズム、風にのっているような、ふわふわした雲のようなそんな音楽。ポルトガル語のやわらかな響きがよくあっている。
僕たちは今、イパネマというところにいる。そこで「イパネマの娘」を聞いている。あんまりベタではずかしいのだが、実際「イパネマの娘」というこの曲は、このバーの対面にある喫茶店で作られたもので、この曲のヒットのおかげでボサノヴァが世界的に知られるようになったのだから、イパネマで「イパネマの娘」を聞くことは、正しいリオでの過ごし方であり、正しいボサノヴァの聞き方でもあるのだ。
「ボサノヴァ・・・ええわぁ・・・」
その音楽にやわらかく酔いながら映子はつぶやいていた。(昭浩)
僕たちはイパネマビーチのすぐそばに泊まっている。宿代が高いのにビーチの近くの宿を選んだのは、せっかくリオに来ているのにビルの立ち並ぶセントロ(街の中心)に泊まりたくなかったし、明るい雰囲気のビーチエリアでリゾート気分をより楽しみたかったからだ。
映子は「イパネマでイパネマの娘になる!」といっている。
「何言ってやがんだい、娘って歳かよ」
って思うけど、本人がそれでシアワセならまあそれはそれでよかろう。
今日は日曜日。イパネマのビーチは人でいっぱいだった。波もそこそこあって、サーファーやボディボーダーたちが波間にぷかぷか浮いていたり、波に乗ったりしていた。
ヒモのビキニをはいたピチピチギャルはいるけど多くない。ヒモのビキニのデブデブおばはん、そんなものいないと思っていたら意外といる・・・! 油断した! 迂闊にもヒモのおばはんの半ケツを見てしまった。
「武田久美子ばりの貝がらビキニみたいなのはいないのかねぇ?」
僕がぶつぶつぼやいていると
「あんたも古いなあ」
あっさり映子に言われてしまった。
貝がら、貝がら・・・
必死にサングラスで隠された視線は右に左にキョロキョロ激しく動きながら、貝がら、を探したがみつからなかった。貝がらはいなかったが、それでも1時間以上イパネマ海岸とコパカパーナ海岸を歩き続けていると、何人かのヒモパンの若い女の子に遭遇することができた。
「イマのコかわいくなかった?」
「えーそうかな」
「じゃあ、あのコは?」
「あのコはかわいいなあ。でもちょっとタレ気味とちゃうか」
僕らは世界屈指の風光明媚なビーチを歩きながら勝手なことをいっている。
歩いていると途中で少し雰囲気がかわった。虹色の旗がたっている。ゲイビーチだ。ゲイビーチというのははじめてだったので、よーく観察したかったのだが、あんまりじろじろ見ているのもどうかな、と思ったのでちらちら気にしながら通り過ぎた。
ビーチ歩きもけっこう疲れる。
僕らは途中何回か休み、僕はあんぱんを食べ、映子はメロンパンを食べた。サンパウロの日本人街で買ったやつだ。イパネマビーチとあんぱん、コパカバーナビーチでメロンパン、なんともミスマッチな組み合わせだけど、それだけに記憶に残るようにも思う。
僕たちはその後コルコバードの丘にいった。山の上でキリストが手を広げているあの有名なやつだ。バスが渋滞にあったということもあって、丘の上についた時には、太陽は山の向こうに沈む寸前だった。複雑に入りくんだ海と奇抜なアクセントで点在する丘、その隙間をうめるビル群の絡みあったリオデジャネイロの街はとても美しかった。(昭浩)
僕は宝石店を出ると考えてしまった。
「旅をしていてプラスなことってあるのかな?」と
イパネマビーチのすぐそばにアガ・スターンというブラジル最大手の宝石の採掘から研磨、販売までを手がける会社の本社がある。そこでは宝石がつくられるまでの過程が見られるワーキングツアーなるものがある。もちろんタダ。しかもアクアマリン、エメラルド、トルマリン、アメジストなどの原石をおみやげとしてもらえる。これもタダ。なんて太っ腹な会社なのだ。
これにはワケがある。アガ・スターンとしてはこれを機に会社に来てもらって、宝石を買ってもらうというのがネライのようだ。いわゆる販売促進ってやつだ。
宝石が商品としてできあがるまでの工程を見終わると、仕立てのいいスーツにナガエというネームプレートをつけた日本人が待っていた。先方の売り込みタイムだ。
「こんにちは、どちらからですか?」
「・・・」
3年日本を離れ、日本の住所をもたない僕らにとってこの質問は答えづらい。日本からというべきか、アルゼンチンからというべきか。
「いやー長い間旅行しているので、3年ほど・・・」
「3年!」
ナガエさんは、そこまで驚かなくてもいいだろうと思うくらい驚いていた。
「この人たち3年旅しているんやて、3年やで、3年!」
お店で働いている同僚たちにポルトガル語でそう興奮しながら言っていた。
「普通の日本人じゃないですね」
僕らに向かって、ニコニコと憎めない表情をしながら言った。
「ホテルはどこに泊まっているのですか?」
「いや、ホテルじゃなくて、ホステルなんです。1泊1人朝食付で35ヘアル(1295円)なんですよ」
ナガエさんの質問に僕らは丁寧に答える。ナガエさんも丁寧な口調で返す。
「ほとんどタダ同然ですね。ハハハハハ」
「これでも僕らにとっては高い宿の方なんですけどね。ハハハハハ」
ひょうひょうとしながら、ぐさりとくる言葉をときたま投げつけるナガエさんとの商談は、なめらかに進んでいったが、結局、予想どおり商談は成り立たなかった。しかし、商談が成立しなかったことをナガエさんは別になんとも感じていないようだ。普通の日本人じゃないから仕方ない、という感じだった。
「ちょっと聞いていいですか?3年も旅していてプラスは何ですか?」
最後にナガエさんが聞いた。
「いや(プラスは)ないです」
僕はとっさに答えた。なぜそう答えたのだろう。とっさにプラスは何かという答えがみつからなかったと思う。あとで映子にいわれた。
「プラスがないってことはないと思うよ」
プラスって何だろう。僕は考えてしまった。(昭浩)
ポン・ジ・アスカルへ行った。バスでロープウェー乗り場まで行くと、ものすごい人出だ。どうやら地元民のためのプロモーションをやっているらしく、地元の人は安いようだ。私たちはそんな人々に交じって、ロープウェーに乗った。
ロープウェーを乗り継いで、先のほうにある島まで行くと、リオの街とコルコバードの丘が見える、そこはまさに絶景。
沈んでいく夕日を見ながら、私たちは近づいている旅の終わりとこれから先の日本での生活について話した。とてもまぶしい夕日が、コルコバードの丘に沈んでいくのを見て、少し寂しい気分になった。(映子)
朝6時半にオーロプレットに着くと、すでに外は明るく、 石畳の街、オーロプレットを朝日が照らしていた。それはとてもきれいな光景だった。まるでポルトガルだ。ブラジルの中にポルトガルを見た。
ブラジルって、ポルトガルとは全然違うというイメージだけど、私が思っていた以上にポルトガルの影響を強く受けているんだなと感じた。特にここ、オーロプレットはびっくりするくらいポルトガルに似ている。石畳はポルトガル以上にたくさんある気がする。
坂の多い町だった。少し歩くとすぐ疲れる。地図ではちょっとの距離でも、上り坂だと疲れる。今日は石畳の道をフラフラ散歩して、ピラール教会へ行った。ここは金銀がとにかく多い。ごちゃごちゃしたバロック様式の飾りつけ、見ているとクラクラするくらいに金ぴか、とにかく派手だ。
ところで今日はブラジルの独立記念日だという。若者たちがたくさん飲み歩いている姿は見かけるけれど、特別な催し物は見なかった。ただ単に、みんな今日はお休みだから飲みに行っているようで、独立記念日とは何の関係もないように見えた。
夜、花火みたいな音が聞こえたり、パレードのような音楽が聞こえてきたりしたので、思わず外に出てみたけれど、結局どこでやっているのか分からないので何も見れず、二人静かに夜を過ごしたのだった。(映子)
今日は教会めぐりだ。かなりたくさんの教会をまわった。
まず、一番東にあるCapela do Padre Faria。ここは本当に町の端っこにある。しかも町の中心から見て、今まで一番町の端だと思っていた教会のさらに向こう、丘を越えてさらに歩くのだ。そんな町の端なのに、教会周辺にはガイド志願の少年がうろちょろしていて、近づいてきて、何やらささやく。説明されても言葉も分からないし、ノーと言うしかないだろう。
教会は修復中で、金のファサードはほとんど白いのをかぶせられていて見れなかった。最も古いといわれているだけあって、修復も必要なのだろう。
次は、今まで町の端だと思っていた丘の上の教会、Igreja Santa Efigenia dos Pretosへ行った。ここは黒人のための教会というだけあって、マリア様も黒いし、何人かの聖人の像も黒かった。天井に描かれた4人のうち1人も黒人だ。金はほとんどないけど、木彫りの祭壇の装飾がとにかく素晴らしい。一見地味なようでいて印象に残る教会だ。
それから、教会めぐりからはちょっとはなれて、シコ・ヘイの金鉱跡へ行った。こんなところに金鉱があったの?と思うような住宅地にぽっかりと開いている穴。そこから奥へ奥へと歩いていくと、少し登っていけるところもあり、分かれ道もあり、かなり奥深い。ここでシコ・ヘイという名の黒人の部族の長が、自分と自分たちの仲間の自由のためにお金を稼ごうと一生懸命に金を掘ったのだ。残念ながら金はもうないとのことだけど、水晶みたいな石があったので、頂戴してまいりました。
午後は再び教会めぐり。コンセイサォン教会へいった。ここはアレイジャジーニョというブラジルの有名な彫刻家のお父さんがデザインしたところ。入り口入ってすぐ右手の祭壇にアレイジャジーニョが眠っている。あきちゃんは、ここが一番好きかなと言った。金が程よく使われていて、派手すぎず、地味すぎず、という感じかな。
それからサンフランシスコ・ジ・アシス教会まで歩いた。ここは最も重要なブラジルアートの作品とのこと。アレイジャジーニョの彫刻と、パートナーのマノエル・ダ・コスタの絵、これが素晴らしいとのこと。薄い水色の壁と、金をちりばめた彫刻、そして暖かみのある絵。
メルセス・エ・ペルトエス教会にも行ってみた。装飾は少なく、今まで見てきた中で一番地味、素朴な教会でした。
最後に行ったカルモ教会にはアズレージョがあった。ポルトガルで見た、あの青い色を使って絵を描いたタイルである。これぞポルトガルだ、と思った。(映子)
オーロプレットからサルバドールへ行くには直行のバスはなくて、 ベロ・オリゾンチまで行ってから、サルバドール行きのバスに乗らなければならない。そこで私たちは、13:00発のベロ・オリゾンチ行きのバスに乗った。ドライバーのおじさんが、ポルトガル語で乗客全員に向けてなにやら説明してくれる。さっぱり分からない。到着時間なのか、時間らしき数字を言っていた。
ベロ・オリゾンチはかなり都会だ、とあきちゃんはびっくりしていた。空港もあるから都会だよ、って話していたのに全然聞いていないのだ。18:00発のサルバドール行きのチケットも取れた。席は隣同士がなくて、通路を挟んで隣だったんだけど、あきちゃんの隣のおじさんが替わってくれた。
バスが走り始めてからしばらくは眠れずに窓の外をずーっと見ていた。そのとき鮮やかな黄色い花がいっぱい咲いている木をあきちゃんが見つけた。
ブラジルのバスは相変わらず、高いくせに食事も出なくて、映画もやらない。諦めて寝ていると、22:30ごろ、食事休憩か30分くらい止まった。お昼いっぱい食べたので、私たちは気にせず寝続けた。
夜は星がきれいで、バスの窓越しに流れ星を見た。今夜一晩でいくつ流れるんだろう。
6:30ごろだっただろうか?食事休憩でバスが止まった。まだまだ全然眠いので、とても起きれたモンじゃない。9時ごろ2度目の休憩で、やっと朝食を食べた。あきちゃんは朝から肉を喰らう。根っからの肉食獣である。お肉の油をダラダラしたたらせて、新しいお気に入りのズボンを汚していた。
バスに乗っている時間が長いと、いろんなことを考えてしまう。
大切なことから、くだらないことまで。とにかくありとあらゆることを考えている。日本に帰ったらどうしようかということを2人で話したり、家族のこと、友達のことを1人で考え、思いを巡らせたりしている。そんな風にいろいろなことを考えていると、バスが突然止まった。「プロブレマ・・・」と言っている。何か問題があったらしく、修理をしているのか、1時間ほど待たされた。
結局は別のバスに乗り換えて行くことになった。ところが、そのバスもしばらく走った後、また止まった。また故障かと思ったら、今度は前で事故があったらしく、渋滞すること約3時間。到着はもう真夜中、夜の11時ごろ、なんと29時間もバスに乗っていたことになる。サルバドールは遠かった。(映子)
まずは太鼓とカンカン鳴る打楽器から始まる。それにあわせて女の人が10人くらい輪になって踊る。何曲か踊っていると、突然ピクピクッと雷に打たれたようになって倒れる。正確には倒れそうになったのを世話係のお姉さんに助けてもらう。踊っていた人全員が順々にそうなっていき、トランス状態になったまましばらく踊ってから退場。
あーこれで終わりか・・・と思いきや儀式は第二部に入り、まだまだ続いている。ツアーで来たらしい欧米人観光客はすでに帰ってしまい、もう旅行者は私たちだけじゃないかと思われる。
再びトランス状態のさっきの女たちが衣装を変えて現れた。そして再び踊る踊る。観客と踊っている人がだんだんと一体になっていくその感覚がたまらない。会場はだんだんと盛り上がってきた。私もかなり入り込んで見入っていた。ふとあきちゃんを見たら、「帰ろう」というしぐさをする。なんでー?と思ったけど、よく考えてみればもう夜の12時半でまだまだ儀式は終りそうにない。そしてなにげに疲れてきたなあ。というわけで帰ることにした。
帰り道で、冷静になって考えてみれば、あれはやらせじゃないか?と思った。確かに私もかなり入り込んでみていたが、観客の中には、奇声を発している人もいた。そして会場の外に連れ去られていた。そんなことって普通にあるのかな。サクラじゃないかな。
そして、トランス状態で踊っていた女たちだが、観客がお金を渡す時には目をつぶっているのにちゃんと受け取るのだ。それもおかしい。会場の端から端まで走るけれど、ちゃんとどこまで走ったらいいか分かってるみたい。よく練習した踊りのようだ。神様が踊らせているようには見えなかった。(映子)
カンドンブレとは黒人密教儀式のことだ。その昔、奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人たちと一緒にアフリカから黒人密教が渡ってきた。そして、その儀式は今でも受け継がれている。
その儀式は、打楽器に合わせて女たちが踊る。踊っているうちに女たちは痙攣をおこし、トランス状態に入る。そしてそこになにがしかが降霊し、そこからは女たちは神の踊りを踊ることになる。
踊ることによってどのような効果があって、なにがどうなるかっていうことはよくわからない。ただ、トランス状態にある女たちの踊りには鬼気迫るものがあり、ただならぬ雰囲気であった。
なのに、これをヤラセだという輩がいる。まったくあきれるばかりである。
そんな人は、ガリレオの時代にもし生まれていたら、「地球はまわる」といったガリレオに石を投げてバカにしていた部類の人であったはずであろう。
「あれはヤラセやで、薄目開けてたもん」
自分の妻までもそんなことをいう。嘆かわしい限りだ。
ヤラセかそうじゃないかなんて見てればわかるだろ、と言いたい。
観光客用にやるメリットなんて彼女たちにはなにもないのだ。入場料をとるわけでもない。観客がお金を踊る女たちに渡すようなシーンがあったが、その時はもうかなり夜もおそく、ほとんどのツーリストが帰ったあとだし、それにもっといわせてもらえば、もし観光用だったらもう少しアクセスのいい場所でやってほしいくらいだ。タクシーじゃなきゃいけない辺鄙な場所でしかもわざわざ深夜にやるのだから見に行くほうも大変だ。
カンドンブレはホントかウソか、僕は、ほんとうはこんな議論なんてしたくないのだ。
「プロレスは八百長やで」
そんなことを言っている人間とプロレス談議しても虚しくなるだけのように、カンドンブレを見た驚きに水をさすだけでしかないのだから。
とにかく僕にとっては、そのカンドンブレの儀式はとても衝撃的で興味深いものだった、それだけが僕にとっての真実なのである。(昭浩)
生まれてはじめての環境に身をおいたとき、どことないギコチなさや、場になんとなく感じる違和感、でも新鮮な驚きと好奇心みたいなものが入り混じった、そんな感覚に包まれる。今日のビーチがそうだった。
僕らは、ジュンペーと一緒にサルバドールのビーチに海水浴に出かけた。ただ単に暑いので海に行きたかったというのもあるし、サルバドールのビーチはどんなものか興味があった。
僕らがあまり何も考えずに選んでやってきたイタプアンビーチというのは、ほぼ100%黒人たちのビーチだった。ほぼ、といったのは、僕たち3人日本人が交じっていたからであり、僕らがいなければ完全無欠の黒人ビーチということになる。黒人の国に行ったことはあるが、黒人ばかりのビーチははじめてだ。
ビーチはすっかり埋め尽くされていた。遠くから見るとアリの大群が砂糖にでも群がっているようにみっしりと狭いビーチに黒い点がはりついていた。
迫力あるなあ。
僕たちはそのなかに布をひき、寝そべって本を読む。ジュンペーと僕と映子、3人が川の字になって寝ころび本を読んでいる。もちろん完全無欠黒人ビーチで本を読んでいるのはもちろんこの3人のみである。他の海水浴客は、オトナもコドモもいっしょになって無邪気に波にたわむれ、または狭いビーチのあちこちでバーベキューをして、肉を食い、おしゃべりをしている。完全無欠の黒人ビーチ、その一見迫力のある光景の中味は実にアットホームでほのぼのしているものだった。
海自体はさほどきれいではなかったが、非常に和やかなそんなビーチでの時間を僕らは楽しんだのだった。(昭浩)
サルバドールは音楽の街。夜になると 街全体がライブハウスのようなにぎわいだ。
夕方頃、ほのかに街中を音が流れ出す。それはまだ練習中といった雰囲気で、大学の吹奏楽部の部室から廊下にもれる音たち、そんな感じのものだ。あたりが暗くなってくると、そこかしこで断続的だった音たちはきちんととした音楽に変わる。それは店内から流れる大音響のBGMでもあるし、路上で行われているボサノヴァのライブだったり、サンバやアフリカンミュージック、レゲエのライブだったりする。有料のものもあれば、無料のものもある。広場には屋台なんかも出ていて、ちょっとしたお祭りの様子。
僕たちは、オロドゥンというブラジルで大人気バンドのライブを見に行った。
僕たちはオロドゥンなんてバンドは全く知らない。リオの宝石店で会ったナガエさんが、オロドゥンは盛り上がるよ、といっていたからそのライブにいったようなもんだ。
オロドゥンは大太鼓6つに小太鼓4つ、それとギターひとつ、それとボーカルそんな構成のバンドだった。楽器構成を見て分かるとおり、打楽器中心バンドだ。アフリカの音楽をブラジル風にしたもの、というのがコンセプトらしい。
特に目新しいのが、メインはボーカルではなく、あくまでも大太鼓なのだ。バチをくるくるまわし、時には太鼓を持ち上げ、観客のなかにも入っていく。会場は太鼓の振動が響き、ぎゅうぎゅうのフロアでみんなが踊っている。なかなか熱い。
1968年生まれの僕的には、1985年来日したブルーススプリングスティーンの初来日ライブや1995年のローリングストーンズのライブの時のような完全燃焼にはほど遠いが、そこにはとてもブラジル音楽のノリと力強さを感じた。
深夜になり、ライブが終わり、外に出ると、すでに街は静けさの中だった。屋台もすでになく、それは祭りのあとのようであった。サルバドールの熱狂の夜はすでに終っていた。(昭浩)