12月29日〜1月27日
ウキウキしている。
どんよりといつも雲におおわれて湿っぽい中東からようやく抜けたからだ。青い空ときれいな海があるだけでどれだけ心が豊かになっただろう。開放感と温暖な気候、シナイ半島でこれからリゾートライフをエンジョイするのだ。
船はアカバ港を離れ、エジプトとサウジアラビアの山々に囲まれた湾を進む。日本人ツーリストを受け入れないサウジの町が見える。工場からのびる何本もの煙突から煙がたち、その傍らの港にはタンカーが接岸されている。パイプラインはここまできているのだろうか?見るべきものはそれほどない、そうわかっていても一度は行ってみたい国だ。
3時間ほどで船はエジプトのヌエバ港に着いた。そこから同じ船で来た欧米人たちとワゴンタクシーをシェアしてダハブの町に向かう。シナイ半島のリゾートといえばシャルム・イッ・シェーフが有名なのだが、そこはリゾート化が進み、宿をはじめ物価が軒並み高い。それに比べダハブという町は、宿や物価も安くバックパッカー向きで、しかも美しい紅海を満喫できる場所なのである。
そこはベドウィン村だと聞いていたので、汚らしいテントの並ぶチープな場所を想像していた僕は現実とのギャップに少し驚いてしまう。欧米人が好みそうなレストランやたくさんのダイビングショップが並び、ネオンのまぶしい海沿いのストリートにはアジアや欧米のツーリストが闊歩している。ここはエジプト、といった認識は捨てたほうがよさそうだ。だいぶリゾート化はされてはいるものの、物価はそれほど高くなく、広さも歩いてまわれるほどしかない。のんびり過ごすにはいいところだ。(昭浩)
ヨルダンのアカバ港でケンカをしていた私たちは、どうして仲直りしたか?と思っている人もいることでしょう。実は、仲直りなんてしていないのです。
アカバ港に着くと、一人の日本人ツーリストに出会いました。彼とは、アンマンで一度会ったことがあり、すぐにあきちゃんと彼は話し始めました。そうなると、私もムスッとしてはいられません。少しずつ彼と話しているうちに、ケンカはあっけなくうやむやになってしまったのでした。
ちなみに、史上1回目の大ゲンカは、トルコのアンカラではなく、中国のカシュガルであったことも、付け加えておきます。(映子)
さっそくダイビングである。ブルーホールとキャニオンというダハブではもっとも有名なポイントに潜った。メンバーは、僕と映子のほかに、世界一周中のトシさんとダチョウ倶楽部の上島に似ているタケちゃん、そしてエジプシャンインストラクターの5人。
・・・・紅海はすばらしかった。海の中は色とりどりのサンゴとそのなかを飛び回るように泳ぐ魚たち。透き通るほどクリアな海の中は太陽の光に満ちている。・・・・
ドロップオフにある裂け目や小さいアーチなどユニークな地形が特徴的なキャニオンというポイントで1本目を終えて、昼食後、ブルーホールというポイントへ。ここは、その名のとおりリーフにぽっかりとあいた縦穴のポイント。その穴は深く水深90mの底まで続いている。エントリーポイントからからブルーホールの穴にエントリーする。エントリー後水深15mくらいのところまで潜行して、そこから水平移動する。それが今回のダイブプランだ。みんな15mくらいのところで止まった。だが、タケちゃんは両手足を天に差し出しながらしりもちをついたような格好で90mの穴のなかに落ちていく。イントラはそのうち自力で立ち直るだろうと様子を見ている。その間にもどんどんタケちゃんが加速をつけて落ちていっていった。
タケちゃんは、あわてて助けにいったインスタラクターに救われた。 でもタケちゃんは自分がどうゆう状況にあったのかわかっていないようだ。もう少しで海の藻屑となっていたというのに…。それでもタケちゃんはアドバンスドダイバーの資格を得て、日本に帰っていったのだった。(昭浩)
今日いよいよ2002年の最後の日。ダハブにはたくさんのツーリストが集まっていた。日本人も多い。ダハブにいる日本人旅行者が集まって、みんなで年越しそはを食べることになった。そばは、中東のいろんな場所で何度も出会ったコイさんとイクちゃんがエルサレムで買ってきた。日本を出てからはじめてのそばだった。うますぎて涙がでてくる。日本の食べ物はやはり世界一だ。
そしてカウントダウン。
2003年になってしまった。
僕たちは慌ててシナイ山に行く準備をはじめる。日本人15人でミニバスをチャーターしてのミニツアーだ。夜中の1時に出発後、約1時間でシナイ山の麓に着いた。
空は星でいっぱい。上を向いて歩いているとヒュンヒュン星が落ちてくる。真っ暗な中、ライトを手に持って、らくだで登っている人たちと、抜きつ抜かれつしながら登った。だんだんと空が明るくなってくる。そして日の出前に頂上に着いた。
地平線が赤く染まり、そこからピンク・オレンジ・黄・そしてブルーから闇へのグラデーションする様子はこの世のものとは思えないほど不思議な色の移り変わりだ。
山かげからオレンジ色の日が昇る。アフリカを旅する2003年のはじまりだ。(昭浩)
今晩新年会を催すことになった。メインディッシュはサザエ。エジプト人はサザエを食べないので、そこらへんにゴロゴロ転がっているらしい。透き通るリーフの浅瀬をのぞくと、ゴロゴロというほどではないが、石の陰やちょっとしたくぼみに転がっている。
20個以上のサザエの収穫があった。思った以上の大漁に喜ぶ僕たち。しかし、そこへ怪訝そうな表情をした西洋人の女性がやってきた。
「ここで何しているの?サンゴ集めているの?私は環境保護団体に所属しているの。もしサンゴを集めているんなら警察呼ぶわよ。」
(一同固まる。ヤバイ雰囲気)
新年会メンバーの1人コイさんが答える。
「これはサンゴではない。貝だ。」
「貝でもとっちゃダメよ。どうして貝を集めているの?」
「食べるんだ。」
「・・・」
炭と野菜と魚とイカを買って、バーベキューははじまった。しょうゆとレモンも用意した。炭火で焼いたサザエがぐつぐついいだしたら、ふたの上からしょうゆをたらす。爪楊枝でくるくると中身をとりだし、一気に食べる。潮の香りとなつかしいしょうゆの味が口のなかいっぱいに広がる。食べきれないほどのサザエと香ばしい焼けたしょうゆのにおいに囲まれ、ぜいたくな新年会であった。エジプトでサザエをたらふく食べられるなんて…そんなシアワセいっぱいの夜だった。
「食べたら貝殻を海に返しといて、そしたらまたその貝殻に新しい貝が育つから」
環境保護団体の女性がそう言って見逃してくれなかったら今夜の楽しい宴はなかった。あぶないところだった。 (昭浩)
ダイビングのライセンスをとってはじめて潜った海、それが紅海だった。そのときは、魚を落ち着いて眺めている余裕なんてなかった。今回はそのときよりダイビングスキルもあがっているので余裕で海中遊泳を楽しめるはず。
今日は紅海ダイビングのハイライト、シナイ半島の先端のラス・ムハンマドというポイントで潜る。ここは、シナイ半島の右側のアカバ湾とシナイ半島の左側のスエズ湾の海水が合流しているためプランクトンが豊富で、たくさんの魚が集まってくる。紅海の中でも特別なポイントだ。
僕たちの泊まっているダハブからラス・ムハンマドは少し離れているため、前の日の深夜に出発して、クルーザーの中で眠る。船はよく揺れた。紅海なんて陸地に囲まれた内海だから揺れそうにないのだが。
ラス・ムハンマドは流れの速いポイントなので、機材を背負ったままの状態で、船がポイントに着くのを待つ。ポイントに着くと一斉にエントリー。潮に流される前にすばやく潜行。底の見えないドロップオフ。その壁に沿いにいきなりロウニンアジの群れ!ダイビング雑誌では何度も見たことのあるあの怒ったような顔した大きな魚。実物を近くでみると迫力ある。大きなカンパチに似た魚の群れやタイの群れ、バラクーダーの群れ、エイに巨大ウツボ。さんご礁の棚にいけば、カラフルな熱帯魚がいっぱい。僕が見たかったアラビアンエンジェルフィッシュという紅海の固有種もいる。アドレナリンが激しく分泌し僕は興奮状態。胸の鼓動は早くなり、エアーも消費した。水面に上がったとき、タンクにはあまり空気が残っていなかった。
こんないいポイントを1回のダイビングで済ますにはもったいないと思った。今度来るときは、ラスムハンマドだけを何回も潜るというのも悪くない。また潜りに来よう。そのときはカメラを持って来よう。そう心に決めたのだった。(昭浩)
今日の夜行バスでダハブを出発してカイロに向かう。ダハブには1週間滞在した。ダイビング、シナイ山で初日の出、サザエとりにバーベキュー。楽しい思い出ばかりだ。いろんな人たちとのいい出会いもあった。いろんなところを旅してきたけれど、ダハブのようにきれいでのんびりしていて安上がり、そんなところってそれほどたくさんあるわけではない。ほんとうはもう少し滞在したいけど、やっぱり行かなきゃ。 僕たちはバケーショナーではない、トラベラーなのだ。これは中国で出会った台湾人のおじさんが言ってた言葉だ。大好きな場所を離れる時は、いつもそう自分にいいきかせる。僕たちは喧騒のカイロへと向かった。(昭浩)
カイロの街は二度目だ。はじめて行ったときの街の記憶はほとんどない。イヤな思い出はある。飛行場からカイロのダウンタウンに向かうタクシーが僕の行きたいホテルに連れていってくれず、結局その夜バス停のベンチで夜を明かしたこと。タクシーでピラミッドに行きたいと言ったら、ピラミッドホテルに連れて行かれ、ピラミッドに行きたいなら倍額払えとすごまれたこと。飛行場に向かうタクシーでも、飛行場が遠くに見える誰もいない場所に連れて行かれ、飛行場までいきたかったらもっと金をだせ、と言われたこと。すべてタクシー絡みであるが、とにかくカイロの印象は悪い。
そのカイロに着いた。
ナイル川の夕日を見ながら不思議な感情にとらわれていた。僕は本当にカイロまで来てしまったのだろうか?中国からはじまった旅、僕たちは本当にアフリカ大陸に足を踏み入れてしまったのだろうか?(昭浩)
一瞬だったが感動した。タクシーの窓からふと外を見ると街路沿いの建物の向こうに大きなピラミッドが立っていた。ピラミッドを見るのは2度目だ。はじめてみた時は感動しなかった。しかし、このときは「おおっ!すげぇ!」と声をあげてしまった。砂漠のなかのピラミッドはほかと比較するものがないためその大きさがつかみにくい。近づきすぎると積んである石しか見えない。だから僕は、ゲートの外、通りから建物越しにピラミッドを見ることをおすすめする。
クフ王のピラミッドの中にも入った。ここは別料金がかかるうえに限定150人しか入れない。なんで150人って限定するのだろう?もっと多くの人に開放してあげればいいのに、昔はそんな人数制限なんてなかったのにどうしてだろう?疑問だ。しかし、僕はピラミッド中に入って、イヤな思い出を思い出すとともに疑問の答えを知り大きく納得してしまう。
クフ王の玄室へはせまくて長い階段がつづく。少しかがまなければいけないほどのスペースしかない。往路も復路も同じ階段を使うため、そこで渋滞する。長くて狭い洞窟の階段で渋滞して身動きがとれない状態になったことを想像してみてほしい。前にも人が連なり、後ろにも人が連なり、回りは石で囲まれて圧迫感がある。空気の流れがなく、人が密集している。息苦しい。こんななかで長い間待たされたらどんなものか。閉所恐怖症の人はパニックになるだろう。僕も14年前、ここに来た時、この長い階段で待たされて、半錯乱状態になった。今回はさすが人数規制しているだけあって、パニックになるほどの渋滞というのはなかったが、階段を下りているとき、その時の恐怖が蘇って来てしまった。
お金を払い、並んでまで入ったクフ王の玄室はたいしたことないものだった。グラハム・ハンコックの「神々の指紋」という本を読んだので、昔より興味をもってきたはずだったのだが…(昭浩)
「じゃあ、1月15日にギザのピラミッドで待ち合わせね!」
僕たちはそういって別れた。半年以上も前のことだ。チベットのカイラスへ一緒にいった、タガ夫婦とモヒカン男と僕たちふたりは半分冗談のつもりでそう行っていた。その時の僕たちの予定は、クリスマスと正月はスペインで向かえ、1月15日はモロッコにいるはずだったからまさかみんなが集合できるとは思っていなかった。モヒカンもその日の気分しだいで行く場所を決めるタイプなので、誰もモヒカンの行動が読めなかった。でも、僕たちは再会した。モヒカンもブタペストから飛行機で飛んできた。カイラスで20日間寝食をともにした仲間が、エジプトでまた再会するなんて、よほど縁があるのだろう。
それから、僕たちは一緒にピラミッド見物に行き、毎晩一緒にごはんを食べたり、おしゃべりしたり、そうやって過ごしたカイロは外国という気がしなかった。それに彼らだけでなく、中東を旅して出会った友達がみんな集まってくるので、知り合いだらけ。世界は広いが世の中はせまい。(昭浩)
ラムセスヒルトンホテルのなかにあるカジノに行った。ギャンブルが目的ではない。ドルの現金を作りにいったのだ。もともとドル現金は盗難されたときのリスクを考えて、あまり持ってきていない。しかし、アフリカではドルの現金しか使えない国があるので、ドル現金をここカイロで作っておく必要があるのだ。例えばスーダンなんかは、トラベラーズチェックはまったく使えないし、カードでのキャッシングも不可能。エチオピアも都市部でしかチェックの両替はできない。ジンバブエにいたっては、闇レートが公定レートの数倍という状況だから、トラベラーズチェックなんか両替したら大変損をしてしまう。
そしてもうひとつ、特にこの時期(観光シーズン)、ドル現金を闇両替でエジプトのポンドに替えたほうが、銀行なんかで替えるのよりはるかにいいレートなのだ。今の為替を例にすると、ドル現金を闇で替えた場合1ドル5.1エジプトポンド。銀行なんかの公定レートは4.6エジプトポンド。だから、トラベラーズチェックを一度現金に替えてからエジプトポンドに両替しほうが、かなりお得になるのだ。
どうしてこういうことが起こるのか?闇両替屋はどうやってもうけているのだろうか?という疑問が当然起こる。僕は後で知ったことだが、エジプトは観光シーズンになると為替レートを変えてしまうのだ。観光シーズン以外は自由為替するため、だいたい1ドル=5.4エジプトポンドあたりなのだが、たくさん外貨の入る観光シーズンになると1ドル=4.6エジプトポンドにして、強引にエジプトポンドの価値を上げてしまう。こんなことが許されていいのだろうか?まったく詐欺まがいのことを平然とやっているのである。
T/Cをドル現金に替えるときに問題になるのが手数料。カイロの場合、アメックスなら1%、トーマスクックなら4%の手数料がかかる。シティバンクのT/Cは、シティバンクのオフィスに行っても替えてくれない。しかし、カジノだったらT/Cを一度チップに替えて、そしてそれを現金に替えればノーコミッションでドル現金に両替できる、そう聞いたのだ。
ラムセスヒルトンホテルのカジノはエジプトとはいえ一流ホテル内のカジノである。フォーマルな雰囲気が漂っていて、小汚い僕たちはなんか場違い。緊張して少し舞い上がり気味。恐る恐る400ドルのT/Cをチップに替える。替えた直後、カジノの店員からクギをさされる。
「君たち両替に来たんじゃないだろうねぇ?ここは銀行じゃないから両替はできないよ。」
ガビーン!!全員真っ青。えっ、このチップ両替できないの?
しかし、そんなはずはない。ここはカジノ、チップが現金にならないカジノなんてカジノとは言わない。それじゃ池袋のゲームセンターといっしょだ。
要は遊べばいいんでしょ?遊んだ後で換金すればいいのだ。
ということで結局少し遊んでいくことにした。
生まれてはじめてカジノである。ルーレットの台に座り、1ドルチップをちびちび賭ける。赤に賭けたり黒に賭けたり、ほんとにちびちび。オバQスタイルのアラブの石油王風の男は、10枚単位でどかどかと賭けていく。たまに100ドルチップを賭けたりする。小市民の僕たちは相変わらずちびちびとやって、一喜一憂し、増えたり減ったりしながらなんとかイーブンを保っている。それも束の間、ディーラーが若いお姉さんからベテラン風おじさんディーラーに変わってから、どんどん減り始める。結局20ドルすってしまった。
400ドルの換金に20ドル、5パーセントの損失だ。これならトーマスクックで素直に両替しておいたほうが安くついた。とぼとぼとキャッシャーにいってチップを両替してもらうと、なんとこちらが渡したT/Cで返ってきた。これは困った。T/Cを僕たちは両替しにきたのだ。こちらも粘って、「一度サインしたT/Cは両替できないから現金をくれ」と言い張る。何度も言い張っているうちに、向こうがあきれた顔して渋々ドル現金に替えてくれた。なんだか、向こうのいいように遊ばれてしまった、そんなカジノ体験であった。これは、いい人生勉強だ、と思うことにしよう。(昭浩)
カイロの考古学博物館は必見である。カイロに限らず、その国の首都にある考古学博物館というのはハズレが少ない。トルコのアンカラ、レバノンのベイルート、シリアのダマスカス、どれもなかなか見ごたえがあって、これは、と思える発見がなにかひとつはあるもんだった。評判の高いカイロならなおさらであろう。
全部見終わるのに3時間かかってしまった。それだけ見る物が多い。そのなかで僕が最も印象に残っているのは、ラムセス2世のミイラ。すべてのエジプト人が尊敬するラムセス2世がミイラとはいえ、目の前で横たわっているのだ。遺跡なんかでは、神格化されている歴史上の人物がそこにいた。まさしくそれは本物であり、本人なのだ。ミイラとはいえラムセス二世本人と会えるなんてスゴイことだと思う。(昭浩)
ツタンカーメンの黄金のマスク、まぶしい!!トルコのトプカプ宮殿のスプーン屋のダイヤモンドに匹敵するくらいの心に残る輝き。1回見て、後からもう1回見に行ったくらい、印象的、かつもう一度見たくなる代物。さすが有名どころは違う。(映子)
スーフィーダンスと呼ばれるものを見るのは今回で3度目である。トルコのセマーの舞い。パキスタンのラホールで見たスーフィーダンス。しかし、エジプトのスーフィーダンスはどちらのものとも違っていた。
くるくる回るところはセマーの舞いのようだし、演奏はパキスタンの時のものに似ている。太鼓や笛、シンバル、そして歌、それに合わせて大きなスカートのようなものをはいた男がくるくるとまわりながら踊る。
30分近くるくるまわる。まわりの踊り子(踊り子といっても濃いアラブ顔の男たち)も踊る。トルコのセマーの舞いもひたすら回るものだったが、それは宗教的な舞であった。しかし、こちらのは舞というよりダンス。腰に巻いてまわすスカートも派手だ。宗教というよりエンターテイメント。
途中からスカートを脱ぎはじめ最後には染太郎のようにスカートを棒で回しはじめるではないか。しかも回しているのは染太郎とは似ても似つかないグレート義大勇似の(パキスタンのスーフィーダンスのときもなぜか義大勇似だったが・・・)あつくるしい男だった。しかもややラテン顔。ラテン系義大勇は、首まで左右にぶるんぶるん振りながら回り続けていた。途中、ハクション大魔王のようなヒゲおやじが入ってきて、カスタネット型シンバルを両手にチリンチリンと鳴らしている。得意気だ。まわりの踊り子のいいおっさんも恍惚の表情を浮かべている。
濃厚なキャラのエジプシャンのおやじたちによるスーフィーダンス。カイロで最大の見ものとの呼び声も高い。カイロに行ったらぜひ見てほしい。
僕は、風景のなかに溶け込んでいるピラミッドが好きだ。
サッカーラの階段ピラミッドを見に行った。近くで見ると、階段状になっているなあ、とそれ以上の特別なものは何も感じなかった。しかし、帰りのバスの車窓から見た光景はとても目に焼きついている。夕日が西の空を赤く染めている中で、緑の畑の向こうにやしの木が見える。そのやしの合間からのぞく階段ピラミッドのシルエット・・・それは東京の夕暮れ時に見える影絵のような富士山にも似ている。・・・が人の手によって造られたものだと考えると余計に感慨深い。(昭浩)
ダフシュールのピラミッドめぐりは観光ではない。トレッキングである。
ダフシュールには3つのピラミッドがある。赤のピラミッド、屈折ピラミッド、黒のピラミッドだ。ゲート、赤、屈折、黒、この4つがちょうど正方形のような位置関係にある。ゲート→赤→屈折→黒→ゲートと一周できる。それぞれの間の距離は約2〜3キロ。歩くと一辺につき40分程かかる。僕たちは歩いてこのダフシュールのピラミッド群をまわった。ピラミッドを目印にしてまわるオリエンテーリングのようなものだ。砂漠のなかで見えるものはピラミッドくらいのものだから、迷いようのないオリエンテーリングなのだが…
これは、きつい。まったく日陰のない砂漠をひたすら歩くのはかなり消耗する。季節が冬だったからよかったものの、夏だったら日射病で倒れている。しかし、砂漠のなかで3つのピラミッドと自分たちだけしかいない、そんな状況が実現するのは、歩いて回っているからこそだ。タクシーで回る観光客は、すべてのピラミッドをいちいち見て回らない。遠めに見て終わりの場合が多い。だから、屈折ピラミッド近くまで来ると観光客はほとんど見なくなる。3つのピラミッドに囲まれた砂漠の中で、自分たちだけが別世界に行ってしまったような錯覚におちいる。ピラミッドと砂漠に浸るにはもってこいのロケーションと言えよう。3つのピラミッドをまわったという達成感も得られる。だから、僕はダフシュールのピラミッドがギザやサッカーラ以上に気に入っている。(昭浩)
二日前に申請したエチオピアビザが午前中に出たので、午後からアキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに着いたのは、日が暮れてからだった。安宿と呼ばれるところは、3つあって、どれも同じビルに入っていたので、とりあえずそのビルを目指す。入り口がわかりづらくてウロウロしていると1人の男が声をかけてきた。「宿はこっちだ。」
…宿に行って料金を尋ねると、相場より10ポンド近く高い。違うフロアにいっても申し合わせたように同じ値段。男はどこへ行っても同じ料金だ、と言っている。
気づくのが遅かった。彼はホテルのコミッションマンだった。通常のホテルの金額に彼の手取り分のマージンがのっかっているから、高いに決まっているのだ。同じビルにはもうひとつ別の宿があるが、結局このコミッションマンが一緒だと同じ結果になるのは目に見えているのであきらめて最初のホテルに泊まることにした。
「アレキサンドリアには何日滞在するのだ?」
「2日間だ。」
「2,3日滞在するならまとめてお金を払っておいたほうがいい。」
(ははーん、まとめて払えばこの男により多くのマージンがはいるというわけだ)
「いや、僕たちは1日分しか払わない」
「まとめて払っておかないと他の誰かが入って部屋が埋まってしまうぞ」
とわけのわからないことを言い出したのでこっちも突っぱねた。
「そしたらこのホテルを出て行くからかまわない」
コミッションマンは、またわけのわからないことを言い出した。
「下へ行ってコーヒーをおごってくれ」
「なぜ、お前にコーヒーをおごらなきゃいけないんだ?」
「たった1ポンドだよ。友達だろう?俺は君たちの手伝いをしたじゃないか?」
そして映子がキレた。
「お前は友達じゃない!私はお前が嫌いだ!」
トーンダウンしたコミッションマンは、小さくつぶやく
「もし君たちがよかったらでいいんだ…」
映子はさらに激怒。
「私はお前が大嫌いだ!!」
部屋は、ベランダからアレキサンドリアの海が一望できるすばらしい部屋だったが、僕たちは多分明日違う宿に移るだろう。(昭浩)
「アレキサンドリア」魅力的な響きを持つ街。その名前を聞いただけでどんなところだろうと興味を持ってしまう。それは僕だけじゃないはずだ。とにかくアレキサンドリアがなんぼのものかこの目で見ておきたかった。それともうひとつ行っておきたいところがある。アレキサンドリア図書館だ。その昔、ギリシャ・ヘレニズムの英知を集めた図書館。もしそれが破壊されずに残っていれば、人類の歴史、科学の進歩は大きく変わっていたであろうといわれている。そのアレキサンドリア図書館が最近復活した。
…が、今日は祝日のためお休み。トホホ
アレキサンドリア図書館の姉妹図書館だったといわれる遺跡に行った。ポンペイの柱と呼ばれる観光スポット。大きな柱が一本。そして、地下にある図書館跡。それとしょぼいスフィンクス。なんだかパッとしない。
結論を言えば、アレキサンドリアで一番良かったのはシーフード。魚、イカ、エビのミックスフライにサラダとごはんがついていて、ボリュームたっぷり。なにはなくともおいしい食べ物があれば人間幸せになれるものである。(昭浩)
アフリカ大陸の中で圧倒的な存在感をもつサハラ。今日僕はその サハラの懐へと入る。
地中海沿岸から内陸に向かって約5時間リビアとの国境近くにスィーワオアシスはある。スィーワまでの道のりはごろごろ赤茶けた石のころがる砂漠である。寝ても覚めても何もない風景が続く。太陽が地平線に近づく頃、やしの木で埋め尽くされたスィーワオアシスにたどり着いた。日干しレンガできた家がたち、カレッタと呼ばれるロバ車がコトコト走っている。人もエジプト人とは少し違うベルベル人。それがスィーワオアシスだった。(昭浩)
僕たちはランドクルーザーに乗ってスィーワオアシスを出発した。10分も走らないうちにさらさらした砂の砂漠になる。ジープは砂にハンドルをとられながらも砂丘を次々と越えていく。デザートサファリである。車は小さな泉の前で止まった。そこから歩いて小さな砂丘に登る。そこで遠くまで続く砂の海をながめる。
美しい時間が流れていた。透きとおるような時間だ。存在感の感じられない時間。
そんな時のなかで僕は過去を思い出し、未来を想像し、今を見つめる。思考が勝手に現在と過去と未来を飛び廻っている。
・・・達成感と喪失感・・・
サハラ砂漠を見ることは、13年も前から夢見てきたことだった。大学を卒業し就職して2年目のある日僕はサハラ砂漠に来た夢を見た。目が覚めた僕は、本当に行けるのだろうか?そんな思いでいっぱいだった。その当時の自分の状況からサハラに来ることなど限りなく不可能に近く、それが現実になるものだとは思えなかったのだ。どうしてそれほど困難なものに感じていたのか、今思えばチャンチャラおかしいのだが、とにかく忙しい会社に勤めていたから、たくさんの目の前にある仕事に囲まれた閉塞感のなかでそう感じていたのだと思う。
それでも、その夢を見てから、なんとか僕はその夢を実現させたいと思っていた。だから僕の長期旅行のビジョンはサハラにいる自分だったのだ。そして、そのビジョンが現実なものとなった。大きな達成感とともに目標を達成してしまった喪失感を同時に感じている。
砂漠をじっと見ている。目の前の砂漠の景色だけが自分を支配してきて、何かを考えることが無意味なものに感じた。すべてがどうでもいいことのように感じた。
すべてがどうでもいい・・・なすがままにいくだけだ・・・
それがサハラで湧き上がった心の声だった。
砂漠のなかにある温泉につかり心も体もすっかりリラックスした。脳みそから足の先までほぐれた。
(ここは昔海だったんだよ)
見つけてきた貝殻を彼女に渡す。
すべてを浄化してくれる、そんな純粋な笑顔を持った少年だった。
彼は、口がきけない。しかし、彼の心はなぜか伝わってくる。そんなベルベルの少年だった。
太陽は細切れの雲を薄いオレンジ色に染めながら沈んでいった。しばらくすると明るい月が輝きだした。明るすぎる月のためあまり多くの星は見えなかったが、月はたくさんの砂の山を美しく照らしていた。
その景色には人を吸い込むような魔力があった。僕は砂丘を導かれるように歩いていった。歩いても歩いても砂丘が続いている。遠くまで現実とは違った幻想的な世界が広がっていた。
とても静かな夜明けだった。誰もいない、なにも聞こえない。風の音さえしない。
音のない世界にピンク色の砂漠だけが存在していた。(昭浩)
アレキサンドリアからカイロへ向かう電車に乗った。ドアの近くに座ろうとすると、一人の青年が声を掛けてきた。「…Suffer from cold」とか言っている。どうやら、「そこの席は寒いからやめたほうがいい」と言っているようだ。私たちはすぐに中の席へ移った。そしてそれは正解だった。ドアについている窓は、ガラスがないので、風が吹き込んできている。
声を掛けてきた青年は、私たちの目の前に座ってきた。それから、会話は始まった。「アメリカは好きか?」とか、「日本からカイロまで何時間かかる?」とか、「アレキサンドリアはいいところだ」とか、わりとたわいもない話だった。でも、彼の英語は、ほかのエジプシャンがそうであるように、発音が悪い。Templeがタンブル、Pressureがプレジャーに聞こえる。時々イライラしながら、「I’m Sorry?」と聞き返すと、「なんでSorryと言うんだ」と聞いてくる。「これは、Perdon?と同じで、聞き返す言葉だ」と、私は半怒りで答える。すると彼は「わかった」と言って、私のまねをして「Sorry?」と聞いてくるのがまたイライラする。「もう疲れた」と、思わず私は言ってしまった。でもその後、「そんなにイライラすることもないかな、彼はいい奴だ、かわいい奴じゃん、ちょっとしたエジプシャンジョークさ」、くらいに思えるようになってきた。そこでやっと、彼と友達になれた気がした。メールアドレスを渡すと、彼はとても喜んでくれた。彼は私のエジプトで最初の友達。「永遠に友達でいれるといいね」と彼は言った。いつかまた会おう。そう言って別れた。今はまだメールアドレスがないと言ってたけれど、いつかメールが来て、会える日が来るだろうか?(映子)
昨夜、カイロから電車に乗ったときのことを少し書いておきたい。私たちは、切符も買わずに電車に乗った。予約が取りづらいというのは噂に聞いていたし、実際乗ってみるとガラガラだという噂も聞いていた。そして、アレキサンドリアから電車に乗ったとき、「これはいけるな」、と思ったのだ。改札はないし、電車の中で切符を買うのも簡単。それならなぜ、めんどくさい思いをして、列に並んでチケットを取る必要があるのだろう?と思ったのだ。
列車は思っていた通り、空いていた。が、それは、私たちが駅についた時点でのことだった。しばらくして乗客が乗ってくると私たちは、最初に座っていた席を追われ、次の席も追われた。しかし、切符を持っている若者6人集団がとても親切にしてくれて、「ここに座れ」と言ってくれた。二人席に3人で座って、一つ席を空けてくれさえした。ほかにもたくさん、切符を持ってない風の人々がいた。それは私たちにとって救いだった。列車が動き出すと、私たちは席を求めて、次の車両へ行った。そこで運良く席が空いていて座って眠ることができたのだった。ただ、前のおやじがうるさくて、ケンカを始めたりするので、寝たような寝てないような状態だったけれど。
ルクソールに到着したのは、朝の9時だった。
夕方、カルナック神殿へ行った。建物全体の大きさはさることながら、やはり、「列柱の間」がすばらしい。聖なる池から見える壁のレリーフも私のお気に入り。でも、ちょっと期待が大きすぎたかな、とも思った。思ってたほどの感動はなかったのだ。
一回外に出て、暗くなってきてから、夜のサウンド&ライトショーを見に、再び中に入った。これはよかった。歴史も少しわかったし、誰がどれを作ったのか、とか、アモンとは?とか、少し理解できたような気がする。しかし何よりも、夜の遺跡、ライトアップされた姿が、今まで見たことないので、新鮮に感じた。レリーフもオベリスクもライトアップされた方が、きれいに感じた。(映子)
外はまだ真っ暗。でも今日は早起きしてナイル川西岸に行くのだ。5時過ぎに出発し、フェリーに乗ると、客は私たちだけ。でも出発してくれた。ツーリストプライスで、地元の人の4倍くらい払っているからだ。
まだ暗い道を自転車で走り、メムノンの巨像のシルエットを横目に見ながら、チケット売り場へ行った。ネフェルタリの墓は、噂どおり閉まっていた。私はおなかの調子が急に悪くなって、トイレに駆け込む。そのうちに明るくなってきた。でも、まだまだ寒い。
まず、最初はラムセス3世の葬祭殿。ここはとてもよかった。神殿はとても大きくて、レリーフの色がきれいに残っている。褐色の肌の色が鮮やかだ。柱と壁のレリーフをゆっくり感動しながら見ていると、1時間くらいかかってしまった。
次にラムセウム(ラムセス2世の葬祭殿)。さっきより規模は小さいけれど、同じようなつくり。レリーフは、カディシュの戦いが見所。そこから、ハトシェプスト女王葬祭殿へ行く道はわかりにくかった。まあなんとか、でこぼこ道を越えてたどりついた。ハトシェプスト女王の石像やレリーフの顔は、義理の息子であるトトメス3世にことごとくやられている。よっぽど嫌いだったのだろう。
そしていよいよ山越え、自転車を置いて、王家の谷まで歩いた。登りはきつくて長かった。でも景色はいい。ナイル川も見える。しばらく平坦な道が続いた後、また登りだった。登りきったところを下って、やっと王家の谷だ。ここには、ファラオの墓がたくさんある。
まず、ツタンカーメン。壁画はバックが金色で、色がとてもはっきり残っている。修復してあるのかもしれない。わりと小さくてすぐ見終わってしまうのに、なんだか、独特の雰囲気があったので、印象に残っている。
次にラムセス9世の墓。ここはとてもシンプルなつくりだけれど、色とりどりできれい。ラムセス3世の方はもう少し広くて、レリーフが多い。所々色もついている。ハープ奏者の絵は、浮き彫りではなく、壁画。顔が良くわからない。それより、貢物を持っていく人々のほうが面白い。蛇のからだを持つ男もいたし、船を引っ張っていく人々もいた。墓には、船がつき物らしい。死後の世界を旅するのに必要なのだそうだ。なかなかおもしろい。
トトメス3世の墓は、階段をいっぱい登って、いっぱいおりる。中はとても暑いけれど、なんだか涼しげな絵が描かれている。黒い線だけで描かれたその絵は、エジプトっぽくない。中国や日本に近い気がする。写真を撮ると「チケットは?」と言われて、1ドル払えと言ってくる。
王家の谷からまた山越え。帰りは行きより楽だった上に、景色も良かった。ナイル川の向こうは、しばらく緑豊かな土地で、その向こうはまた、砂漠。ナイル川に沿って緑が続いているのだ。「エジプトはナイルの賜物」そんな言葉を思い出す風景だった。
最後に行ったセティ1世葬祭殿では、「これはラムセス2世だ」とか、「ベビーラムセスにお乳をあげてる図」とか、説明してくるおやじがいる。しかも、私たちのチケットを切ってくれず、ずっと持ったまま、返してくれない。「ガイドをしてもバクシーシを払わないよ」と言っても「No Problem」と言ってガイドを続ける。いいのかななんて思っていると、最後に来た。「チケットを切らないから、貴族の墓へ行ってきたら」と言う。私は、「あなたに何もあげられないし、私たち疲れているから帰りたい」と言った。彼はかなりしつこく言ってきたが、断った。
その夜、私は金縛りにあった。枕元で、トントントントンと激しくたたく音がする。なぜだかわからないけれど、「ツタンカーメンだ」と思った。(映子)
デンデラは、マニアックだけれど、行った人はみんな薦める、評判のいい神殿だ。だけど、こんなに行くのが大変だとは思わなかった。ルクソールから、ケナまでのバスはすぐ乗れて、料金交渉も必要なしで楽チン。ところが、バスターミナルに着くと、そこにいる人たちはタクシーに乗せようとして、セルビス乗り場を教えてくれない。さんざん歩き回って探した後、「もうどうしよう?」と途方にくれていたら、ポリースマンを見つけた。するともう1人、私服のポリースマンが現れて、セルビス乗り場まで連れて行ってくれた。
セルビスのエジプシャンプライスは25ピアストルだと思うけど、50ピアストルと言われた。交渉してもダメ。このへんは、ツーリストプライスがまかり通るところなのだ。これくらいの金額なら、仕方ないのかな。
ハトホル神殿まで、約1キロは歩き。途中でアメリカ人の男の人に会った。いいやつだが、金払いもいいやつだった。電車やセルビスで、ぼられまくっている。セルビスで1ポンドとか払ったらしい・・・。
神殿は、すばらしく良く残っていた。特に天井がすばらしい。青と黒の2色で、ちょっと幻想的。中にはいくつも部屋があり、2階もあり屋上に出れる。2階に上る階段の両脇には、同じように上っていったり、下りていったりしている神官のレリーフがある。1人で上っているという感じがしないから不思議だ。2階には、天井に星座が書かれた部屋と女の人のお腹に子供がいる図があった。
外に出て、クレオパトラと息子のカエサリオンのレリーフを見る。ここが一番の見所と書いてあったけど、私は建物の中のレリーフのほうが感動した。
帰りは、神殿の外にいるポリースに呼び止められ、「ちょっと待て」と言われた。車がここに来るからと言われたので待った。ところが、全然車が来る気配がない。「もう歩いていくよ」と、行こうとすると、頼んでもないのにタクシーを連れてきた。私たちは、「どうしてもセルビスで行く」と言い張ると、タクシーで1人50ピアストルにしてくれた。タクシーの運ちゃんはとても不満そうだったけど。
バスターミナルでは、またしても事件があった。私たちはチャイを飲もうとして聞くと「1ポンド」と言ってくる。「50ピアストルでしょ」と言うとすぐにその値段になる。チャイを飲んでいると菓子売りの少年が、「チャイは25ピアストルだ」と言っている。やられたと思って、チャイ屋のおやじに金を返せという身振りをしてみるが、もう払ったものは返してくれない。おやじもバツが悪そうだ。ほかのエジプシャンも、25ピアストル払おうとして、50ピアストル払っていた。多分後で返してもらうのだろう。なんだかいろいろやられっぱなしの一日だった。(映子)
デンデラはよかった。昔の神殿がしっかりそのままのカタチでのこっていた。天井のレリーフも見ごたえあったし、僕のなかでもたいへんポイントの高い遺跡だ。(昭浩)
※1ポンド=100ピアストル=25円
午前11時半のバスでルクソールからアスワンに向かう。舗装された道は快適だ。南に向かうに連れ日差しが強くなってきている。イラン以来か、暑いところに来たのだなあと感じさせる。アスワンは北回帰線の近くにあるのだ。
アスワンはルクソールよりまともな町だと思っていた。何がまともかって?そりゃ、人が、である。しかし、ルクソールよりひどい。25ピアストルの乗り合いタクシー(セルビス)はその4倍である1ポンドでしか乗せてくれない。同じく25ピアストルの豆コロッケサンドイッチも1ポンド。クッキーも2ポンドとアラビア数字でご丁寧に表示してあるのに、2.5ポンドだと言い張り、75ピアストルと袋に表示してある洗剤も1ポンド以下では売ってくれない。
「ここに75ピアストルって書いてあるのになんで1ポンドなの?」と聞くと、店のオヤジはしれっと「それは、値段ではなく、重さだ。」と言う。しかし、どうみても重さのところには、違う数字が書かれてある。
いい加減にしろよ、エジ公め。(昭浩)
アブシンベルツアーは朝4時出発。ツアー車の同乗者は日本人6人と韓国人2人。外はもちろんまだ真っ暗。途中チェックポストで何度か止まったりしながらアブシンベルに向かった。
いつものごとく車のなかで眠る。ふっと目が覚めると外が明るい。夜が明けてきたのだ。そしてサンライズ。砂漠がつづく。砂ではなく、石ころがころころ転がっているそんな乾いた大地だった。
アブシンベル到着は7時ごろ。お腹が痛くてトイレに行きたかったけど長蛇の列がすでにできているのでガマン。これはかなりきつかった。
アブシンベル大神殿は、おなじみの外観。中はガディッシュの戦いの様子が壁のまんなかに描かれている。中央の通路の両側にはオリシス神のかっこうをしたラムセス2世がずらっと並ぶ。一番奥にある4つの像は、形がはっきりとは残っていないので、なんだかよくわからない。いくつもある部屋の壁のレリーフはきれいだったんだけど、実はお腹が痛くてよく覚えていない。でもお腹が痛かったからってわけでもないかな。いろんな遺跡を見ても、いいなとか、すごいなと思っても、帰って思い出そうとしても全然覚えてないのだ。
小神殿は、その名の通り小ぶりだ。ネフェルタリのために作られたといってもやっぱりラムセス2世が目立ってる。中のレリーフはちょっと女の人が多めかな。しかし、お腹の痛さはピークに達してもう耐えられない。
一通り見たのだけれど、カディッシュの戦いのときに結ばれたという、世界最古の和平条約が見つけられなかったのが残念だった。
次のアスワンハイダムまでは、来た道を帰る長い道のり、ここでよく眠ったので、ロングツアーでも疲れずに回れた。一緒に行った日本人の男の子は、アスワンハイダムに感動していた。私は、「小学校のとき社会の時間に出てきたところだ」、と思って少しうれしかったくらいだ。だけど、今までに見たどのダムよりも大きくて、一見ダムに見えない。そう、今までに見たこともないものだと思った。
イシス神殿へは、ボートに乗っていく。ちょうど乗り場で、韓国人6人が交渉していて、一緒に行くことになった。イシス神殿は、イシスがホルスを産んだところなので、イシス、ホルス、オシリスがレリーフの中に多く出てくる。柱の上のほうの形が違っているものがあって、興味深かった。
最後は、きりかけのオベリスク。オベリスクの形はしてるけど、文字は刻まれていない。特に感動はなかった。でも、オベリスクって、大きいな、どうやって運んだんだろ?と思った。(映子)
午前中にスーダン行きのフェリーチケットを買ったあと、夕方フルーカでナイル川に浮かぶキッチナー島(中洲?)へ行った。フルーカとは、太古からこの地方で使われている帆掛け舟だ。アフリカの風にまかせて、ナイルを漂い、古代エジプトを偲ぶ。いい企画だ。
あいにく今日はまったくの無風。帆を張ってもフルーカは微動だにしない。フルーカを操るにいちゃんはオールで漕ぎはじめる。しまいには、フルーカの核である帆までぐるぐる巻きにしてたたんでしまった。
「フルーカも風がなければ手漕ぎ舟」
むなしさのあまり一句作ってしまった。
キッチナー島もただの植物園。くだらない上に入園料を取る。
フルーカ漕ぎのにいちゃんは、吸ってたマリファナがキマってきたのか、なんだかご機嫌。歌を歌い始める。一緒に歌えというので、一緒に歌う。それまで重かった気持ちが軽くなる。歌に少し救われたかな。
エジプト最後の晩餐はムスタファが手料理をご馳走してくれた。ムスタファとは、僕たちの泊まっているマルワホテルのオーナーの息子。彼は、エジプトのバケーションシーズンでアスワンのどこの宿もいっぱいで泊まれず困っていた僕たちに、寝る場所は僕が何とかするからシャワーでも浴びてリラックスしてて、と言ってくれ、その言葉通りちゃんと寝る場所を用意してくれた。そして、今日もごはんの材料代としていくらかお金を払おうとしても彼は受け取らない。彼はこう言った
「君たちは友達だから僕は作ったんだ。」
うれしいことを言ってくれるではないか。ボッタクリの多いこのアスワンで、エジプトでの最後の晩ごはんが、このナイスガイのムスタファの手料理でのおもてなしだった。心にのこるエジプト最後の晩餐であった。(昭浩)
フェリーはアスワンハイダムの横から出発する。アスワンの町からハイダムまでは列車を使って移動。その列車のなか、車掌が検札にやってきた。切符を持っていない僕たちはそこで買おうとした。そのときのことだ。
「二人で2ポンド50ピアストル払え」
車掌は言ってきた。おかしい。アスワンからアスワンハイダムまでは1人50ピアストル、これは昨日駅の窓口で確認済み。
「いやそんなはずはない。1人50ピアストルずつだ」
「駅で買えば50ピアストルだけど列車の中で買ったら高くなるのだ。2ポンドでいいから払え。」
「それはおかしい。今まで僕らはいつも列車内で切符を買ってきたけれど、車内で買うと値段が高くなるなんて聞いたことがない。どうしてなのか説明しろ」
「じゃあ、あとでヘッドオフィサーのところに一緒に来い。」
アスワンハイダム駅に着くと、僕たちはその車掌にヘッドオフィサーのいる小さな小屋へ連行される。ヘッドオフィサーにことの成り行きを車掌が説明した後、ヘッドオフィサーは僕らに、2ポンド払え、といってきた。
「それはおかしい。どういうことか説明しろ」
「列車内の切符の値段が高くなる、これはアスワンだけのルールだ。」
そう言われて怒り狂う僕たち。ヘッドオフィスのなかはエジプト人の野次馬たちでいっぱいになっている。
アスワンルールだ、と開き直られるとこっちも打つ手がない。たかだか2ポンドくらい払ってしまったほうが楽という考えも浮かんで来るが、こいつら悪党に負けるわけにはいかない。僕らは論点を変えた。
「この車掌は、はじめ2ポンド50ピアストル払えと言ってきたんだ。そして今は2ポンドになっている。アスワンルールは、そんなに値段がコロコロ変わるのか?この車掌は僕らからお金を多くとって、自分のポケットにいれようとしたんじゃないのか?」
そこで、仲介兼通訳のエジ公がこう言った。
「この男は英語がわからないのだ。」
あきれたものだ。いままでさんざん英語で話していたのに。
「こいつら俺が金をネコババしようとしたと言ってやがる」と車掌もキレる。
野次馬もワイワイ騒ぎだし、収拾がつかなくなったところで、一人の男が聞いた。
「お前たちはこれからどこにいくのだ?」
「スーダン」
「ハラース ハラース(終わりだ、終わり)」
スーダンに行くとわかると、なぜか急にもう行っていいということになって、正規料金の50ピアストルも払わずに放免となった。
最後の最後まで本当に疲れさせるぜ、エジ公め。(昭浩)