1月28日〜2月12日
朝5時ごろ、船のスピーカーから声が聞こえる。アザーンだ。もう眠いのに勘弁してくれよ、と思いながらまたうとうと。でもそのうちに起きてしまった。
9時ごろ、誰かに「アブシンベル」と言われて、急いで外に出たけれど、ときすでに遅し。大神殿の後ろ姿と、遠くに小神殿が見える。見逃した。ちょっと落ち込む。早起きしてたのに、すっかり忘れていたのだ。
フェリーの中では、もう昨日の日記を書き終え、時にすることがない。少し眠り、ロンプラを読み、近くにいる子供をからかったりしてみる。
入国の手続きが始まった。入国カードを書いて、パスポートを預ける。その後、食堂でチェックを受け、パスポートの受け取りは港の事務所だった。船は1時ごろ着いたけれど、中で待たされて、2時半ごろやっと降りる。そして、パスポートを受け取り、町に行く車に乗ったのは3時50分だった。
国境の町ワディハルファからドンゴラ行きのバスがあるらしい。スーダンでは、なかなか公共の交通機関がなく、足止めを食らうことが多いと聞いていたので、ラッキーだと思って、すぐに乗ることにした。
だけど、夜9時に出ると言ったバスが、私たちの大きな荷物を乗せたまま、いなくなった。まだ、7時半だ。一緒だった直紀くんと、フランス人2人とイギリス人が、探したり、聞いたりするのを手伝ってくれた。
10時過ぎにやっとバス発見。乗って待っていると、動き出してすぐ止まり、みんなが急に降り始めた。みんなと言っても乗っていたのは私たち以外に4人くらいだった。どうやら今日は人が少ないので行かないらしい。もう仕方がないので、今日はここに泊まることにした。
スーダンに入ったとたんに、急にアフリカっぽくなった。人々は黒くて、土地は砂漠で、乗り物が全然違う。砂漠の道なき道をゴトゴト行く、トラックの荷台に屋根と座席をつけた乗り物、ボックスと言うらしい。ラオスを思い出した。ラオスに入ったとたん、中国との違いを感じた、あのときの気持ちとも似ている。いよいよアフリカにやってきた。そんな気がした。
夜12時に突然電気が消えて、満天の星空が見えたとき、ちょっと感動してしまった。しかし、砂漠の夜は寒かった。(映子)
朝、イミグレへ行って、レジストレーションというものをしようと思っていた。フランス人の2人が、「レジストレーションにお金はかからないから絶対払うな」と言い張るのだけれど、交渉してもだめ。ハルツームでもできるというので、今日はやめておいた。
そこで出会ったドイツ人の女の人が、「アブリまで行くから、ドンゴラまで行くなら一緒にどう?」と言ってくれた。値段は昨日のバスより少し高いが、すぐにでも出れそうなので、行くことにした。しかし10時に出ると言ってたが、11時になっても一向に出ない。
3人でお茶を飲んでいると、1人の太った男が現れた。「俺のバスは3時に出る」と言う。値段はなんと半額。それならそっちの方がいいかと、考えた。ドイツ人の女の人も「バスがあるならそのほうがいい」と言ってくれた。
ところが、ドイツ人女性と最初の車は12時ごろ出発し、私たちが乗ろうと決めたバスは、3時過ぎても出発する気配がない。さっきの太っちょ男に聞くと、ちょっとまて、と言うポーズをして逃げる。結局、バスは行かないと言われ、それから必死で違う車を探した。
やっと見つかった車は、5時に出発すると言っていたが、やっぱり7時ごろの出発になった。しかも、荷物と人が満載の荷台には屋根がない。いつのまにか日が沈んで、あたりは少しずつ暗くなり始めた。私は寝袋にくるまったので、寒くはなく、逆に暑いくらいだった。でも前の人が寝始めてもたれかかってきたので、荷物が足のところにきて、身動きが取れなかった。暗闇の中、木が車のライトをあびている姿は、星の王子様のバオバブの木を思わせる風景だったし、星はとてもきれいだったけど、それを楽しんでいる余裕はなかった。オイルのにおいがきつくて、気持ち悪くなってきた。途中で休憩があったり、一人降りたりしたけど、状況はまったく改善されなかった。そして、アブリから1時間くらいのところに12時半ごろついて、そこで一夜を明かした。
翌日の朝、7時ごろ日の出だ。大地から出てくるまぶしい太陽。これぞアフリカ。みんな起きだしてきたので、出発か?と車に乗ろうとすると、「エンジンが壊れているから、修理するまで動けない」と言う。仕方ないので、また部屋に戻り眠った。まだまだ眠い。
あきちゃんは、一緒のボックスに乗ってきたカマールとナイル川を見に行った。その後私も起きて、暇なので二人で花札をしたりするが、そのうち飽きてくる。ほかの人たちは、寝ている。修理する気あるのだろうか。どう見てもやる気ナシオである。
あきちゃんも寝始めたので、私は一人ナイル川を見に行った。あきちゃんは、「まあまあ」と言ってたけど、ナイル川が見えたとき、私は感動した。ヤシの木の向こうにある畑の向こうに見えるナイル川は茶色かった。カイロからずーっと続いているこの川は、ここまで来てもまだまだ大きい。さすが世界一長い川だ。土でできた家の風景も私にとって新鮮な感動があった。
戻ってくると、変化があった。修理をしている。どうやら行けるようだ。ご飯を食べて、3時半ごろやっと出発した。2時間くらい走ってから、休憩した。シャズリーと言う青年の家で、チャイを出してくれた。夕日がきれいだった。片言の英語で少ししゃべり、なんだか楽しかった。スーダン人は良く笑う。
7時ごろ再び走り始める。だんだんと暗くなってきて、星が見えてきたころ、車が止まった。すでに9時過ぎである。エンジンがやっぱり調子悪いみたいだ。何度かみんなで押しながら、エンジンがかかるんだけど、また止まる。その繰り返しで、その後また修理。1時間くらい、私は車の上で祈った。「車が直りますように。ドンゴラ行けますように。」流れ星を3つ見た。
10時半ごろやっと再々スタート。なんとかケルマまでたどりついて、今日は終了。もう12時半なのに、泊まった家の主人は、食事とチャイを出してくれた。ゴザの上で今日も眠る。からだが少し痛いけれど、車の上で揺られて眠るよりはマシだ。男たちは、火に直接手や足を当てて暖める。ワイルドだ。それにしても毛布一枚で寝て寒くないのかな?(映子)
日の出とともにみんな起きて、お祈りをしている。チャイをごちそうになって8時過ぎに出発。この10人のグループの中で唯一英語が話せるおじさん、アフメットは、私たちにこう言った。
「昨日泊まったところは、神様が与えてくれたんだ。その前のところもそうだ。だから夜中にノックしても、彼らは食事と泊まる場所を用意してくれる。神様が与えてくれたところだから、お金はいらないんだ。そういうところが、この辺にはたくさんある。」
私はなんだかものすごく感動して、涙が出そうになった。そして、「今日も野宿同然だね」なんて言っていた自分を恥ずかしいと思った。神様は確かにいる、とそう思った。今見ている景色も、その辺にいるロバも、神聖なものに思えた。神様に感謝しなければいけない。アラーの神かどうか、私にはわからない。だけど、私は人々の心の中に、神様がいるんじゃないか、と思った。神の国、スーダン。ここで見たすべてのものを大切に心の中にしまっておこう。そしてそれが、私の心の中の神なのだ。感謝する心を決して忘れてはいけない。きっといつか誰かに、何らかの形で恩返しをしよう。
今日は1時間くらいであっけなく港について、10分くらいでナイルを渡り、ドンゴラについた。2泊3日の長旅だった。言葉は通じないけれど、なにげに親切にしてくれたおじさんたち、どうもありがとう。アラビア語をもう少し勉強して、スーダン人とコミュニケーションできたら楽しいだろうな。
ドンゴラの町を歩いていても、注目の的で、「ハロー」とか「ハワユー」とか「お茶飲んでけ」とか、みんなが声をかけてくる。町は思ったより大きかった。(映子)
ドンゴラの近くに、「カワ遺跡」という遺跡がある。世界中のどこを探しても、自分の名前がついている遺跡なんてあるだろうか?ここには行っておかないといけない。二人でそう話して行くことにした。しかし、行き方はまったくわからない。宿のおやじに聞いても「カワ?どこじゃそれ?」という感じ。とりあえず向こう岸ということはわかっていたので、渡ってから聞くことにした。
このおやじ知ってるかなあ?というような普通のおやじに聞いたら、英語が話せて、しかもカワ遺跡を知っている。なんてラッキーなんだ。すぐに車に乗って出発した。車はどんどん砂漠に入っていった。途中でタイヤの空気を抜いた。
「KAWA」という看板も見えてきた。もうすぐだ。砂に埋もれたカワ遺跡。日干し煉瓦の建物跡と、石の建物跡。確かに砂に埋もれて、なんだかよくわからないけれど、私はここに来れたというだけで満足だった。ナイル川のすぐ近くにあるこの神殿は、もしかしたらカルナック神殿に勝るとも劣らない大きな神殿だったかもしれない。そんなことを想像して楽しんでいた。ドライバーも少しはしゃいで、写真をとって欲しいと言った。そして、帰り道、興奮して「カワ!」と何度も叫んでいた。(映子)
早起きして向こう岸へ渡った。そしてカリマ行きの車を待った。9時半ごろからずいぶん待った。待っている間に、チャイをご馳走になったり、読んでいたロンプラを送ってくれとおじさんに言われたりした。1人のおばあさんが「私もカリマに行く。」と言っている。一緒に行くようだ。
12時前にやっと車に乗った。例によってものすごい詰め込みようだ。私は前のほうの角に近い席だったので、意外と楽だった。もうこれ以上無理でしょ、という感じで出発したのに、途中でまた1人乗せた。タイヤと水とガソリンを積み込んで出発。後ろの荷台だけでも10人以上いる。女は私を入れて5人。
走り始めたときは、景色がすごく良かった。緑豊かな大地、農作業する人々、そしてめずらしいきれいな鳥たち。やっぱりここは神様の住む国だ、と思った。しばらく行くと木々は少なくなっていき、ついに砂漠になった。そこからずーっと砂漠。砂漠は道がないのに、どうして方向がわかるんだろう。私には、ずーっと同じ景色に見える。
1時間半くらいで、休憩したところは、ミニオアシスという感じのところだったけど、そこから先はまたずーっとずーっと砂漠。砂の中にはまって動けなくなること2回。男たちは車を押す。女たちは平気な顔して座っている。慣れてるんだなあ。こういうことに。私たちは旅をしていて、ごくたまに、こんなに大変な移動がある。でもこの人たちはこれが生活なんだ。すごいなあ、強いなあ、とてもかなわないよ。おばあさんとかしわしわで、かなりの年っぽいのに。そしてカリマに着いたころには、私はぐったり疲れていた。(映子)
エジプト第18王朝はよくここまで来たものである。僕たちは車を乗りついできたけどかなりつらかった。
カリマの町から2キロほど南にある岩山のほとりにあるジャベル・バルカル、そこはエジプト第18王朝が神聖な場所としてピラミッドと神殿を建てたところ。そのピラミッドは、小さくて角度が急で、エジプトにあるピラミッドにはないものだ。保存状態がいいのには少しびっくりした。しょぼいけど味がある。人が誰もいないからなおさらいい。ここで映子30歳の誕生日を祝った。
神殿のなかの柱や壁にはハトホル神のレリーフやヒエログリフが描かれていた。エジプトではおなじみのものだが、ここスーダンで見ると新鮮なものに映る。
カリマからバスに乗りフェリーでナイルを渡って、メロウェに移動する。
暑くて日射病になりそう。宿に着くなりベッドに倒れこむように眠ってしまう。
スーダンの田舎は選択肢がない。交通機関の選択肢がない。“今、出るもの”に乗らないと次にいつ出るかわからない。1時間後かもしれないし、1日後かもしれないし、1週間後かもしれない。宿の選択肢もない。数が少ないし、どこに宿があるのか、といった情報もないから、見つかったホテルに泊まるしかない。食べ物の選択肢もない。今日泊まったメロウェの町にはフールと呼ばれる豆料理しか見当たらない。バースデーディナーどころではない。
それにしても透明な水でシャワーを浴びたい。バスルームといってもただの囲いがあるだけ。泥色のナイル川の水の入ったドラム缶から水を汲んでの行水、これがここのシャワーなのだ。昨日はナイルシャワーは遠慮させてもらったが、今日はついにガマンできずナイル川の水で頭から全身を洗ってしまった。 (昭浩)
風が強い日だった。砂が舞い上がって視界が悪い。こんな日に、私たちはまたしてもピラミッドを見に行った。結構崩れているけど、大きなピラミッド。それもまた、たくさんある。わりと残ってるのは5つくらい。土台だけみたいなのも合わせると10個くらいかなあ。ピラミッドはいつも砂漠にあって、砂に埋もれかけている。
一通り見終わって、帰ろうとすると、ターバンを巻いたガラベーヤのおやじにつかまった。例によって「パーミッションは?」と言っているようだ。「ない」と言って事情を説明すると、ついて来いと言う。変な冊子を見せられた。「遺跡に無断ではいると逮捕」みたいな取り決めがいろいろ書かれている。ややこしいことになって時間がかかるのがいやだったので、私はすぐに主張した。「これからメロウェに戻って、ダンガージーまでいきたい」と。するとおやじは意外とすんなり釈放してくれた。「パーミッションなしでここへ来るな!!」と強い調子で捨てゼリフをはかれたけれど、まあいいさ。無事にピラミッドも見れたし、タダだし、言うことなし。
宿に戻り、荷物をピックアップして、ダンガージー行きのボックスに乗った。ダンガージーで一泊のつもりでいたけれど、すぐにアトバラ行きのローリーが見つかった。こりゃラッキーと思って迷わず乗ったんだけど、これが想像を絶する大変さ。普通の大きなトラックの荷台には、ナツメヤシの入ったズタ袋が積まれていて、その上に乗るのだけれど、人がいっぱいでぎゅうぎゅうづめ。ズタ袋に入れられたヤギも一緒だ。人間とヤギとどっちがつらいかな。ヤギもつらそうにときどきメェーーーと鳴く。しかも、じゃまだから、人間に顔をけられたり、あっちへ行けみたいにひっぱたかれたりする。寒くはないけど、とにかく身動きがとれない。そして、道は最悪で、よくはねる。お尻が痛い。一緒に乗っているドンゴラ大学の大学生は、荷物であるナツメヤシを袋の穴から取り出してバリバリ食べる。たぶんその人たちのものじゃないと思うんだけど、私たちにもいっぱいくれた。味は、まあまあいける。
今日中にアトバラに着くのかと思ったら、夜2時ごろ止まった。またしても半野宿の小屋に銀マットを敷いて寝た。トラックの荷台でそのまま寝るというおばちゃんが、寒いから靴を貸してくれと言う。おばちゃんたちは、裸足なのだ。靴を貸したら自分も困るので、靴下を貸してあげた。そして、その靴下はしっかり砂だらけになった。(映子)
朝はやっぱり日の出とともに出発。7時半ごろだった。すぐに港に着いて、いつものフェリーでトラックごとナイルを渡る。あーもう何回ナイルを渡ったことだろう。渡ったらそこはもうアトバラ。荷物を降ろして、あきちゃんが1人宿を探しに行った。しかし、ここは、いい宿もないし、見所も特にない。待っている間に「Welcome to my house」 といってくれる人が2人くらいいたけれど、ここに泊まるのはやめにして、ハルツームへ向かうことにした。
まずは、バスでダマーという町へ。バスの快適さと道のよさに感動。ダマーで乗り換えてカブシヤヘ向かうときも、道はずっとよくて快適。つい眠ってしまった。ふと窓の外を見るとピラミッドが!!と思っているうちに通り過ぎてしまった。何にもないところにあるレストランで降ろされ、そこに荷物を預けて、通りがかったローリーに乗って少し戻る。さらに歩いてピラミッドに着いた。
入り口でおじさんに例のごとく「パーミッションは?」と聞かれて、また事情を話す。するとパーミッションは10ドルだと、他の人のを見せる。「それは、高すぎる!」と抗議すると2人で1000SDと言ってきた。スーダン人は1人100SD。200SDずつでどう?といってもダメという。とりあえず、金の話は置いといて、見て来いというので、中に入った。(1SD=0.5円)
ここのピラミッドはすべて神殿つき。レリーフもほんの少し残っている。ただ、下手に修復してあるのがいまいちだ。黒い石を積み上げたピラミッドなのに、全然違う色のコンクリートで固めてあるのだ。神殿内も、砂が積もっていて、ドアが開かないところもある。とてもきちんと管理しているとは言いがたい。しかし数は多くて、規模もでかい。昔はなかなか立派なものだったことは、想像できる。そして、少しはなれたところにある3つのピラミッドのところでは、一生懸命修復作業のため働いている人がいた。この暑い中をだ。それを見たとき、ちょっとはお金払わなきゃなあと思った。結局200SDずつでOKだった。それでもスーダン人の倍だ。
ピラミッドから道路まで来た道を戻る。結構距離がある。しかも炎天下。疲れた。荷物を置いてきたさっきのレストランまでバスに乗ろうと思ったんだけど、全然止まってくれない。トラックはつらいからやめようといってたんだけど、石油を運ぶタンクローリーが止まってくれた。おじさんはとてもいい人で、ハルツームまで行くから乗せてくよと言ってくれた。
荷物を載せて出発。助手席に3人で乗っているので、とてもせまく、乗り心地はいいとは言いがたかったけど、親切にしてもらってちょっと幸せかなって、最初は思っていた。
ところが、ガソリンスタンドで休憩して、再スタートしたそのとき、おじさんは車を道の端に寄せて止めた。エンジンが止まった。プロブレムだという。それからが大変だった。もうすでに日が沈んで、暗くなっている。ワイヤーを切る工具がないからと、ほかの車を止めようとするけど、なかなか止まってくれない。止まってくれた車の2台目でやっと工具があり、修理完了。ガソリンを補充して出発。私は、かなり疲れてきて、立っていられなくなってきた。そして、車はまだ直っていなかった。何度も止まっては直し、走ってはまた止まって直す。ああ、もう今日中には着かないかも・・・そう思い始めたころ、ガソリンを座席のところから供給するというやり方に切り替えた。それから車は調子よくなった。ドライバーともう1人一緒に乗ってたお兄ちゃんの機嫌は悪かったけど、こっちもかなり疲れていたし、ハルツームにたどり着けるなら何でもいい。疲れもピークに達して、意識もうろうとしたころ、やっとハルツームにたどり着いた。
石油タンクローリーが、爆発したらこわいなあとずっと思っていたけれど、故障も結構つらいものがある。この国に来て、「車が直りますように」と星空の下、何度祈ったことだろう。(映子)
久しぶりにメールを送ろうと、ハルツーム大学へ行った。大学は楽しいところだった。好奇心旺盛な学生たちが次々に声をかけてくる。私も負けじと図書館の場所を人に聞きまくった。キャンパスは広くて、どこに何があるのか全然わからないのだ。やっとのことで図書館にたどり着いたが、インターネットは、日本語が読めないのでできなかった。
図書館を出ると、3人の学生に出会った。日本人女性と結婚したいというアブドラ。アブドラと同時に質問を投げかけてくるアルファダ。穏やかに話を聞いているマルタダ。宗教の話は、彼らにとってとても興味があるらしく、「ブッダはどういう人だ?」なんて難しいことを聞いてくる。しかし、2人同時に別の質問をしてくるので、半分も答えられない。彼らの好奇心の強さには脱帽だ。アブドラは肌が黒いということにコンプレックスをもっているようで「黒い肌は、きれいじゃない。」というようなことを言う。私は少し悲しい気分になったので、こう言った。「心がきれいな人が、本当にきれいな人だと思う。」彼は、私の気持ちをわかってくれたようだった。戦争の話では、「アメリカをどう思う?」というようなことを聞かれた。それと、日本のテレビ番組は、「おしん」が有名らしく、彼女は今どうしてるんだ?と聞かれた。学生って楽しいな。また、キャンパスライフを送ってみたい。そんな気持ちにさせてくれた。楽しいひとときをありがとう。(映子)
昨夜、本田さんと大将がハルツームに来た。本田さんとは、カイロの宿でずーっと同じ部屋だった。大将とは、中東からエジプトまでいろんなところで出会っている。彼らは、私たちより1週間後のフェリーでスーダンに入ってきたので、もう追いつかれてしまったということになる。
そして、私たちより1週間早くスーダンに入ったココさんにもばったり再会。風邪を引いてダウンしていたらしい。
さらに夕方には、一緒にスーダンに入った直紀くんにも再会した。みんな同じようにつらい思いをして、やっとここまでたどり着いて再会できたので、とてもうれしかった。(映子)
スーダンの国立博物館へ行った。エジプトの博物館に比べると、しょぼいという感は否めないが、私はいくつか発見があったのでよかったと思う。まず、カワ遺跡を作ったのは、ツタンカーメンだったということ。唯一のヌビア人の王、タハルカ王の墓は、ヌリで見たピラミッドだということ。その他にも、カワ遺跡から出てきたエジプトの神々の小さなブロンズ像、ヌリやメロエからの出土品が多くて、苦労して回ってきたとこだけに、感慨深いものがあった。
博物館へ行くといつもそうであるように、あきちゃんは疲れていたけれど、青ナイルと白ナイルの合流地点まで、歩いていった。橋の上から、その合流地点は見える。しばし、世界一長いこの川に思いをはせた。川のそばは、風がとても気持ちいい。でもちょっと離れるととても暑い。スーダンの日差しはとても強いのだ。(映子)
朝6時に出ようなんていってたのに、「暗いからやめとこうぜ」ということになって、出発したのは8時。バス乗り場であるスークシャビーに着いたのは、9時ごろでしかもとても広くてごちゃごちゃしていて、どのバスに乗ったらいいのかわからない。そして、客引きがコミッションを取ろうとするので、なかなかうまくチケットが買えない。荷物を置いて、あきちゃんが探しに行くとすぐに見つかって、バスに乗り込む。約1時間後、バスは乗客でいっぱいになり、動き出した。が、すぐに止まる。どうやら故障しているらしい。そこに乗ったまま、さらに2時間くらい待った。故障を治している気配もない。全然だめだ。払い戻しに行こうとすると、しばらくして別のバスが来た。すぐに乗り換えることができたのだが、そのバスもやっぱり動かない。結局払い戻してもらって、違うバスを探す。しかし簡単にはいかなかった。いろんな人に聞きまくって、最後に行き着いたのは、一番最初に、コミッションをとる客引きに連れて行かれたところ。そこでも「バスはない」とか、「30分待て」とか、もう何を信じていいのかよくわからない。とりあえず待つことにした。
そこにバスが到着して、チケット売り場には人が殺到。でもなかなかチケットを売ってくれない。一緒に並んでいる(というより殺到している)人のうち、少しインテリっぽい、まじめ風の男がいた。彼は、俺が買ってきてやるから、ポンドを渡せと言ってきた。だけど、同じような客に頼んでも買えそうにないと思って渡さなかった。案の定、そこの係りだか、客引きだかよくわからないおやじが、私は外人だからか、優先してくれて買うことができた。するとそのインテリ男は、今度は「俺の分も買ってくれ。あの男に言ってくれ」と言い出す始末。私も買ってくれたおやじに言おうとしたけど、おやじもなんだか必死で取り合ってくれない。自分のことで精一杯だ。やっとのことで、自分たちのチケットをゲットすると、インテリ男を振り切って、バスに乗り込んだ。
バスは3時ごろ出発した。さっきのインテリ男も切符が買えて「俺はラッキーだ」とハッピーな笑顔になっていた。休憩のときに、そのインテリ男、アイモンはジュースをおごってくれた上に、「今日はうちに来い」と言ってくれた。さっきあんな仕打ちをした私に、なんて親切なんだろう。お金も行く当てもない私たちは、アイモンのお世話になることにした。
ゲダレフに着いたのは、夜10時ごろ。アイモンに連れられて、ガタゴト道を行き、30分くらいで到着。そこは、わらぶき屋根の家々が建ち並ぶ、感じのいい小さな村だった。(映子)
日の出とともに起きだすは、この国どこでも一緒らしい。私はしばらくダラダラしていたけれど、そのうち起きだした。今日は「ハッジ」という、イスラム教の巡礼月始まりのお祭りの日だ。軽く朝食を済ませると、いよいよ本日のメインイベント。いやがる子羊をおじいちゃんがナイフで一突き。シューという音とともに血が飛び散り、血が流れ出す。子羊は気絶したのか動かなくなった。じいちゃんの足に血が飛び散っている。血を少し洗って、子羊を裏へ連れて行く。そして、切り刻んでいるのだろう。見ていられない感じ。子羊はヒクッヒクッと動いているのだ。
日差しはだんだん強くなってきた。アイモンのお母さんと、従姉妹のハンナと3人でマーケットまで歩いて買い物に行った。野菜が豊富だ。トマト、きゅうり、レモン、玉ねぎ、なす、ジャガイモ、サツマイモ・・・にんにくは小ぶりだ。豆類はかなり充実している。トマトは小さくてつぶれたようなのが多い。煮込みに使うからだろう。
マーケットに行く途中の道では、いろんな人たちに会って挨拶したり、握手したりした。そして、帰りに友達のうちによって水を飲んだ。「(この家の水は)あんまりおいしくない」とハンナはこっそり私に言った。近所のハヤットさんの家へは、アイモンのお姉さんアマーニと二人で行った。そこでは、クッキーを出してもらった。
今日はハッジのホリデーで、日本で言うと正月みたいなものらしい。いろんな人が訪ねてくる。そして、ご飯を食べていったり、時には一緒に作ったりする。この国で(というよりこの家庭で、かもしれないが)ブレックファーストと呼ばれている食事はお昼12時ごろ。それまでお腹がすくので、ご飯を作っているとき、少しつまみ食いをする。スーダンの家庭料理はすばらしくおいしい。今までスーダンを旅行してきて、食べ物のバリエーションが少ないと嘆いていたが、家庭料理は外で食べる料理とは全然違っていた。
夕方、昨日のバスで一緒だったジェラールが訪ねてきた。それから、ジェラール宅へ行き、レモンジュースを飲む。昨日のバスであきちゃんの隣に座っていたジェラールは、日本語が少し話せる。ここにきて日本語を勉強しているスーダン人に初めて会ったのだった。マーケットにもいった。都市のマーケットはほとんど閉まっていてつまらない。最後にアイモンのおじさんちでお菓子と水をいただいた。そしてもう、すっかり夜だった。
ここに来てから、ずっと考えてたことがある。それは、お金のことだ。「アイモンとアイモンの家族にさんざんお世話になって、何にもなしでここを出るわけにはいかない。」とあきちゃんは言うけれど、どうなんだろう。私にはわからなかった。アマーニは、「私は病気で、手術するからお金をくれ」と言ってくるし。
家に帰ってから、アイモンにお金を渡した。アイモンは、「どうしてそんなことをするんだ。HAPPYじゃない。」と言った。私はそれを聞いたとき、お金を渡したことを後悔した。アイモンはそんなこと望んでいなかったんだ。ただ友達として、親切にしてくれただけなんだ。せっかくいい関係で、仲良くなれたと思っていたのに、アイモンたちとの間に、溝ができてしまったように感じた。なんだか悲しくなった。でも、彼はお母さんに渡してきたようだ。最後には「ありがとう」と言ってくれたけど・・・とても複雑な気分のまま眠りについた。
旅立ちの日が来た。昨日のこともあって、私の心は晴れない。朝の食事を済ませて、みんなでワイワイ話していると、出かけられない雰囲気。
アイモンに「出かけよう」と言ってみるけれど、「ブレックファーストの後で」と言われる。あきらめて日記を書く。すると、ハンナが、キスラを作り始めたので、ちょっとおもしろくて、写真を撮った。ほかのみんなも写真を撮ってほしがるので、何枚かとった。一番末っ子のイマッドはまだ3歳。私のことを見ると泣き出すくらいに怖がっている。外で遊ぶイマッドをおどかしたりして遊ぶことにも飽きてきたし、暑くなってきて、何もする気が起きなくなって、少し眠った。すると、四男のマダニーに起こされた。アイモンのほかに、男の子が5人もいるので、最初は誰が誰だかわからなかったけど、不思議なことに一日たつとわかるようになった。もちろん何回も名前を聞いたのだけれど。「日本では3人兄弟でも多いほうだよ」、という話をすると、「そのうち2人死んだらどうするの?」と聞かれる。そう簡単には死なないよ。と、日本的には思うけれど、そういうことがよくある国なんだろうな。ここは。
お昼くらいに食べる「ブレックファースト」。眠かったので食はあまり進まなかった。そして、食事の後、別れは突然やってきた。お母さんは、泣き出してしまった。「いつ戻ってくるの?」と何度も聞く。私も悲しくなってきた。またいつ会えるか、なんてわからないのだ。お母さんは、こんなにたくさんの息子と娘がいるけれど、一人一人に同じくらいたくさんの愛情を注いでいる。そして、私たちにも同じように接してくれている気がした。
車に乗るところまで、兄弟みんな見送りに来てくれた。「お金をくれ」と言われていやな思いもしたけれど、アマーニと別れるのも寂しい。別れ際には、アマーニも涙ぐんでいた。私は、早く病気がよくなるようにと心から思った。アマーニが病気だということが嘘でも別にいいと思った。お金を渡したこともこれでよかったと思えるようになった。いつかまた、アラビア語を覚えてここに戻ってきたい!!そう思った。
ゲダレフの街に着くと、あきちゃんとアイモンは、両替のために奔走した。2人の間に何があったのか、詳しくは知らないけれど、アイモンが何だかごねていた。私は、きっと別れが寂しいのだろうと思った。
ガラバート行きのローリーは夕方5時ごろ出た。国境は越えられるのかな?と思ってたら、やっぱりローリーは国境の手前の村で止まった。そして私たちは、ローリーで、つまりはトラックの荷台で寝ることになった。月明かりがまぶしくて、私たちはしばらく眠れなかった。(映子)