ヨルダンと言えば、死海とペトラ。まさにこれに尽きる。一度訪れることを強くお薦めする。そして聖地エルサレム。ここは、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の聖地。ホーリープレイス好きの僕にとっては、絶対ハズせない場所。物騒なNEWSばかり耳にするイスラエル。僕らはクリスチャンでもないのにクリスマスイヴにイエス誕生の地ベツレヘムを目指す。
シリアとヨルダンの国境で僕たちがひょうに降られているなんて誰が想像できるだろう。
ボスラから僕たちはヨルダンのイルビットという町へ向かう。その間ミニバスとタクシー、煩わしい乗り換えを4回もしなければいけない。乗り換えのたびにどのバスに乗ればいいのか人に聞いて、しかも、中東のバスは定員いっぱいになるまで待つ。定刻という言葉はアラブにはない。あるのは「シュワイヤ(もう少し待て)」だけだ。
国境を越えるタクシーも乗合タクシーなので、4人集まるまで出発しない。さらにひどいことにミニバスには天井に荷物置き場がないので、狭い車内で大きなバックパック(二人とも70リットルくらいの大きなザックと30リットルくらいのサブザックをもっている)をヒザにかかえながらの移動となる。(これがけっこう大変)さらに、国境ではひょうに打たれ・・・ヨルダンのイルビットに着いたときにはすでにボロボロ状態だった。ごはんだって、朝りんごを1個食べただけだ。
消耗して越境したのにヨルダンに入って変わったのは通貨ぐらい。シリアもヨルダンも同じアラブ人だからしかたないけど、国境越えたのだからもうちょっと変化があってほしいもんだと思う。
(昭浩)
最近は、積極的に観光をしている。もともとあまり好きでなかった遺跡めぐりも1年以上続けているからだいぶ慣れてきた。昔より興味をもって遺跡たちを見れるようになった。たくさんまわればまわるほど様々な遺跡の知識や見た体験のファイルが自分のなかに蓄積されていくため、だんだんおもしろく感じてくるのだろう。
アジュルン城はシリアの城に比べあまり大きなものではなかった。そこから見下ろせるオリーブの生える緑の地がこのあたりの土地が比較的豊かであると感じさせた。
ジェラッシュは、ペトラに次ぐヨルダン第2の見所といわれるだけあって、その大きく広がる遺跡、遠くまで立っている列柱などその規模の大きさに驚かされる。僕はローマ都市遺跡のなかでローマ式の柱が並ぶストリートが特に好きなのである。だからフォーラムといわれる柱に囲まれた広場からずっと先まで伸びるジェラシュの列柱通りはとても気にいっている。ジェラシュの大きな都市の跡の広がりが写真などではとうてい伝わらないのが残念な限りだ。
ジェラシュのローマ劇場にいたポリスのダニエルはやたらサービス精神旺盛なポリスだった。ガイドのようにいろんな解説をしてくれたり、大きな石の柱を指で動かすちょっとしたデモンストレーションをしてくれたり…そうダニエルだけでなく、チケット売りのおじさんなんかもとても愛想がよかった。なんか気持ち悪い。しかも、チケット代は50%オフ。最近情勢が悪いため、観光客が減って、ヨルダン政府から各観光地にチケット代を半額にしてさらに係員にもいいサービスを徹底するよう命令が出たのではないか?そんなふうに疑ってしまう。
驚いたのは、ジェラッシュの遺跡の中にある博物館で記名するところにイスラエル国籍の人の記名があったことだ。ヨルダンにイスラエル人が入国できることは知っていたが、本当に来ているとはびっくりである。ヨルダン人、パレスチナ出身の人なんかが、観光に訪れたイスラエル人が相手でも「ウエルカム!」というのであろうか?(昭浩)
ォーラム。ここから柱の並ぶストーリートが伸びる。
中東のローマ遺跡は、石を注意深くチェックしながらまわるといいよ。
誰かがそう言っていた。そんなこといわれても石のことよくわからないから石をチェックしてもなあ…
たぶん、ローマ遺跡の作られている石をチェックしている人にとっては、ウム・カイスは興味深い遺跡だろう。この遺跡の教会のテラスには白と黒の二種類の柱が立っている。片方が玄武岩で片方が大理石。ふつうこういうミックスというのはお目にかからない。
僕は石よりもそこから見下ろす景色のほうが興味あった。イスラエル領のガラリア湖。あのイエスが湖の上を歩いたという伝説の残るあの湖だ。北の方を見れば、雪をかぶったゴラン高原の山々が見える。そんな景色を見て、中東の真ん中にいるのを強く感じてしまった。(昭浩)
アムラ城、あれは城じゃねぇだろう?ありゃハンマーム(トルコ式サウナ風呂)じゃないのか?城のつもりで行ったら、あんまりの小ささにびっくり。
どうやらここは隊商宿として使われていたらしいが、アラブの偉い人たちがお忍びで酒を飲んだり、耽美にふけっていたりしたところという説もある。だから、イスラムの遺跡なのに裸婦像が描かれていたりするのだそうだ。そうここは壁画で有名なのだ。壁画があるからユネスコ世界遺産になったようなものだ。
あった。確かに裸の絵だ。でもこの女性ちょっと太めだなあ。特に下半身。アラブの女性は太めの人が多い。それは昔からなのだろう。裸だけじゃなく、動物の絵や12星座を表した絵などもあった。仏教壁画ともちがう、トルコの教会のフレスコ画とも違う、オスマン朝のタッチに少し似ているかな?独特な雰囲気を持っている。イスラムの世界には偶像崇拝というものがない。だから、仏教やキリスト教のような壁画というものは極端に少なくなる。だから価値があるのだろう。
しかし、このクソ暑い砂漠の真ん中で蒸し風呂は必要だったのだろうか?(昭浩)
セルビス(乗合タクシー)が荷物代を取るのはどうも納得しづらいところがある。大きいバックパックならわかる。しかし、今日の荷物はコンパクトにまとめた小さいディパック。それくらい大目にみろよ、と思うのだが、必ず荷物代を取られる。セルビスに乗って、1人0.1ヨルダンディナール(18円)を渡したところ、荷物代を払えと言ってきた。「えっ何のこと?僕アラビア語も英語もわかりましぇーん。」みたいなジェスチャーを見せてとぼけていたら、一緒に乗っていた助手席のヨルダン人がかわりに払ってくれた。もちろん僕はそのヨルダン人にお金を渡そうとするが彼は受け取らない。セルビスで荷物代を払うのはこの国ではあたりまえのことなのかもしれない。僕は外国人だけに適用される特別ルールだと疑ってとぼけていたのだけど、結果的に悪いことしちゃった。
しかし、この荷物代、本当に払うのが普通のところと、たんに料金を吊り上げるための口実として使っているところ、国によって違うのでなかなか判断が難しいところなのである。(昭浩)
インディジョーンズが好きだ。パート1〜パート3までそれぞれ3回以上見ている。僕が大学3年生の時に封切られたインディジョーンズ3・最後の聖戦で登場したペトラ。そのときからいつかペトラには行こうと心に決めていた。そして、今日いよいよその思いが成就する日が来たのだ。
入場ゲートからしばらく下り坂がつづく。そして岩山の袂から、シークと呼ばれるもともと細い水路だったところを通っていくことになる。このシークがなかなかすばらしい演出をしてくれる。自動車一台やっと入れるかどうかの幅しかない道の両側は高さ50m以上はあろうかと思われる岩の壁。この岩壁にはさまれた薄暗く狭い道を40分程歩く。隠された幻の都に向かっているようでドキドキしてしまう。
・・・シークの隙間から徐々に見えてきた。ペトラのエルハズネである。インディジョーンズで登場した、まさにその遺跡である。映画と同じだ。同じだけどやっぱり実物のほうがいい。岩に彫られた宮殿のような美しい姿、一時間くらい見とれてしまった。朝日があたると、エルハズネは薔薇色に染まってまた美しい。
ペトラは、エルハズネだけではない。岩山に囲まれた都市遺跡には、ローマ劇場があったり、柱の並ぶ通りや神殿、たくさんの墓(といっても宮殿のよう)、一番奥の山の上にも美しく彫り上げられた修道院があったりと見所がいっぱい。今日丸一日、トータル22キロも歩いてしまった。心身ともに燃え尽きた一日だった。(昭浩)
ヨルダンの国王について考える前に、少し歴史的背景のウンチクをたれる。
イスラエル建国後、ヨルダンにはたくさんのパレスチナ難民が押し寄せる(その数は、当時のヨルダンの人口より多い)。その後ヨルダンは、一時期今のヨルダン川西岸(ウエストバンク)を自分の国として統合した。当時のヨルダンの国王(今の国王のおじいさん)がエルサレムにある岩のドームに巡礼に行ったときに、ヨルダン統合をよく思わなかったパレスチナ人によって暗殺されている。
ヨルダン人もパレスチナ人も同じアラブ人である。だったら、同じアラブであるヨルダンに統合されてもいいじゃないか、と僕は思った。しかし、実際のところ、パレスチナ人はパレスチナ人としてのアイデンティティがあるのだろう。
そして、今のヨルダンは、パレスチナ人が人口の半分以上を占める。どこからがパレスチナ人でどこからヨルダン人なのかの線引きは難しいと思うのだが、とにかくそうなのだ(なぜ線引が難しいかといえば、おじいさんやお父さんはパレスチナ難民だったけど、自分はヨルダン人としてヨルダンのパスポートをもっているという2世3世が増えてきているから。)
。
ヨルダンがもし選挙で大統領を選ぶような国だったら、パレスチナ人が大統領となって、パレチナ国家になっていたかもしれない。パレスチナ人がクーデターを起こしたら成功するんじゃないかって思えてしまうそんな環境の中、ヨルダンの国王はよくこの国を治めているものだと、とても感心する。
もう少しこのあたりのことを知りたいのだが、なにせ日本語の本が読めない上、インターネットでゆっくり腰を落ち着けて調べるゆとりもない今環境ではなかなか難しい。それは日本に帰ってからの楽しみとしてとっておくことにしよう。(昭浩)
僕はドキドキしている。今イスラエルに向かっているからだ。
自爆テロが怖くてドキドキしているのではない。パスポートのハンコにドキドキしているのだ。パスポートにイスラエルのスタンプを押されやしないだろうか?それが心配のタネ。イスラエルのスタンプがあるとイスラム国であるスーダンに入国できない。
CNNニュースでやっていたとおり、入国チェックが厳しいらしく、キングフセイン橋で1時間以上またされる。イスラエル側の国境にはイスラエル人の係員がたくさんいた。兵隊の人たちだろうか。防弾チョッキを着ている。僕たちの持っていた荷物はすぐに係員によって持っていかれた。僕たちは金属探知機を通される。通る前に上着を脱がされ、マネーベルトまでとらされた。映子が金属探知機を通るとピー!となって、靴まで脱がされていた。イスラエルのパスポートコントロールでは意地の悪そうな若いお姉ちゃんが高圧的に質問してくる。
「どのくらいイスラエルにいるつもりだ?どこに泊まるのか?いくら持っているのだ?仕事は何している?今は休みなのか?」
そしてさらに同じような質問される。
「いつヨルダンに戻るんだ?」
「12月26日(さっき1週間イスラエルにいると答えたのにまだわからねーのか)」
「何日間イスラエルにいるのだ?」
「だから1週間だっつーの」
映子にいたってはもっとひどい。
「No Stamp Please」(スタンプを押さないで)」
と2回も言っているのに、こんなことを言われたそうだ。
「DO YOU WANT ME TO STANP ON YOUR PASSPORT ?( パスポートにスタンプを押して欲しいか)」
ストレスが溜まる。実際、パスポートにスタンプを押された日本人ツーリストに何人かあったし、ひどい時には入国させてくれないうえに、“DENIED(入国拒否)”のスタンプを押されたツーリストもいた。最悪である。イスラエルに入国できないばかりか、それじゃアラブ諸国も入国できない。
入国早々これだから、イスラエルはむちゃくちゃ印象が悪い。
乗合タクシーに乗って、エルサレムの旧市街へ。「アラブじゃんここ」はじめに思ったことだ。もっとユダヤ人ばかりかと思っていたよ。そこで僕の頭の中は混乱する。いったい誰がパレスチナ人で誰がユダヤ人でどういう人のことをイスラエル人というのだろうか?ここに住んでいるパレスチナ人の国籍はどこになるのだろう?イスラエル国籍のパレスチナ人っているのだろうか?もしいたらそういう人には選挙権があるのだろうか?税金は、パレスチナ人からも徴収しているのだろうか?まったくの謎だ。
エルサレムの旧市街は大きなスークのようだった。車は通れない。商店街がひしめきあっていて、ときたま教会やら、イエスゆかりの場所に出会う。そして、歩いていると、周りの雰囲気が急に変わるのである。イスラム地区にはやはりアラブ系の人ばかりなのだが、ユダヤ地区にはいると、黒い帽子に黒いマントのユダヤ衣装の人しか見かけなくなる。キリスト教地区は西欧人ぽい感じの人が増える。
いろんな人が同居して、いろんな宗教が同居している。まさにそれがエルサレムだった。(昭浩&映子)
激しい雨の中、アラファト議長の家に行った。トルコのアンタルヤで出会って、ここエルサレムで再会した“帝王”も誘って3人で出かけた。
ウエストバンクへのチェックポストを越え、パレスチナ人の町ラマンラに入る。冷たい雨がしきりに降ってくる。ラマンラの町自体は、普通のアラブの町といった様子。ここでもよくインティファーダ(イスラエルに対するパレスチナ人の抗議運動)があって、イスラエル軍と衝突するらしい。ラマンラの町の中心から少し離れたところにアラファト議長の家はあった。家のまわりは、イスラエル軍にめちゃくちゃに壊されたまま残っている。アラファト議長の家のまわりだけは、マスメディアを意識してか、新しく立て直したりしないのだそうだ。
「アラファトに会いたい。」
「プレジデント アラファトのことか?」
(おおっ アラファトはプレジデントだったのか!と一同驚く)
「会えるかどうかわからない。ちょっと待て」
アラビア語しかはなせない守衛はそんな感じのことを言った。
守衛の小屋には写真の束があり、それらはすべてパレスチナ一般市民とアラファト議長との2ショット記念写真だった。
(おおっ、これはイケルかも?)
しばらくそこで待っていると今度は英語の話せる兵士がやってきて、プレジデントと会うのは難しいという。しかし、毎週金曜日の12時から記者会見があるはずだ。
「プレスコンファレンスないの?」
と聞くとわりとおおきなホールのようなところに連れて行かれた。そこにはプレスの人たちがいっぱいいて、僕たちはどう見ても浮いていた。みんな記者らしい黒や茶、灰色系の地味な服を着て、カメラマンや撮影クルーと同行しているのに、僕たちといったら、僕が緑で映子が青、“帝王”は黄、全身派手な蛍光色のカッパ。小さなデジカメ持って、ふてぶてしく記者会見会場の一番前の席に座っているどう見ても怪しい3人。
「君たちはジャーナリストか?」
「NO」
「君たちここにいても何もないよ。プレジデントに会いたいならアポイントをとってから来なさい。」
そう言われても、なんとなく引き下がれず、12時までその会場の隅っこに移動して待っていた。12時になると、ジャーナリストたちは、バタバタとアラファト議長のオフィスに入っていった。私たちはむなしくその場を去って、冷たい雨の中エルサレムへ戻ったのだった。
エルサレムに戻った僕たちは、旧市街を観光することにした。ヴィアドロローサ、これはイエスが十字架を背負わされてから処刑され昇天するまでの道のりで、毎週金曜日にはこのヴィアドロローサにそってパレードが行なわれる。しかし、今日は雨で中止。しかたなく、自分たちだけでまわる。イエスが十字架背負ったところや、イエスが閉じ込められた洞窟に入り、イエスがつまづいたところ、聖母マリアが十字架を背負ったイエスを見送るところなどを見て、最後にはゴルゴダの丘があったといわれる聖墳墓教会へとつづく。
聖墳墓教会には当然のことながら敬虔なクリスチャンたちが、祈っていたり、泣いたり、いろんなところに口づけしたりしていて、3色の派手な雨合羽姿の僕たちはどうみても場違い。だけど、十字架の立っていた岩をさわったり、棺をさわったり、とやや気後れしながらもやることはやった。クリスチャンじゃないので、涙が出るほどの感動はないが、実際にエルサレムの地のイエスゆかりの地を訪れることによって、イエスにまつわるいろんな逸話が少しだけリアルなものに変わったと思う。このエルサレム、少し歩けばイエスのゆかりの場所があちこちにあるので、歩いていてなんか楽しい。(昭浩)
エルサレムはキリスト教の聖地でもあるが、イスラム教の聖地でもある。エルサレム旧市街にある岩のドームと呼ばれるモスクがそうだ。ここは預言者ムハンマドが昇天したところである。しかし、イスラム教徒でない僕たちはなかに入れない。どうしてかは知らないが2年程前からイスラム教徒以外は入れなくなった。それでも中に入ろうと試みてみたが、イスラエル兵に止められ、結局断念。イスラム教徒に入るなと言われれば納得できるが、なぜユダヤ人であるイスラエル兵に入場拒否されなければならないのだ?
オリーブ山に登って、そこから岩のドームを見て満足するしかないのか・・・
オリーブ山にもいくつかイエスにまつわる教会がある。そのなかで一番気に入っているのが「主の泣かれた教会」。ここの祭壇の向こうはガラス張りになっていて、ガラスの向こうに岩のドームが見えるのだ。イスラム教の聖地である金色に輝くドーム、それを借景した教会。エルサレムならではのシーンだと思った。(昭浩)
朝、晴れてる!と思って勇んでオリーブ山へと出かけた。今日も帝王(昨日の日記参照)と3人で出発。しかし、オリーブ山が見えてきたときに雨が降り出した。そして、寒い・・・。
最初に訪れた「マリアの墓教会」では、祈っている人、儀式をしている人たちがいた。下っ端みたいな男が、出て行けみたいな身振りをして、あきちゃんと帝王はすぐに引き返そうとした。でも、偉い人が、「Welcome!」と言ってくれたので、入れた。入ってみると、2つ儀式をやっていて、1つが終わるとマリアの棺のところまで行けた。教会の中には、たくさんの絵があった。きれいだった。神聖な感じがした。
万国民の教会、主の泣かれた教会、主の祈りの教会、そして昇天教会へ行った。主の泣かれた教会は、岩のドームが見えて景色がいいうえに、古いモザイクが残っているのもよかった。昇天教会には、イエスが昇天するときに残したという、足跡があった。しかし、そこを管理しているムスリムのおやじは、いい人か悪い人かわからなかった。それを見るのに、1人5シェケル払わされたからだ。
シオンの丘にあるマリア永眠教会は、新しく、天井や壁のモザイクがきれいな教会だった。その下にある、洞窟みたいなことろも面白かった。
私が個人的に面白いと思ったのは、ダビデ王の墓だ。あきちゃんと帝王は、ユダヤ教徒がかぶる、キップと呼ばれる帽子を頭に乗せ、私は、スカーフをかぶる。それが楽しかった。お墓で楽しいなんてちょっと不謹慎かもしれない。中ではユダヤ教徒が祈っていた。
それから、最後の晩餐の部屋と、鶏鳴教会へ行った。鶏鳴教会では、聖書に載っている出来事の説明があちこちにあって楽しい。ペトロがイエスを知らないとしらばっくれているシーンがあった。(映子)
ヤドヴェシム、ユダヤのホロコースト博物館へ行った。ユダヤ人迫害の歴史がパネルになって展示されていた。僕が気になったのは、その博物館で展示されているものではなくイスラエル人兵士だ。若い兵士の集団がいくつかのグループに分かれて来ていた。たぶんなりたての兵士のための新人研修のようなものなのだろう。全員機関銃を肩から下げている。兵士で混みあっている中を、ちょっと失礼、といって人ごみをかきわけくぐりぬけようとすると、銃身や銃口がやたらと自分の体に触れてしまう。あんまり気持ちいいものではない。
そして、博物館を出たあとの兵士たちの表情だ。やたらみんなやる気になっている。モチベーションがあがっているのがわかる。
「俺たちがやらなきゃ、自分たちがやられる。俺たちがやらなきゃ、展示されているパネルのような悲惨な目に自分たちがあう。」
そんな表情だ。
彼ら若い兵士のエネルギーは決して平和に向かうベクトルではないように感じられた。(昭浩)
僕たちの泊まっている宿には、若きジャーナリストの卵やボランディアの人たちがたくさん集まっている。ボランティアとはパレスチナ解放を求める団体のことである。彼らは、インティファーダのある場所に行って、その現状をビデオに収めたり、肉の壁となって、イスラエル軍の攻撃をまさに体をはって防ぐという。彼らに写真やビデオを見せてもらった。たまにニュースでみる、戦車に石ころを投げている様子やイスラエル軍の威嚇射撃、イスラエル軍の戦車などがそこには映っていた。イスラエル軍とパレスチナとの衝突はウエストバンクのいたるところでやっていて、しょっちゅう死人が出ている。ガザ地区では毎晩のように銃撃戦をやっている、と若きジャーナリストは言っていた。
ニュースなどの映像でインティファーダの様子を見てもリアリティがまったく感じられないのだけど、ビデオを取ってきた人から直接話を聞きながらその映像を見るとだいぶ現実に近いことのように感じられる。このあたりの抱える問題は数多くあるが、イスラエルに来て、これらの見え方が変わったことだけは事実である。(昭浩)
朝、嘆きの壁での成人式を見に行った。ユダヤ人のいつもと違うコスチュームが面白い。頭に黒い小さくて四角い機械みたいな装置を着ける。同じように腕にも着けていた。そして、成人式を迎える少年が、おしっこ行きたいみたいに揺れながらお経を読む。そして、お経を散々読んだ後に、楽しそうに手をたたきながら歌っていた。最後にあめを投げて、成人式は終わり、結構長い。成人式といってもまだ13歳。全然子供だ。これから、兵役とかいったりするのかな。母親なのか、私の隣で、泣いているおばさんがいた。うれしいのか、悲しいのかわからない。
ユダヤ人とは、不幸な民族だと思う。一人一人はいい人が多いのに、なぜか一部の悪い人ばかりがクローズアップされる。ダビデの塔で歴史を見ながら、ユダヤ人もアラブ人も、元は同じじゃないかと思った。元々そこに住んでいて、ユダヤ教の伝統を守っている人が、ユダヤ人と呼ばれ、イスラム教に改宗した人がアラブ人と呼ばれるんじゃないだろうか。私にとっては、見た目で区別をつけるのが難しい。個人のアイデンティティーの問題じゃないかな。
ダビデの塔は、オリジナルなものはなくて、すべて後から作ったもの。歴史の説明はわかりやすいが、イスラエル側なので、一方的な感じがする。パレスチナ人が見たらどう思うだろう。来ているのは、ユダヤ人の子供たち。昨日ヤドヴェシェムに来ていた兵士を見た時と同じような複雑な気持ちになった。(映子)
ユダヤ人には、アレキサンダーという名前が多い。昔、アレキサンダー大王が来たとき、自分の像を作ろうとしたが、だめだといわれた。(ユダヤ教では、刻んだ像を作ってはいけないからだと思われる) そのかわりに、長男にはアレキサンダーという名前をつけるように決めたらしい。
僕はクリスチャンではないが、人並みにクリスマスは祝う。旅に出るまえの何年かは毎年カトリックの教会に行って、クリスマスミサに参加していた。クリスマスイヴに教会で聖歌を歌っているだけでも気分がいいものである。
そして今年のクリスマスはベツレヘムだ。自爆テロや乱射事件のニュースを聞くたびにブルーな気持ちになった。なんせベツレヘムはパレスチナ自治区のなかにあって、よく危険度4が外務省から出ていた場所だからだ。今年の11月イスラエル軍が聖誕教会を包囲してしまったときは、いよいよダメか、と絶望的な気持ちになったものだ。
それだけに聖誕教会のなかにはいったときの感動はひとしおであった。ぼろい建物、イエスが生まれた馬小屋の雰囲気のままつくられた教会。クリスマスにイエスの生まれた場所に来ることができた。多分こんなチャンス二度と訪れないだろう。しかも、トルコのアンタルヤで知り合った友達とエルサレムで待ち合わせ、約束通り一緒に来れた。
僕たちはクリスチャンではないので聖誕教会のクリスマスミサには参加できなかったが、
同じベツレヘムにあるプロテスタントの教会で、いろんな国々から来たクリスチャンたちと共に聖歌を歌い、クリスマスを祝った。僕は今年のクリスマスを一生忘れないだろう。(昭浩)
昨晩は遅くまで盛り上がり、もうすっかりエルサレムもクリスマスも堪能したので、今日はアンマンに戻ることにした。僕はクリスマスイヴの盛り上がりは好きなのだけど、クリスマス当日の、前夜に比べテンションが下がって少し落ち着いた雰囲気があまり好きではないのだ。アンマンはイスラエルに行く前と相変わらずであった。同じテンションのままだった。だから少しホッした。食べ物もイスラエル比べ格段に安いので、そこでもホッとする。豊かな食生活にもどった。イスラエルは寒く雨が多かったが、それはここアンマンも同じであった。はやくこの寒くてジメジメしたところから抜け出したい。それが今の願いである。(昭浩)
イスラエル出国は、入国とは違って驚くほどスムーズだった。出国税(金)さえ払えば用なしか、という感じ。こうして、イスラエルでの1週間は、夢のように一瞬にして終わってしまった。アラファト議長に会えなかったり、聖誕教会のミサに行けなかったり、失敗も多かった。けれど、そこに行って、そこの空気を少しでも感じることができた。本当に行ってよかった。(映子)
小さい頃、誰もが世界の七不思議の本を読んだにちがいない。泳げない人でも勝手に体が浮いてしまう死海について、その本のなかに書かれていたはずだ。僕は、水の上に浮かんで本を読んでいる人のイラストを見ただけでワクワクしたものだ。
それから年月が経ち、ワクワクした頃の気持ちもどこかへ置いてきてしまって、死海は塩分濃度が濃いから浮くのは当たり前、なんて夢のない知識ばかり増えて、子供の頃ほどの死海への強いパッションはなくなってしまっていた。「せっかくヨルダンに来たのだから一応浮いておかないとダメでしょう。」そんなノリで死海へと繰り出しのだった。
ところが、浮いてみるとこれがおもしろいのなんのって、なんで浮くんだろう、えーっ、塩分の濃度が高いからってやっぱり人が水に浮くのはおかしいよ、そんな感じで頭がパニックなるくらい楽しい。
はじめは後ろ向きにゆっくりと死海の中に入っていく、ひざ以上の深さになったら、ゆっくり体を後ろにあずける。
ぷかん
おおっ浮いた。
この時の感動は忘れられない。
それからしばらく仰向けになったり、クロールしたり、いろんなことを試してみる。平泳ぎは難しい。なぜなら、足が水から浮いてしまって、うまくドルフィンキックができないからだ。激しい動きは禁物だ。死海の水が目に入ったら大変なことになる。なめてみるとそれは塩辛いというよりは、痛みを感じる。
死海には、死海名物泥パックというものがあって、それも試してみた。死海の岸辺にある泥を持ってきて、体に塗りたくる、20分ほど待ってパックのようにパリパリに乾いてきたら、死海に流れ込んでいる、川の水で洗い流す。肌がすべすべになっているのが顕著にわかる。おみやげに持って帰りたいくらいだ。
その後、近くで沸いている温泉(これがまた日本人の肌に合う40度くらいのちゃんとした温泉)で体を温め、チャーターしたタクシードライバーのカリードの故郷である死海の近くにあるベドウィンキャンプに連れて行ってもらった。
アラビックコーヒーやチャイを飲みながら、カリードのお父さんの手作りの楽器によるベドウィン音楽を聞きながら、少しホームステイ気分を味あわせてもらった。カリードはここにステイしてもいいよ、と言ってくれた。もう少し暖かい季節で、時間に余裕があったら、ベドウィンキャンプでホームステイもいいかもしれない。(昭浩)
アンマンにはイラク人の経営する食堂が何軒かある。そのなかでもイラクヤング食堂は一番のお気に入りだ。ヤング食堂というわりには、おじさんばかり。従業員はもちろんイラク人。客もイラク人が多い。イラク人は親日家が多く、僕たちが行くと大歓迎の嵐である。トマトの煮込みや焼きトマトをサービスで出してくれるどころか、皿が空くとこちらが断るまでおかわりを出し続けるというサービスぶり。いつも現れるテンションの高いおっちゃんは、次から次へとチャイを僕たちにサービスしてくれる。
日本はアメリカに空爆された国としてイラク人は認識している。広島と長崎に原爆を落とされた国として同情しているようだ。日本の首相はアメリカのイラク空爆支持を表明している。すなわち僕たちも含む日本人がイラク空爆を支持しているとも言える。それをここにいるイラク人は知っているのだろうか?気持ちは複雑である。
愛嬌があって、人情味があって、下町の食堂のような温かさのあるイラクヤング食堂とそこにいるイラク人たち。僕はここアンマンにいるイラク人しか知らないが、イラク人に対して大変良い印象を持ったということだけは確かである。(昭浩)
マダバとネボ山へ行った。セルビスで、マダバのバスターミナルまではスムーズだったが、ネボ山行きのバスがない。セルビスで途中の村まで行くが、そこから歩くのは、距離がわからないのでつらそうだ。タクシーで行くことにした。が、ドライバーでないおやじが、茶々を入れてくる。しつこくていやになる。結局、あるおっちゃんとの交渉が成立して、ネボ山まで行けることになった。しかし、それはタクシーではなく、おっちゃんの自家用車だった。
ネボ山の教会は、いい雰囲気だけれど、なぜかトタン屋根。モザイクは結構残っていた。ステンドグラスもきれい。ここはモーゼ終焉の地。モーゼがイスラエルに向かっていくヘブライ人たちを見送ったといわれるところにたって、遠くにイスラエルとヨルダン川、うっすらと死海らしきものを見るのは、感慨深いものがあった。
帰りは、マダバまで歩いていこうと思っていたら、親切なおじさんの車が止まってくれて、乗せてくれた。
マダバの町のところどころにモザイク画が残っている。本当はいろんなモザイクを見て回りたかった。だけど、どれもお金を払わないと見れない。しかも、そこを管理している係員の態度が気に食わない。Stジョージ教会にある有名な6世紀のパレスチナの地図のモザイクは確かによかったけど、お土産用の地図やハガキはバカ高いし、おやじの態度も高圧的。12使徒教会の入り口にいる男2人もえらそうにしている。インフォメーション近くのモザイクもたいしたことないのに、その辺のおやじが金を集める。なんだか腐った町だ。と、すっかり気分を害して帰った。(映子)
砂漠をひた走り岩山の間を抜けると紅海が広がっていた。
雨ばかりだったアンマンやエルサレムをようやく脱出し、青空の下輝く海を見て、中東の旅ももうすぐ終わりなんだと感じた。シリアに入ってから40日間はあっという間であった。その間5回も越境しているのだからあわただしいのも無理はない。
紅海沿いにあるアカバの町は垢抜けていた。田舎の港町くらいにしか思っていなかった僕は意外に感じる。外国製品がやたら目立つ。キャノン、ソニー、シチズン、中国製の布団や毛布なんかのお店もある。人々もみんな英語を上手に話す。
アカバは、ヨルダンでもっとも外国の影響を受ける場所だから当たり前なのかもしれない。ヨルダン唯一の港であり、イスラエル、サウジサラビア、エジプトの国境がすぐそばなのだ。僕たちはここアカバで、ヨルダンではじめてのビールを飲んだ。(昭浩)
それは、昨日の出来事にさかのぼる。
私たちは、二人のシンガポーリアンとタクシーをシェアして、アンマンのワヘダットバスターミナルまで行った。アカバ行きのバスは、すぐにあった。客引きみたいな男と交渉して、1人3JD(530円)になった。ところが、バスのオーナーは、3.5JD(620円)と言って譲らない。全然関係のない乗客のお医者さんも「みんな3.5JDだよ」と言ってくるので、あきちゃんは、キレてしまった。悪いのは、いい加減なあの客引きの男なのに、罪もない親切なお医者さんに、「None
of your business. Go away.(お前には関係ねえ!!あっちへ行け!)」 と言っている。ひどいよ、あきちゃん、あんまりだよ。使うところを間違ってる。そう思った。結局、3.5JD
払って、丸く収まったけど、「Very bad people.」 とあきちゃんはつぶやき、手は怒りに震えていた。
次の日である今日、あきちゃんは変になってしまった。タクシーに乗って、港に行こうとするときも、全然交渉しようとしないし、私が交渉して、「どう?」と聞いても、どうでもいいといった態度。とてもむかついた。昨日の自分を悪いと思ってないばかりか、この態度。この人とこのままずっと旅していくことは無理だ。そう思った。考え方が違う。わかりあえない。私がそれから口をきかず、ずっと無視して歩くようになると、ちょっとは反省したのか、「ごめんよ」と謝ってきた。しかし、だ。その後の言葉は、「昨日は必死に交渉したのに、味方がいなかった。」と言う。そうじゃないだろ、と思う。自分が罪もないお医者さんに浴びせた言葉をなんとも思っていないうえに、今日私に対してとった態度もひどい。私は、このことを忘れないでいようと思う。(映子)