7月29日〜8月7日
その時のことは、とてもよく覚えています。昼過ぎ、ゴルムドまであと100キロというところを過ぎたあたりだったと思います。私たちは、もうすぐこの長いバスの旅が終わると、待ち遠しい気持ちでした。私は少しおなかが空いたので桃を食べ、それでも足りず、映子からチョコチップクッキーを渡してもらい、それをポリポリと食べていました。このチョコチップクッキーも最後の1枚だなあ、と思いながら食べていました。
その時、バスの前方のほうで「ああ!」という悲鳴のような叫び声があがりました。前を見るとトラックがすぐ目の前に。私は「ぶつかる」と思って、とっさにベッドの枠のバーを握って構えました。そのすぐ後に衝撃がやってきて、前方を見ると窓ガラスにひびが入り割れる瞬間が見えました。それは、映画とかでよくある、フロントガラスが銃弾によって割れる、あのシーンとまったく同じ光景でした。トラックにぶつかった後トラックは左前方にはじかれ、それでもまだ止まりきれなかったバスは、トラックの前にいたタクシーにもぶつかりました。タクシーの後部がグシャリとつぶれたのが見えました。2度にわたってきた衝撃は思ったほどたいしたことがありませんでした。
私は、助かった、とその時安堵したのを覚えています。つぶれたタクシーに乗っていた人は大丈夫だろうか、とそんな心配もしていました。しかし、その直後、バスが少しずつ傾きはじめたのです。とてもゆっくりと確実に。私はバスが倒れるというのがすぐにわかりました。このあたりでは、砂漠のうえに土を盛り上げそこに道を造っているので、バスは道路の左右は少し急な斜面になっています。そこを転がるように横転したのです。恐怖を感じる余裕もなく、バスが倒れるのに備えました。進行方向に向かって右の窓側にいた映子のほうが真下になるように倒れていったので、映子のことが心配でした。倒れた瞬間、軽い衝撃のとき一瞬記憶がとび、私はバスの天井に頭をたたきつけられました。痛ってぇ、と思いましたが、とりあえず生きていました。バスが今どのような状況になっているのか、まったく認識できません。
「えいのじちゃん、大丈夫?」
映子を呼びましたが、返事はありません。
「えいのじちゃん、大丈夫?」
少し遅れて返事がありました。
「大丈夫。びっくりするぐらい大丈夫。」
誰かが「こっちだ」と出口を教えてくれました。
たまたま自分の立っていた近くにコンピューターの入ったカバンがあったのでそれを持って、靴も履かずに外に出ました。私は、映画やテレビでバスや車が横転した後、爆発するシーンをよく見ていたので、慌ててバスから離れました。
えいのじちゃん、大丈夫?」
「あきちゃんこそ大丈夫?頭から血だらだら出てるよ。」
額に手をやると、べっちょりと血が付いてきたので、私はあせりました。傷口にウエットティッシュをかぶせ、その上からタオルを巻いて応急処置をしました。そこで、頭以外にも胸を打っていて、足が捻挫しているのに気がつきました。他の乗客もみんな外に出いて、何人かは顔から血を出し、腕や足に怪我を負った人たちがいました。泣いている女性もいました。そこではじめて私はとても怖くなりました。足が痛くなり少し気分が悪くなってうずくまっていました。映子が、バスの中にあった荷物を取り出してくれました。私がうずくまっていると、ケガをしていない乗客の1人だと思いますが、その誰かが私をタクシーに担ぐように連れて行きました。映子に、病院で待っている、とだけ言った後、タクシーは病院へと走り出しました。どうして、そんなへき地にタクシーがいるのだろう、と後から考えれば謎ですが、そのときはまったくそんな疑問は浮かびませんでした。
タクシーでゴルムドに向かう途中、事故に遭っている車を2つ見ました。ひとつは、トラックが横転していて、もう1つは乗用車とトラックの正面衝突で、乗用車のドライバーは、首が折れたようにドライバーシートに座ったままの姿でした。多分即死だったのでしょう。それを見て、また怖くなりました。タクシーは、事故に遭ったばかりの私たちの心情にはなんの考慮もなく、乱暴にとばします。
タクシーの中でいろんなことを考えました。これでこの旅も終わりかな、現場に警察いなかったけど事故証明はもらえるかな、ホームページにこのことを掲載したら親は心配するだろうな…そして恐怖とともに頭に浮かぶのは、頭を打ったみたいだけど自分は大丈夫だろうか、という思いでした。いろんな悪い状況が頭に浮かんでくるのです。そんな時、「どんなことがあっても生き抜いてやる」と何度も自分に言い聞かせました。
ゴルムドの病院に着きました。重症の二人がタンカで運ばれます。軽症の私は歩いて病院の中へ入りました。緊急治療室に連れていかれ、カルテに名前と年齢を書かされました。そのすぐ横では、私たちの事故とは関係ない患者が今まさに亡くなろうとしているところを見ました。親族の人がその患者を抱いて号泣しているところでした。私は、傷を消毒してもらいガーゼを当てられました。医者に縫うか?とジェスチャーで訪ねられましたが、傷口の出血は止まっていましたし、中国で縫われたんじゃブラックジャックみたいになってしまう、と本気で思ったので断りました。足のほうは、捻挫で骨には異常がないということでした。ロビーで待っていると、さっき見た患者は亡くなったようで、白い布をかぶせられ、タンカで運ばれていくところでした。親族の人は、泣いていました。それを見ながら、自分にも待っている人がいるのだから絶対無事に帰ってやるんだ、と強く思いました。
しばらくして映子が病院にやってきたので、とりあえずタクシーでガイドブックにのっている宿に向かいました。病院での治療代とかは、同じバスに乗っていた別のドライバーが全て払っていたので保険会社に治療費など請求するものはなかったのですが、後から何かあると困るので、保険会社へは事故の報告だけは電話でしておきました。
その日は、夜寝るのが怖いものでした。寝るとそのまま逝ってしまうんじゃないか、と思えたのです。しかし、疲れていたのか、私の神経が図太いのか、ベッドに入るとすぐに眠りに入ってしまいました。(昭浩)
事故でよく覚えているのは、前の車にぶつかってフロントガラスが割れた瞬間と、スローモーションのようにバスが傾いていったことでした。私はMDを聞いていて、そのMDをフリースのポケットに入れて、バスの天井から外に出ました。外に出るまで、それが天井だとは気付きませんでした。びっくりしたのは、自分が全くの無傷だったことと、あきちゃんが額から血を流していたこと。だけどあきちゃんが、人のことばっかり心配して、自分が血を流していることにも気付いてないので、なんだかおかしくなって不謹慎にも笑ってしまいました。
横転したバスの中に入ると、いろんなものがまだ落ちていて、自分の靴は、乗客の男の人が出してくれて、あとは、あきちゃんの靴と食べ物が入ったカバンを必死で探しました。みんなパニック状態だったけど、私はケガもないせいかわりと落ち着いていました。あきちゃんは、バスが爆発するのを恐れていたようだけど、それは多分テレビの見すぎで、全然そんなことはありませんでした。
あきちゃんが病院に連れて行かれた後、私は重い2人分の荷物を前に途方に暮れていました。すると、韓国人の男性3人組が助けてくれて、一緒にタクシーに乗っていこうと言ってくれました。私もあきちゃんと同じように、ゴルムドに着くまでに事故を2件見ました。自分は、そしてあきちゃんも生きていてよかったと心から思いました。親切な韓国人3人組は、カタコトの英語でいろいろ話し掛けてくれたので、少しは気がまぎれました。笑うこともできました。ゴルムドに着くと、あきちゃんがいるところを探して、3つも病院を周ってやっと会えました。
今までは事故を見ても他人事だと思っていたけれど、事故は誰にでも起こりうるものだと思いました。バスや車が飛ばしていると本気で恐いと思うようになりました。そして、自分が今生きていることはとても幸福なことだと、命の大切さをあらためて感じる事件でした。こうして、2人で旅ができることは本当に素晴らしいことだと思います。(映子)
「あきちゃん、生きてる?」
この声で目が覚めた。僕は、息をしていないかと思えるくらい静かに眠っていたらしい。
朝8時のバスで敦煌に向かう。昨日の横転事故がウソのようだ。まったく現実味がない。しかし、バスに乗るのは恐い。その恐いバスにも時間がたつにつれて慣れてくる。
ゴルムド〜敦煌へは800キロ。約12時間の道のりだ。ラサ〜ゴルムド間に比べ道は格段にいい。岩のころがる荒野のなか、一直線の道を進む。途中大きな峠を越える。敦煌まで残り80キロ地点で大きな砂丘が現れる。鳥取砂丘とは全然大きさの違う砂の山の間を抜けてバスは走る。アスファルトの道路の上は砂が舞っていて、今にも埋もれそうだ。しばらく続いた大きな砂丘に圧倒されていた。
敦煌は、砂嵐の街だった。街中に砂が舞っていて、黄色い霧のなかにいるようだった。(昭浩)
〜夜が明けると砂嵐はおさまっていた。〜
敦煌はゴビ砂漠の端に位置する。街は、中国でありがちな建物が並び、車が走り、人々の活気に満ちているので、砂漠のオアシスといった感じはしない。しかし、街の中心から車で10分ほど走ると大きな砂山が見えてくる。そこが鳴砂山だ。はじめて目にすると、少しびっくりするくらい大きい砂丘だが、入場料もびっくりするくらい高い。
この鳴砂山という砂山は実際に存在するが、一般的にはこのあたりの砂山群一帯をさす。いくつか大きな砂山があって、どれに登ろうか迷う。月牙泉という湖の上の砂山に登る。そこからさらに砂丘がずっと遠くまで続いていた。ここは、砂漠なのだ。そして、その反対側を見下ろすと敦煌の街が広がっていた。ここから見ると敦煌がオアシス都市であることがよくわかる。
誰の足跡もないところに腰をおろし、きれいな模様をつくる砂たちをみて思いにふける。2日前に事故にあって、今こうして砂の上にいることが不思議なことに思えた。僕は生かされているんだ、この不毛な場所でそう思った。
太陽が沈んだ後、砂山のシルエットの上に見える青から紺色へさらに黒へと変わる空のグラデーションがきれいだった。(昭浩)
莫高窟は、とても有名な遺跡だ。世界遺産にもなっているし、中国三大石窟の1つでもある。中国いろんな時代の壁画や仏像も見られ、歴史的価値も高いうえに保存状態もいいらしい。真下からしか見ることができないため、大きすぎる鼻の穴ばかり目立つ一番大きな大仏は、奈良の大仏の2倍の大きさ。迫力十分。
遺跡そのものはいいのだが、石窟のまわりをコンクリートの通路で固められ、あらゆるところに人工的な施しがされているのがどうも気に入らない。遺跡を見るというより、遺跡の雰囲気を楽しむタイプの僕にとっては、この博物館のような莫高窟はいまひとつ楽しめなかった。他の遺跡と比較するのはよくないと思うのだが、どうしても洛陽の龍門石窟と比較してしまう。龍門石窟は、派手さはないが味があってよかったなあ。(昭浩)
莫高窟は、はっきり言って期待はずれだった。龍門石窟に行ったとき出会ったおじさんが、「莫高窟はよかったよ」と言っていたので、かなり期待していた。感想は、なんだか大きなマンションのような所。たくさんの部屋があって、そこにいろんな壁画や仏像が納められている。そしてそれも全部は見られず、その時のガイドさんが選んだ10くらいの部屋を見て、中国語の解説を聞く。(もちろんさっぱり分からず。)他の部屋も見たいな、と思ってちょっとのぞくと、意地悪くドアを閉められる。大仏は確かに大きくて立派だったし、壁画はかなりきれいに残っていたけれど、期待していたほどの感動はなかった。(映子)
ほしぶどうがきらいだ。特にぶどうパンにはいっているほしぶどう。くにゃっとした歯ごたえが気色悪い。
ここ、ハミで買ったほしぶどうはちがった。歯ごたえがいい。しっかりとしている。甘納豆のようだ、といえばわかりやすいだろうか。ぶどうの香りとフルーティーな甘味。これこそキング・オブ・ほしぶどう、と言えよう。
夜は、荷馬車がコトコトと通る道沿いの屋台で、羊の串焼き(ケバブ)と羊の肉入りチャーハン(プラオ)を食べる。
そう僕たちは、敦煌から6時間砂漠のなかを走り、いよいよウイグル人の住む街に来たのだ。(昭浩)
トルファンには、3時ごろ着いた。バス停にはたくさんの客引きが待ち構えていた。中国人ではない、ウイグル人だ。安岡力也もいれば、まゆげのつながった若人あきらもいる。映子は、悪気はないのだが、まゆげのつながった人を見ると笑いが止まらなくなるらしい。つながったまゆげをじっと見ながら、笑いをこらえている。
チェックインを済ましたあと、昼ごはんを食べに出かける。ここは、暑い。うわさどおり酷暑だ。10分以上炎天下を歩けない。宿に戻ってきたときは、グッタリだ。宿の部屋は冷房が効いている。これが救いだ。同じ部屋のバックパッカーも、グッタリと日が沈まないうちからベットで寝ている。僕たちもベッドに横になる。こう暑くちゃ誰も外には出れないよ。そう、ここは火焔山のふもとの街なのだ。(昭浩)
「同じ値段だったらいろんなところをたくさんまわってくれたほうが得だ。」
僕はずっとそう思っていた。
トルファンを観光する者は、トルファン1日ツアーに参加するかどうかの選択を必ず迫られる。トルファンの観光スポットはどこも市内から離れていて、しかもアクセスするための公共交通機関がない。タクシーを使うと割高になってしまう。そして、1日ツアーを企画する旅行会社やらモグリの業者やらの客引きがしつこく勧誘してくる。
僕たちもトルファン1日ツアーなるものに参加してみた。ツアーといってもドライバーがトルファンの見所と言われている8つのポイント(ガイドブックにも載っている)に連れて行くだけのもので、ガイドやら入場料は含まれていない。
「同じ値段だったらいろんなところをたくさんまわってくれたほうが得だ。」僕はずっとそう思っていた。でも、そうじゃないんだよね。たくさんまわればいいってもんじゃない。あまり興味ないところをまわるのは、はっきり言って時間とお金の無駄以外なにものでもない。ツアーだから感心のないところでも行く。行ったらついつい入場料払って見てしまう。そして、「なんだかなあ…」という気持ちにさせられる。そして、一番このツアーでゲセなかったのが昼食の場所。葡萄勾と呼ばれるふどう畑のなかにレストランとお土産屋が並んでいる葡萄園(一応観光ポイントにはなっている)に昼食の場所として連れていかれる。ここが有料(20元:300円)で、お金を払って中に入り、そこで高い昼ごはんを食べるためにまたお金を払う。つまり、レストランとお土産屋に入るだけなのにお金を払わなければいけないのだ。ツーリストトラップとまでは言いたくないが、ホントにゲセないよ。
トルファンにある8つのポイントうち千仏洞という仏教遺跡と玄奘が2ヶ月滞在したという高昌城遺跡は、興味深いものだったが、それ以外は…。火焔山はバスで来る途中に見たので、それで十分だったし…そんなこともあって、僕らは1日ツアーを半日にして、さっさとその日の夜行でカシュガルに向かうことにした。(昭浩)
シルクロードがこんなに過酷な自然環境にあるものだとは思わなかった。だって昔の人は、ここ歩いていたんでしょう?敦煌からトルファンそして天山山脈にいたるまでほとんどずっと砂漠じゃん。しかも、朝起きたとき見た天山山脈ってのも、かなり険しそう。玄奘はさぞ大変だったろう。寝台列車でごろごろしているうちに「あら、カシュガル着いちゃった」ってワケじゃないもんね。まあ、玄奘は天山越えてカザフスタンのほう行って、僕らの通った天山南路、つまり天山山脈の南のルートは少し違うんだけど、やっぱり彼らの苦労は、僕らには想像できない。
日本から最も遠い中国に僕らは着いた。街は都会だった。レンガ造りのウイグルの町はどんどん破壊され、そこに漢民族の新しいビルディングが建っていく、そんな過渡期にある街だった。
建物は変わっていってもウイグル人はたくましくその地にいた。ここでは、中国語があまり通じない、かといって英語が通じるわけではない。何語でコミュニケーションしていいのかわからない。中国だけど中国を感じさせないカシュガルは何にもないけど魅力的だ。その夜、シシケバブとトルファンで買った赤ワインの相性が絶妙で、すっかりいい感じで酔っぱらってしまった。(昭浩)
夜遅くまで日が照っているというのは体によくない。ついつい夜遅くまで昼間と同じように活動してしまうので疲れてしまう。ローカルの人たちはウイグル時間という北京時間より2時間遅れの時間を使っている。ただし、公共の交通機関は北京時間にのっとっている。僕たちは二人それぞれ主張が異なり、僕は自分の時計をウイグル時間に合わせ、映子は北京時間のままというなんともややこしいことをしている。北京時間の朝10時ごろ、映子は「もう10時だから早く起きなよ」と僕を起こし、「まだ朝の8時じゃん」と僕は渋る。そうやって長い1日がはじまる。
いよいよ明日カラコルムハイウェイでパキスタンに向かう。これから先しばらくお酒が飲めないので、今日もシシケバブをつまみに赤ワインを楽しんだ。(昭浩)
カシュガルからパキスタンへ行くには、途中、中国側の国境の町タシュクカルガンの町で1泊する。はじめは荷車をひいたロバがコトコト走り、ポプラ並木が続く、そんな雰囲気ある道を西に向かった後、南に進路を変えて、バスは山道を登りはじめる。途中から土砂崩れがアスファルトの道路をあちこちで分断している。(後から来る予定だった僕の友達は、土砂崩れで通行止めになったため、しばらくカシュガルで足止めを食らっていた。)そのたびにひどい悪路を迂回しながら走る。雪に覆われた山が見えはじめる。ずっと砂漠だったので新鮮だ。ある程度の高さを登りきるとそこには緑の草原と湖の高原が広がっていた。すっかり暗くなった頃、タシュクカルガンに到着した。
中国での最後の夜は、僕達の大好きなトマトと卵の炒め物とニンニクの芽と肉の炒め物を食べた。この旅がはじまって、のべ4ヶ月もいた中国と明日の朝いよいよお別れだ。(昭浩)