4月14日〜5月7日
景色が変わった。ウガンダが森、ルワンダが丘だったのに、ここはもうサバンナの続く世界だ。人々は気さくでフレンドリー、目が合えば、親指をたててニコッと笑って返してくる。町を歩けば、ジャンボー!マンボー!と声がかかる。それがタンザニアだった。
タンザニアの西ビクトリア湖のほとりムワンザからインド洋に面したダルエスサラームまでゆっくりゆっくり進む寝台車のなかで、本を読んだり、ゴロゴロしたり、日記を書いたり、おいしい焼き鳥やサモサを肴にビールを飲み、広大なサバンナを見て物思いにふける、そんな楽しい旅のはずだった。
ところが出発早々にしてマラリアにかかってしまった。
ビクトリア湖でとれたテラピアという魚のから揚げとサモサを食べそれをつまみにビールを飲んだ後だった。なんだか体が重い。疲れがたまっているよう。それとも風邪かな。アルコールがまわり体中に熱を帯び始めるとそれがそのまま本当の熱へとかわった。悪寒がし、頭痛も一緒にやってきた。
(マラリアか?)
当然そう思った。しかし、そうは認めたくない。自分だけはマラリアに絶対ならないという根拠のない自信があった。僕はアスピリンを1錠のんでクソ暑い列車の中で1人毛布をかぶって寝た。
アスピリンが効いたのか、夕方、目を覚ますと熱は下がり頭痛もどこかへいってしまった。
(なんだ、やはり風邪か)
頭痛が再び始まった。夜中の1時頃のことだ。熱もかなりある。
(これはマラリアにちがいない。マラリアの薬を飲もう。)
僕はドキドキしながら薄黄色のコテキシンという4粒の薬を一気に飲んだ。
翌日、少しは頭痛と熱はマシになったもののまだつらい。立っていられない。座っているのもしんどい。胃が気持ち悪い。食欲はまったくない。
その日はほとんどずっと一日横になって寝ていた。同じコンパートメントのタンザニア人はおおらかなのか、1人ゴロゴロしていてもあまり気にしない様子。
「君の夫は寝るのが好きだね。」
映子にそんなことを言っていたらしい。
午後になると頭が割れそうに痛くなる。意識はしっかりしているが、この頭痛いのがずっと続くとつらいなあ。
3日目の朝、だいぶ頭痛はよくなった。食欲が少し出てきた。夕方16時ダルエスサラームに着いた頃にはかなり回復していた。
48時間列車のなかにいたが、そのほとんどがマラリアとの闘いであった。移動しながら療養、そう考えれば旅人として最も効率のよい時間の使い方かもしれない。そんなのんきなことを言っていられるのもマラリアの治療薬を携帯していたからこそ。すぐに病院に行けない列車のなかで、もし薬をもっていなかったら・・・と想像するだけでこわい。マラリアは最短3日あれば死んでしまう病気なのだから。(昭浩)
マラリアをそれまで大変怖れていたけど、ここ数日で僕の考えは変わる。
決して侮れないがマラリアは怖くない。本当に怖いのは名前もわからないわけのわからない病である。
熱が上がったり下がったり、時には熱が39度ちかくまであがる。東アフリカを1ヶ月以上旅してそんな症状が出たら、それはマラリアの疑いが強い。そうなったら病院にいってマラリアテストを受けて、陽性が出たらマラリアの薬をもらって、それを飲んで3,4日安静にしていれば直る。非常にシンプル。しかし、マラリアテストが陰性だったら・・・それが何の病気かわからなかったら・・・映子がまさにそのケースだった。はたして映子のゆくえは・・・
アガカーン病院へ行った。これで3度目。
僕はドクターにロンリープラネットのヘルス欄を見ながらたずねた。
眠り病の疑いはないのか?
「眠り病ならもっとウツラウツラしておるもんじゃ」
日本脳炎ではないのか?
「それならもっと激しい頭痛と熱を伴うもんじゃ。こんなもんじゃない。」
・・・
「とにかくもう一度、血の検査じゃ。」
僕たちの泊まっているYWCAの隣には教会がある。そこから聖歌が流れてくる。今日はイースターマンデー。キリストの復活を祝う日。その日に私もキリスト同様復活するのだ!と鼻息荒くしていた映子だったが、映子のゆくえは・・・。
●4月18日
昨夜、38度の熱が出た。マラリアなのはあきちゃんのはずなのに。私の平熱は35度くらいだから、かなりの高熱といえる。朝は37度くらいまで下がっていたけれど、二人とも診察してもらおうと、病院へ行った。
イースターの祝日が始まっているらしく、休みの店も多いし、病院もすいていた。私もあきちゃんも熱がなかったけど、一応血液検査をした。結果は二人ともマラリアなし、だった。ただ、あきちゃんのほうは、「あなたはマラリアだった。」と過去形で言われた。薬が効いたのだ。ドクターは私もなる可能性があるから、コテキシンをのんだほうがいいと言う。でも、マラリアだとしたら、その反応が血液に出るはずじゃ?なんだかワケがわからない。しかも、薬は何も処方されず、チップを要求された。まあマラリアじゃないということで、ひとまず安心して帰った。
宿に戻ると、また熱が出た。熱さましの薬を飲んで眠る。
夕方、起きたら今度は熱が下がっている。薬効いたかな?外に食べに行けるくらいに元気だった。
ところが、夜再び熱が出た。今度は38.8度。これは私の今までの熱の中でも最高記録だ。こりゃやばい、と思って、すぐにタクシーで病院へ行った。そして、また血液検査、おしっこもとった。けど、マラリアではなかった。何かのウイルスだろう。薬を飲んで、2日間安静と言われた。帰ったのは夜中1時半くらいだったけど、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
●4月19日
朝、相変わらず熱がある。ご飯を食べに下の食堂まで行った。だんだんしんどくなってきた。1人では立っていられないほどにフラフラだった。部屋まで戻る道のりがすごく遠く感じた。だんだん目の前が暗くなってきていた。すぐに横になった。お腹が痛い。トイレに行くとちょっと下痢気味。病院でもらった薬を飲んで、寝ると少しはよくなるが、熱は常に37度はある。抗生物質も飲んでみた。少しよくなった気がする。変なウイルス死んだかな?1日3回病院でもらった薬と抗生物質をのんで水もたっぷり飲んで、昼と夜にパイナップルを食べて寝た。食欲があまりないので、それ以外は食べていない。
●4月20日
今日は、ちょっと調子がよくなった。熱はだいたい37度台。36度台まで下がったときには、お腹がすいてきた。11時ごろ食堂に行くが、昼食は12時からと言われて、食べれず。部屋で寝て待っているうちに調子が悪くなってきた。一応食べに行くが、あまり食べれず。でも白いご飯がおいしかった。涙が出そうなくらいに。
体温は、37度前後でわりと落ち着いていたので、シャワーを浴びた。するとさらに体温が下がった。(考えてみれば水シャワーなので当たり前かも。)調子に乗って、夕飯はご飯とキャベツ、そして肉も半分近く食べた。しかし、その後また調子が悪くなり、気持ち悪いし、熱は上がるし、また38度以上の高熱。
夜は悪夢にうなされた。蚊帳の中に悪者が何人も入ってきて、私たちを操ろうとする夢を見た。何度も起きて、「もうどっか行って!」と言ったり、「助けて!」と言ってもダメ。隣のベッドで寝ているあきちゃんに何度も助けを求めたが、彼は全然気づかず寝ていた。そして、異常にのどが渇いて、そばにおいてあったペットボトルの水をすべて飲み干した。
●4月21日
最悪にしんどい朝だった。熱が39.2度ある。最高記録更新中だ。お願いだから、原因不明のウイルスとか言わないで、この病気を治して!もうマラリアでもいいよ。フラフラしながら病院へ。三度目の血液検査。ラボまで歩くのもつらい。検査が終わるとお姉さんが診察室まで付き添ってくれた。「つらいだろうから」と。そう、マラリアだったのだ。ドクターによると、1000という数字はかなりたくさんなのだそうだ。
入院することになったのだが、「即入院、予断を許さない」みたいなことを言っていたくせに、手続きに時間がかかる。しかも窓口や病室に歩いて行ったり来たり、マジでつらい。やっと病室に着いたときには、倒れるように眠りに付いた。
薬も治療も用意していると言うが、とにかく遅い。やっときたと思ったら、この前もらった、解熱剤&頭痛薬。そして、その後(かなり遅い)、違う看護婦が注射を持ってきた。それは2本、しかもお尻にブスッと刺される。いたーい!けどガマン。
あきちゃんが帰っていった後、点滴のセッティング。これも一瞬すごーく痛いときがあった。生まれて初めての点滴、最初は痛いがなれるとまあまあいけてる。注射を上からと横から入れる。上からのは痛くない。横からは圧力がかかってちと痛い。
やっと落ち着いたら、お腹がすいてきた。もう1時だ。隣のベッドに(私の部屋は2人部屋)女の人が来た。2時ごろやっと昼食が来たのだが、大好きなパイナップルがあまりおいしくなかった。そしてまた寝る。とにかくものすごく激しく汗をかく。そんなに暑いと感じるわけではないのに、滝のように流れ落ちてくるから不思議だ。
ふと目を覚ますと、あきちゃんが目の前に立っていた。4時頃だった。実は3時頃から来ていたらしい。あきちゃんが帰ってから、検温や血の簡単なチェック(指先をとがったヤツでブスッとさして血をとる。結構痛くてビビる。)、そして点滴取替えがあった。
夕食後、気持ち悪くて思わずはいちゃった。トホホ、パパイヤが・・・
病室には、いろんな人がやってくる。掃除の人から警備の人、そして隣の人へのお見舞いの人。前の部屋のマサイ族の人へのお見舞いは、とにかくすごく多い。衣装もすごいよ。
●4月22日
昨夜10時に始めた点滴は、朝4時ごろ終わった。廊下が明るくてもう朝かと思ったけど実はまだ暗い。またしばらく寝る。6時はもう起きる時間らしい。新しい点滴と血の検査、検温などがやってくる。
朝食は7時ごろでその前後にお尻に注射をぶっすりやられた。でも1本は点滴のとこからなのでよかった。偉い先生らしきインド人が、お供を引き連れて現れる。私のマラリアは、1000から800になったと言っている。明日は500くらいだろう、と。だいぶ楽になったのにまだそんなにいるのか。退院はまだまだかなあ。痛いのがなければ快適だけどさっ(あとゴキブリ多すぎ)。ちょっと偉い人とか、偉いナースとか時々現れる。その人たちは制服ではなく、私服を着ている。あきちゃんは、10時ごろ来てくれた。
お昼ごはんの前、12時ごろに隣のおばさんは、車椅子に乗せられてどこかに行ってしまった。検査か何かだろうと思ったら、タンカというより移動するベッドという感じのに乗せられて、足の辺りから管が出ている。血の色だ。しかもつらそうな顔をしている。私はかける言葉もなかった。
私のほうも昼からまた1本、お尻にぶっすりやられた。もう1本は、痛いほうから入れられた。点滴はもう何本目だろう?そして、ちゃんとした血の検査もあったが、結果は不明。さらに夜もう一度簡易チェック。マラリアいくつだよ!?そして、いつもの解熱剤ものんだ。
あきちゃんは、4時過ぎに来て、頼んだものをいろいろ持ってきてくれた。ミルクティーを飲み、いろいろ雑談して、6時ごろに帰っていった。あきちゃんがいる間に、点滴は、ビタミンB入りの黄色い液に変わった。あきちゃんはうらやましがっているが、そんなうれしいもんでもない。
夕食後、薬も飲んで、検温も血のチェックもしたし、歯を磨いて寝ようとしていると、なんとまたお尻に注射、しかも2本も!!超ショーック!!即フテネだね、こりゃあ。
少し耳鳴りがしているような気がする。蚊の音が耳の中から離れない。幻覚も見る。あきちゃんが、エジプト人のようにガラベーヤと呼ばれる服を着て、「私は王様だ」と言っていたり、上半身裸で、かえるのように飛び跳ねている夢を見た。笑っちゃった。
●4月23日
朝はいつも早くから起こされる。寝ぼけてて時間もわからない。6時に血と血圧と検温のチェックがあるくらいで、点滴はもう、黄色とか白とかやられまくって訳がわからない。7時半ごろかな、朝ごはんにコーンフレークを頼んだのに、なぜかパンが来た。食欲もないのでジュースだけにしてもらった。
マラリアは今、いくつかわからない。インド人の偉い人は言ってくれない。胃が気持ち悪くて食べれないと言っておいた。トイレで吐こうと思ったら、点滴の管に血が逆流してきて、びっくりして引っ込んだ。昨夜かな。もう何がいつのことかは正確にはわからない。ただ、白い薬は、食後3回2錠ずつ、お尻の注射は朝夕1回ずつやったと思う。点滴のところにも、いっぱい薬を入れられて、完全に薬漬け。かなりの中毒といえる。
隣のおばちゃんは、今日退院しちゃって、今日は1人、ちと寂しい。しかし、今日はシーツを換えてもらい、シャワーを浴びちゃった。看護婦さんに手伝ってもらって、ちと恥ずかしいけど、きれいになってすっきりこん。しかし8時半から11時半くらいまで待ってやっと。忙しいみたい。あとは、点滴入れてた血管を変えた。夜中に。手がはれているから変えたほうがいいと言われたけど、やっぱり左手がいいので位置だけ変えてもらった。なかなか血が出て痛かった。
今日の夢&幻覚
クローゼットを開けると、中にあきちゃんがたくさん並んで座っている幻覚を見た。何か言ってた気がする。もう一つは、せんだみつおが出てきた。壇上で小話をやっているが、みんな全然聞いていない。「ナハナハやれー」と言われて、やるとうける。でもまた話を始めるのだった。
●4月24日
朝は朝焼けがきれい。と思う前にいつものように起こされる。血の検査と血圧チェックと検温。そしてお尻にブスッと。今日はそんなに痛くない。寝ぼけているのか・・・。
さらに寝ていて今度は朝食で起こされる。コーンフレークはいまいちおいしくない。食べていると、よく部屋をのぞきに来る見知らぬ女の子がやってきて、Get well card(早くよくなりますように、というカード)をくれた。彼女は何者だかよくわからないが、スワヒリ語しか話せないらしい。二十歳くらいだろうか?かわいくて、愛嬌がある。
インド人先生によると、私のマラリアはついに10になったらしい。しかし、クリアーにすると言っていた。「頭痛い」と言うと薬のせいだという。耳が聞こえにくいのもそうらしい。なんだ、よかった。私普通じゃん。しかし頭痛いわ、ずつないわでパッとしない午前中だった。
マラリアが少なくなっても、薬漬けで、なんだか全然楽にならないよ。うまいメシが出ても食欲でないし・・・。点滴続きで痛いし・・・。早くおうちに帰りたい。
隣のベッドには、8時頃おばさんが入院してきた。そして、テレビのニュースをずーっと見てる。同じことばかりやってる。イラクとSARSとパレスチナ。特に今はSARSが大問題だ。
5時頃、そのおばさんは手術か何か、車椅子で行っちゃった。そして夜、帰ってきて、なんだかゲーゲーやってるよー。こっちもずつないのに勘弁してくれよー。しかし私のほうがマシみたいやな。ハッハッハッ。でも、もう左手の2か所目の点滴も限界に来ている。明日までもつかなあ。と、汗をかきかき眠るのだった。めちゃ汗臭いよー。
●4月25日
朝ってどうしてこんなにいつも頭痛いの?おまけにずつない。食欲なしなし。でも朝食はやってくる。パンを4分の3食べた。マーマレードはうまい。
昨日カードをくれた少女、アミーナがやってきて、スワヒリ語をしゃべれとか、いろいろ言ってきて、もうはっきりいってうざくなってきた。そっちは健康なんだから、そっちが英語か日本語しゃべれよ。こっちはマラリアで薬漬けでいっぱいいっぱい余裕ないし、しんどいんだっつーの。昨日、りんごをくれた女の人は、彼女の姉さんらしい。でも、もうそっとしておいて欲しい。疲れたから寝るというと、やっとどっかへ行った。
その後、やっと私にも運がめぐってきたらしい。インド人先生の登場で、マラリア・イズ・オーバーだ。この点滴が終わったら、ついに退院、やったね。今朝、右手に付け替えたばかりで、超不便だったので、よかった。もう終わるのが待ち遠しいよ。
あきちゃんが来たころには、点滴終わってすっきりしてたので、着替えた。それから、結構待たされて、最後のランチをたらふく食べて、さらに待つ。宿に帰れたのはお昼、2時過ぎくらいかな。あきちゃんは薬を買いに行ってくれて、その間に私は寝ようかな?と思ったけど、どうも汗臭いので思い切ってシャワーを浴びた。とてもとてもとても気持ちいいー。すっきりこん。気分もいいので、保険の書類をそろえた。食欲も、気力も体力もなんだか急に回復した気がする。夜はちと暑いけど早めに寝た。(映子)
こんなにさわやかに目覚める朝は何日ぶりだろう?朝ごはんもちゃんと食べれる。あー幸せ。コピーセンターと郵便局行ってインターネットもやっちゃった。人間らしい生活。すてき、最高。外は暑いけど、病院で汗をだらだらかいていたのよりは全然快適。きれいでも、新しくてもやっぱりあそこは地獄だ。
昼にシャワーを浴びていると右尻にでっかい青あざを発見。ちょー痛そーなの。実際痛いと思ったことはないが・・・。私、がんばったなあ。よくやった。心から自分を自分でほめてやりたいと思った。(映子)
映子が退院した。5日間入院し、そしてマラリアは完全になくなった。
毎日薬漬けだったせいか、入院中はかなりラリっていたようだが、とにかく無事でなにより。
僕たちは少し反省してマラリアの予防薬を飲むことにした。正直、マラリアの苦しさや入院のわずらわしさにうんざりなのだ。蚊に刺されないようにしよう、そう努めてきたがそれは不可能に近い。ウンチしているときにだってお尻にチクリとやってくる。エアコン完備の病院でさえ、僕はお見舞いにいったとき蚊にやられた。しかもマラリア患者の横で。アフリカの蚊をナメちゃいけない、そういうことだ。
マラリアは1回かかると2年は体の中で生きているらしい。はたして映子のゆくえは、そして僕のゆくえは・・・(昭浩)
昨日からザンジバル島に来ている。
透き通るブルーの海の南国の島に、アラブのようでアラブでなくアフリカのようでアフリカでない、そんな独特の空気をつくりだしている、それがストーンタウン。
特別な見所はない。迷路のような街中をぐるぐるしてもすぐにまわりきれてしまうこじんまりとしたところ。
町をぶらぶらし、昼には多種類の香辛料の効いたおいしいビリアニと呼ばれるザンジバルのピラウ(ピラフ)を食べ、夕日のきれいな海辺の公園、そこに出るたくさん屋台でイカやロブスター、タコをつまむ。それがストーンタウンでの一日だ。(昭浩)
ダラダラと呼ばれるピックアップトラックに乗って、パジェへ向かう。私たちは、トラックの助手席、楽チンだ。後ろの席は、はじめいっぱいじゃなかったけど、途中で人と荷物をたくさん積みながら行くので、すぐいっぱいになった。道はずっと舗装されているのでよかった。見渡す限りの緑が広がる。思ってたより広い島だ。
パジェの町の中心だろうか、道が二つに分かれたところで降ろされた。そこから歩いて宿まで行く。覚悟して歩いたので、そんなに遠くは感じなかった。しかし、暑い。でもそこには本当にパラダイスがあった。見渡す限りのエメラルドグリーンの海。きれいなバンガロー。おいしい料理と日本語の本。私はすっかりここが気に入ってしまった。
午後、海に入った。海はかなり満ちていて、風も波も強い。すぐ近くに見えるイカダまで行くのが大変だった。もう1人の日本人旅行者の下田さんも一緒にイカダまで行って、3人で、しばらくそこで時を過ごした。
心のねじが少しずつゆるんでいくってこういうことかなあ。とにかく幸せな気持ちでいっぱいだった。あきちゃんと下田さんは、山の話や川の話、仕事の話など、話が合うみたいで、ずーっと話していた。人って不思議だなあとつくづく思う。昨日までまったく知らないもの同士だったのに、今日ここでこうして出会って、まるで昔からよく知ってる友達みたいに、海の上でずーっと話してる。そして、潮が少しずつ引き始めたとき、私たちはやっと海から上がった。(映子)
波の音で目を覚ます。
まぶしい白の砂、透き通る青の海
潮風が爽やかで涼しい。
オフシーズンのパジェビーチは、人影も少ない。
隣のソファでは猫が気持ちよさそうに目を閉じている。
床では犬が眠っている。
日本の活字に餓えていた僕らは
海を前に本棚に置いてある本を読みふける。
活字に飽きたら海を眺める。
移動と病で消耗した体力
スリや強盗に怖れ毎日の緊張ですり減った神経、
再生した。
まだ、これからも南へ向えそう。
スパイスツアー 5月4日
ザンジバル名物スパイスツアーに参加した。
スパイスツアーとはザンジバルの特産品であるスパイスのプランテーションをまわって、見て、味わう。いわばスパイス体験ツアーってわけだな。
オフシーズンのザンジバル。なのに僕らも含めて11人もバスに乗っている。人気なのだ。僕がそのバスに乗って後部座席のほうに行こうとしたとき、アンディ・ガルシア瓜二つの二枚目白人兄ちゃんの顔面に、僕のバックパックのウエストホルダーをヒットさせてしまった。僕はまったくそれに気がつかなかったのだが、映子に指摘されてあわてて謝る。アンディがさわやかな笑顔で、オーケー、と言ってくれたが映子はぷりぷりしている。ちなみにアンディの彼女はあまりかわいくない。
ツアー参加者の内訳。アンディを含むドイツ人グループ8人と日本人僕ら2人、ニュージーランド人1人。ドイツ人パーティはドイツ人の壁を作っていて終始ドイツ語で会話していた。英語うまいのに彼らも集団になると日本人のように閉鎖的になる。それに欧米人なのに超パンクチュアルで気味悪い。ゴーイングマイウェイのニュージーランド人は1人浮いていた。
さて、スパイス体験はどうだったか。
加工された形でしか知らないスパイスが実際に自然の形で成っているところを見られるのは大変興味深いものがあった。
グリーンペッパーの実をかじるとやはりコショウの味と刺激と香りがする(当たり前か)。
カルダモンは実の中の黒くて小さい種。噛むとカルダモンの香りと味がする。
意外だったのはコーヒー。コーヒーの実はただの木の実なんだけど、その実をむくと、なんと白い色した生のコーヒーが出てくる。形はコーヒー豆のままなんだけど。
ナツメグも一見オレンジ色したすもものような実なんだけど、その種がナツメグのスパイスになるらしい。これ発見した人って偉いよなあ。
バニラの木とも生まれてはじめてご対面した。僕は20歳を超えるまでバニラというのはミルクアイスクリームの別の呼び名だと思っていたから、自然に生える本物のバニラとの出会いは感慨深いものがあった。
ランチはシナモン、カルダモン、黒コショウ、その他もろもろのスパイスをちりばめたチャーハンに、これまたたっぷりスパイスが入っていると思われるココナッツカレー。スパイスが入っているに違いないと勝手に思い込んでいるトマトの煮込み。それにキングフィッシュという、例えていうなら鮭を白身にしたような魚。キャッサバの葉を細かく切って作ったペースト。おかわり自由の食べ放題。しかも激ウマ。
フルーツのテイスティングもあった。ピンクグレープフルーツやオレンジ、このあたりでよくとれるらしい。生まれて初めて食べたジャックフルーツはチューイングガムのフルーツパンチ味。とても甘い。
「これはジャックフルーツです。」
ガイドがそう説明したとき、ドイツ人のおばちゃんが言った。
「ジャパニーズ・フルーツ?」
ドイツ人のおばちゃんは、すぐ隣に日本人二人が座っているのにあまり気になっていないボケぶり。ガイドは慌ててこう言った。
「ノー ジャップ・フルーツ、ジャックフルーツ」
このスパイスツアー、スパイスをさんざん堪能したあとは、きれいなビーチで海水浴。10ドルでこの内容。とても満足のツアーだった。(昭浩)
久しぶりにダルエスサラームに戻ってきた。また、YWCAに戻ってもよかったんだけど、ちょっと気分を変えたいし、もっと安いところに行ってみようと宿を変えた。宿の前のレストランでジュースを飲んでいると、 店員のセーラムが、「何かいいものを送るから住所を教えて」と言ってきた。彼のお父さんはリベリアから来たケニア人でクリスチャン、お母さんはタンザニア人でムスリムだという。娘が1人いて、それ以上子供は要らない、お金がかかるから、と言う。そんな人もいるんだ。新鮮な驚きがあった。ネクタイなんかしちゃって、ちょっとインテリっぽい。とにかくいい人そうなので、住所を教えた。あまり裕福そうじゃないのに、何を送ってくれるんだろう?
夕飯の後、宿に戻ってきたら、階段のところで見知らぬおばさんが、部屋に来いと言ってきた。ちょっとこわいので、私は行きたくなかったけど、何となく断りきれずに入ってしまった。娘が二人、ここに住んでいるようだ。英語はほとんどしゃべれず、スワヒリ語で何か言ってくる。部屋に入ってしまったことを後悔した。結局は金がほしいのだろうと思う。そうは思いたくないけど、そんな気がする。何とか出て行こうとすると、住所を書けという。仕方ないので住所交換。でも今回はさっきと違ってなんだかいやーな感じがする。何かに利用されはしないかと思ってしまう。住所を書いてからも、おばさんは何か言っていたが、何とか逃げてきた。後味が悪かった。
後日、セーラムからは日本に手紙が届いた。おばさんからは今のところ何の連絡もない。(映子)
映子がスリに遭った。駅に向かうミニバスに乗ったときのことだ。僕が助手席、映子が後部座席にそれぞれ座ろうとしたその時、僕の隣の男の子が後部座席のほうを見て何かを指さし叫んでいた。
「あいつを追いかけろ」
多分そんなことだと思う。
後ろを振り向くと、映子がぽかーんとほおけた顔してチャックの開いたままのリュックを見ている。何が起きたのかのみこめていない様子。サイフが盗まれた。けどそのサイフまったくお金が入っていない。マヌケなスリだ。
1分後くらいにサイフが戻ってきた。追いかけた人が捕まえたのか、犯人がはいっていない中身を見て投げ捨ててしまったのかは知らない。とにかく「スリに遭った」という事実は少なからず僕らにショックを与えた。
泥棒を見つけた男の子にここはスリが多いから気をつけろといわれた。
明らかにアフリカ人ではないスリを見つけたその男の子は僕らの乗ったミニバスの持ち主だった。ミニバスといってもほとんど個人商店のようなものだから、中古のハイエース1台あればはじめられる商売なのだろうが、ドバイ出身22歳の彼が、アフリカ人ドライバーとコンダクターを雇って異国の地で商売しているというのはすごいなあと思う。やり手だね。
彼は、ミニバスビジネスはグッドビジネスだ、といっていた。一日の利益は20ドル。タンザニアでは1日5ドルで生活できるから毎日15ドルの儲けがでる。だからグッドビジネスなのだそうだ。お金を貯めて、もう一台ハイエースを買ってさらにビジネスを大きくしていきたい、そう言っていた。(昭浩)
電車の車窓で一番好きな光景・・・
電車と並んで一生懸命走りながら手を振る子供たち。
そんなに一生懸命になって何かいいことでもあるのか。
おとなの僕は心の中でそうつぶやいてしまう。
こどもの僕は子供たちに向かって一生懸命手を振り返す。
子供たちは本当に一生懸命走る。
土の上をはだしで。
電車の車窓で驚いた光景・・・
キリン!
キリンが走っている。
電車の車窓からキリンが見える、なんてタンザニアらしいんだ。
電車に轢かれそうになっているキリンもいる。
キリンだけじゃない、バブーンにインパラ、バッファロー、電車のサファリだ。
飽きない1泊2日電車の旅。
そうして、タンザニア最後の町ムベヤに着いた。