朝5時半ごろ、国境越えだ。眠い目をこすりながら、バスを降りる。すでにイミグレの、前にできている長い列に並ぶ。朝焼けがきれい。私たちのウガンダ入りを祝福してくれてるみたい・・・・なんてのん気なことを考えていた。ところが、ウガンダビザをゲットして出てきたとき、なんと私たちの乗ってきたバスが私たちを置いていってしまった。えー、うそー!!絶対悪い冗談だと思った。自転車タクシーの兄ちゃんたちは、「これに乗って追いかけろ」みたいに言うけれど、そんなんじゃもう到底追いつけないほど遠くに行ってしまっている。
「次のバスが来るからそれに乗っていけ」と周りの人たちに言われた。どうやら、こういうことはよくあることらしい。しばらく待っていたけれど、全然来ない。
そこに一台の乗用車登場。後ろの座席に2人乗れそうだ。助手席に乗っている金持ちそうな男に聞いた。
「乗せてくれませんか?」
彼は値段を言ってきた。タダじゃないのか。この置いてきぼりにされたかわいそうな、でもちょっとおばかな私たちに同情してはくれないのか・・・・?
言い値より少しまけてもらって、その車に乗っていくことにした。次のバスなんていつ来るかわからないし、私たちの荷物はあのバスに乗っているわけだから、追いかけたほうがいい。
国境から出発した車は、キンコンキンコンならしながら飛ばす。緑がとても豊かな国、ウガンダ。ゴリラがいそうなほどの森の間の道を通り抜けていった。なかなかバスに追いつくことはできない。もう無理かな・・・なんてあきらめかけていた。
ジンジャを過ぎたあたりで、私たちを置いていったバスに奇跡的に追いついた。バスを止めて乗り込んだ。私たちの荷物はバスの前のほうに追いやられ、席には違う人が座っている。奴らは私たちが乗っていないということを知っていて置いてきぼりにしたのだ。ひどい、ひどすぎる。怒りが収まらない私。だけどあきちゃんはなぜかニヤニヤしている。追いついてホッとしているらしい。本当におめでたい人だと思った。でも、アフリカではそんな感じでいかないとやってられない。いちいち怒ってたら体が持たないよ。(映子)
僕たちは所謂バックパッカーズと呼ばれる宿に泊まっている。このバックパッカーズというのは、バックパッカー向けの安宿で、ドミトリー中心の部屋、こぎれいで、プールバーがあって、欧米人好みの造りになっている。そのなかはヨーロッパやアメリカの世界であって、日本人ひとりで来たら疎外感を感じるに違いない。
欧米人のたまっている宿には必ず、脳ミソの足りない迷惑な白人ツーリストが泊まっている。ちょうど僕の上のベッドにいるブタゴリラさんがそうだ。さんざん夜中遅くまでバーで騒いで、その勢いのまま部屋に戻ってくる。こっちは明日のラフティングに備えて寝ているのに、おかまいなく部屋の電気をつけ、仲間とおしゃべりをする。
「うるせーんだよ!深夜の1時にべちゃくちゃしゃべんじゃねー!ファーック!」
そう思っても口に出していえない自分も情けない。すっかり目が覚めて、それから2時間ほど眠れなかった。
朝方、またしても心地よい眠りのなかにいた僕は、ドスンという音で起こされた。ブタゴリラさんが上から落ちてきたのだ。ブタゴリラさんは僕のベッドの横でしりもちをついていた。よく見ると、パンツ1枚であとは何も身にまとっていない。大きいけどあんまり美しくない牛のような胸のボンボンを見てしまい、驚いて目が覚め、また眠れなくなった。ブタゴリラさんは、多分人に迷惑をかけていることなど気づかないまま、明日の昼ごろまで寝るのだろう。いい気なもんだ、まったく。(昭浩)
東アフリカは日本車が多い。走っている車の9割以上は日本車。普通乗用車だけではなく、公共の移動手段であるマタツと呼ばれるワゴンタクシーのほとんどが日本の業務用ワゴンのお下がりで、ボディには、若葉幼稚園、だとか島田工務店、だとか八王子自動車教習所、といったプリントがされている。黒人の街のなかを日本語が走り回っているという光景は面白い。不思議となじんでいる。
森に囲まれているけど、ゴミゴミしていて、そして日本語の書かれた車が走り回る、それが、カンパラの街の景色だ。カンパラなんて日本にいるときはどんなところかまったく想像できなかった。(昭浩)
ウガンダにはポストバスというものがある。郵便物の輸送車がバスになっていて、町から町への手紙や小包と一緒に人間も運ぶ。僕らはそのポストバスに乗った。
窓の外は濃く鮮やかな緑色の森がうねうねと続く丘に広がっていた。標高があるためか、過ごしやすい暑さではあるが、たくさん生えているバナナの木が熱帯であることを感じさせる。
道はきれいに舗装されているから、バスの乗り心地は快適。開け放たれた窓から涼しい風が入ってくる。
途中の村では、バスの窓越しにチキンやペプシ、水、ドーナッツなどを女性や子供たちが売りに来る。窓からの買い物もアフリカでのバスの旅での楽しみのひとつ。チキン1足、0.5ドル、とても美味しい。
バスに向かって手を振る子供たち。ゴリラ顔がかわいい。
楽しいウガンダのバスの旅だった。(昭浩)
エジプトであった旅人が「チンパンジー面白いよ。」と言っていた。私たちは、最初はゴリラを見に行くから、チンパンジーは行かなくていいかと思っていたけれど、そんなにいいなら行ってみるか、とキバレ国立公園へと向かった。
私たちは、現地ガイドのアストンと、見られる確率が高いという午前中に森に入った。森の中を歩き始めてすぐにアストンは、「あそこにサルがいる」とか、「チンパンジーの声が聞こえる。まだ遠い。何かにおびえている声だ」とか言う。私には、何も聞こえないし、さっぱりわからなかった。小さなサルは見た。尻尾が赤いやつもいた。しかし肝心のチンパンジーはなかなか見つからない。
結構歩いた。もし見られなかったら、昼からまた歩くのか、それもつらい・・・。そんなことを考えながら、深い森の中を、背の高い木々の間を、2時間くらい歩いた。
ふいに、アストンが、「シーッ」と言った。ちょっとそこで待て、のポーズ。どうやら見つけたらしい。どこ?どこどこ?よーく見ないとわからない。何せ、木の上にいて、遠いのだ。うん、いるいる、小さいけど確かに動いている。14歳のメスのチンパンジー。とはいえ寿命は50歳くらいらしいので、人間で言えば、私と同じくらいだろうか。梅みたいな実をちぎっては食べ、そして落とし、むしゃむしゃしている。私たちは、しばらくそんなチンパンジーを飽きずに見ていた。なんてったってやっと会えたのだ。
と、そのとき、アストンが、今度は親子のチンパンジーを発見。母はもう40歳だそうだ。子供は遠くて見づらいが、元気に動き回っているのはわかる。
帰り道では、チョウチョをたくさん見た。「チョウチョしか見られなかった」なんていう人もいるらしいから、私たちはラッキーだったのかも。期待していたほどの感動はなかったものの、チンパンジーが見られたことには十分満足して帰り道を歩いた。(映子)
「このバスは本当にブトゴタに行くのか?」
「大丈夫だ。早く乗れ」
バスのターミナルでのバスの客引きと僕のやりとりだ。
「乗り換えなしでダイレクトに行くのか?」
「このバスで大丈夫。」
まわりの人々もそういっている。
(大丈夫かなあ)
乗ってから1時間ぐらいしたところで眼光鋭いコンダクターがやってきてバス代を徴収にやってきた。
(本当に大丈夫かなあ)
先のことを憂うより今を楽もう、そう自分に言い聞かせる。
乗ってから2時間くらいしたところで眼光鋭いコンダクターがこう言った。
「このバスはブトゴタまで行かない。ブトゴタまでのアクセスは俺がなんとかしてやる。」
「おいおい話しが違うじゃないか」
「心配するな。大丈夫だ。Don’t worry」
「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
その日の夕方、僕たちはキヒヒという村でやり場のない怒りと脱力感のなかにいた。
「ブトゴタまでバスかタクシーがあるからそれで行け」
眼光鋭いコンダクターはそう言ってどこかへ行ってしまった。ウガンダ人は誠実でいいやつ、というイメージは、はかなくそこで崩れ去った。どんな国にもいいやつもいれば悪いやつがいるもんだ。そしてそこにバイクのお兄ちゃんがやってきた。
「これでブトゴタまでいかないか?」
「・・・」 (昭浩)
「ノーそれはできない」ゴリラ顔の係員は言った。
「それは我々のポリシーに反する」ゴリラ顔は頑なだ。
僕たちのゴリラトラッキング(ゴリラ探し)のパーミットは4月9日のものだった。予約がいっぱいでなければ早くしてもらえる、そういうヨミで僕らは4日も早くこの公園に来たのに、ゴリラ顔は「できない」の一点張り。わがまま言っているのは僕たちのほうなのはわかっている。だけどこれだけアクセス悪いところにせっかくやってきているのだからそのくらいの融通は利かせてほしい。そう思うのが人情ってもんだろう。
何もないこんなところでどうやって4日間も過ごせばいいのだ?
公園事務所近くにある高級ロッジのレストランにダイアン・フォッシーについての本が置いてあった。シガニー・ウィーバー主演の映画Gorillas in the mist(愛は霧のかなたに)の原作者であり主人公その人である。
彼女は大学で心理学を専攻しセラピー関係の仕事をしながら、旅行の資金を貯め、30歳のとき長年の夢であったアフリカ行きを果たす。このときは普通のアフリカ旅行だったのだが、そこで有名な学者と運命的な出会いをする。そして、彼の依頼で彼女は34歳のときアフリカへ再び渡り、それから30年間ゴリラの観察と研究がはじまる。
彼女は小さいときからゴリラに興味があったわけではない。偶然と彼女の意思が道を開き、導かれるようにゴリラと出会うことになった。
直感を大切にし、自分の心の声を素直に聞き、偶然を何かのメッセージとしてとらえている、そんな彼女の行動は運命に従順だ。天職というものはそうやって見つけるものなのかもしれない。
写真のなかの彼女は輝いていた。写真のなかの彼女の笑顔はパワーと勇気を人に与えるエネルギーを持っていた。(昭浩)
昨日レストランの兄ちゃんが、「朝、その辺にホワイトコロブスが20匹くらいいたよ。」と言っていた。私も見たい!と思って、今日は朝から散歩に出かけた。
私たちが泊まっているところも、そのレストランがあるのも、結構な森の中だけれど、近くに小さな川が流れていて、川向こうは人がほとんど住んでなくて、もっと深い森が広がっている。レストランから川のほうに降りていく。向こうの深い森を注意深く眺める。すると、水を汲みに来た子供たちが、指を指す。いたいた、ブラック&ホワイトコロブスが。レッドテイルコロブスらしきサルもすぐ近くにいる。赤い尻尾、そして黒白のちょっとまぬけな顔が印象的。やっぱりいるんだ。
何もすることがない暇な毎日が続いていただけに、今日は少しうれしかった。ここで私たちは、暗くなると眠り、明るくなったら起きる。そんな生活をしている。夜は虫の声を聞きながら眠りにつき、朝は鳥の声で目覚めるのだ。それは、私たちが望んで得た生活ではないけれど、本当は一番、人間らしい生活なのかもしれない。(映子)
その言葉どおり、今日は待ちに待ったゴリラトラッキングだ。
3人のアーミーの護衛付で出発。1999年欧米人ツーリスト10人がルワンダ難民ゲリラによってこの場所で虐殺されている。ここはいまだ内戦しているコンゴとの国境エリアなのだ。
畑のかたわらを歩く。畑は段々畑へと変り、その脇道は登り道へと変わる。山の斜面の村を越え、尾根を越える。もう、そこは深深とした谷あいの森だ。もう2時間近く歩いている。
「しーっ」
ガイドはそう言って指をさす。一同に緊張が走る。
豊かな毛に全身覆われたマウンテンゴリラ。神々しい姿が指差すほうにあった。
シルバーバックと呼ばれる背中の毛が薄色の大きなゴリラ、雌のゴリラ、小さいゴリラもいる。シルバーバックは強欲な爺のような表情でむしゃむしゃと草を食べている。赤ちゃんゴリラはお母さんにしがみついている。ぬいぐるみのような子供のゴリラは好奇心旺盛のようでこちらに近づいてきたりして様子を伺っている。その仕草がかわいらしい。僕たちはそんなゴリラの家族と1時間一緒に時間を共有した。
ゴリラの家族と共有したその時間は夢のなかのように、ふわふわとしていた。つかみどころのない世界。それはイルカと一緒に泳いだときにも感じる不思議で心地よい世界。くりくりとした黒目の多い瞳、器用に葉や果物をつかんでいた人と同じ手のひら、手ざわりの良さそうな毛並み・・・そういったものが思い浮かぶが悲しいくらいそれは現実感を失っている。感動的な出会いというものはそういうものらしい。
それはとても素晴らしい体験でした。(昭浩)
ゴリラの森ブウンディ国立公園。ゴリラは最高だけどアクセスは最悪。
昨日、ゴリラトラッキングを終えてブトゴタという町に向かうつもりだったので、タクシーを手配していた。そのタクシーの運ちゃんが約束をぶっちぎってくれたため移動手段がなくなってしまった。怒り狂った映子は、夕方もう日が沈もうというときに、国立公園からブトゴタまで14kmの距離を、私は歩いていく、といって歩き始めてしまった。ゲリラがいるため一般的に危険といわれているウガンダとコンゴ国境そばの夜道を歩くのは気がひけたが、映子の怒りのエネルギーは恐れをしらない。
しばらく歩いたあと、乗り合いピックアップがたまたま通りかかったので無事ブトゴタに着いたが、あのまま明かりのまったくない山道を歩いていたらと考えると少しこわい。
そして今日僕らは往生していた。
途中まではローカルのバスがあってきたが、それ以上はピックアップの乗り合いタクシーを見つけなければいけない。たった1台止まっていた車と交渉する。
「カバレまでいくら?」
「1人30,000Ush(1,800円)」
「それ高すぎでしょう。もっと安くしてよ」
「ブッシュが戦争を起こしたから石油の値段があがっているんだ。ほかのみんなだってそれだけ払っている。お前は戦争についてどう思うんだ?」
(バカいってんじゃないよ。お前と戦争について討論したくないし、そんなにこっちはヒマじゃないんだ。)
僕はその男を無視して、荷台に乗っているほかの乗客に尋ねる。
「カバレまでいくら払ったの?」
「30,000Ush(1,800円)だ。」ある男がそう答えた。それは絶対ウソだ。ウガンダのGNPが26,000円くらいなのにそんなはずはありえない。その乗客もグルなのだ。たぶんウソのつけない正直な人は黙っているんだろうが・・・
ボラれているとわかりながら2人で30,000Ush(1800円)までまけさせて、その車の荷台にのることにした。
これでやれやれ無事目的地に着くかと思ったら、そうはいかないのがアフリカ。車は途中でパンクした。最近、パンクぐらいじゃ僕らは動揺しない。あきれるだけ。パンクを直して再出発。しかし、すぐにまたパンク。さすがに予備のタイヤがないようで、そこで往生する。通りがかりの乗用車を僕らが乗ってきたピックアップトラックの乗務員がヒッチしてくれた。僕らが払ったお金の内からいくらかドライバーに払っている。ボッてはくるが、一応アフターケアーもするんだな。
カバレの町、丘陵地帯には茶畑とイギリスの植民地時代の名残の英国調建物がぽつりぽつり、低地にはやや老朽化したコンクリートの建物がぐっちゃりと通りにそって建っていた。今日でウガンダともオサラバさ。(昭浩)
●ルワンダに行こうと思った理由
正直いうと虐殺記念館なんてものは見たくない、それが本音。そのテのこわいものがあまり好きじゃない。僕は、ホラー映画だって決して見ないタイプの人間なのだ。社会勉強をしようなんていう高尚な意思もあいにく持ち合わせていない。
もらったガイドブックにこんなことが書いてあった。
「ルワンダ人たちは温厚な性格でフツ・ツチ両部族は同じ土地で同じルワンダ語を話し平和裡に共存していた。アフリカ社会ではめずらしいことだが異部族間の結婚も行われ、政府閣僚にも両部族出身者がおり、学校の教師はツチ族が多かったがフツ族の人からも尊敬されていた・・・」
確かにそのとおりなのかもしれない。しかし、僕は違うと思った。まだ10年もたたないのに、あれほどのことがあって、そのわだかまりがとれているはずはないのではないか。本当はどうなんだ?
それともう一つ。僕があの事件をTVで見たとき、フツ族は凶暴なやつらだと思った。僕は旅のなかで、どんな国にも例外なくいい人もいれば悪いやつもいるということを学んだ。だからひどい虐殺や殺戮のあった国でもやったのは一部の人で、他の善良な市民はいい人に違いないはずなのである。それをいって確かめてみたかった。そんなことが2,3日の滞在でわかるはずはないけれど。
ルワンダ入国は茶番から始まった。
それはウガンダシリングからルワンダフランへと両替したときのことだ。僕が渡したウガンダシリングの札の数が足りないとやみ両替屋が言いがかりをつけてきた。こういう手口でだまされることがあると以前聞いた。札を数えている間に手品師のように袖の中かどこかに札を隠してしまうのだ。
「ちゃんと渡したハズだ!」
「だったらもう一度渡した札を数えてみろ!」
お互いケンカ腰である。
そのとき僕の頭の中で何かが急に降りてきて、自分の間違いに気づく。17万4000ウガンダシリング分のルワンダフランをもらっておきながら、15万4000ウガンダシリングしか渡していなかった。
「ごめんごめん、僕の勘違いだったよ。」
相手は納得いかない表情だったが、「もういいよ」といったジェスチャーを見せていた。
「あきのじー(僕のこと)、しっかりしてよ。茶番はやめてよね。」
映子はすっかりあきれていた。
両替のときとは対照的に国境越えはいとも簡単であった。
0000000000000000000000000000000000000
「ルワンダは、H I L L Yな国よ。」
ウガンダであったスイス人のサンドラが言っていたとおり、ルワンダは、うねうねと丘が続いていた。牧歌的な風景のなかの並木道をバスは走る。ウガンダとの国境から4時間ほどで、ブルンジとの国境の町ブタレに到着した。小さな国だ。
人々は景色のようにのんびりとした様子。自然にフランス語を話す。黒人にボンジュールと鼻にかけたアクセントであいさつされるのには少し違和感を覚える。
ブタレの宿でアレックというルワンダ人は僕たちに尋ねた。
「君たちはこれから虐殺記念館に行くんだろう。どうしてそんなところに行くんだい?」
「僕たちは1994年のことはニュースでしか知らない。ニュースから伝わることと現実というのはたいてい違うだろう。だから行くのだ。」
アレックは何かを考えて、思い出しているような表情をしながら静かにこう言った。
「そこへ行ってみても虐殺の状況は想像できないよ。決して想像なんかつくもんじゃない・・・」
アレックの言うとおりだ。そこに何万体のミイラがあったとしてもそこから当時の状況、人々の恐怖というのは想像できないだろう。
「虐殺のことについて話をしよう。」
アレックが切り出した。
「この国には2つのグループがある。1つがフツ族で、もう一つがツチ族だ。フツ族は人口が多い、しかし、経済的にはツチ族がパワーを持っている。」
「君はフツとツチどっちなんだ?」
僕はストレートにたずねた。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
アレックスは恐れ驚いた様子。
「僕がフツかツチかは話の中から推測してくれ」
そう言って話を続けようとしたとき、何人かの客がレストランに入ってきた。アレックはキョロキョロとして落ち着かない。
「このことを説明するのは難しい。他の人に聞かれたら僕が危ない。」
虐殺の話はどうやらダブーのようだ。そういった話はあまりしないほうがいいように思えた。
「じゃあ、この話はまたの機会にしよう。でも、今ではこの国は安全だし平和なんだろう?」
「いや違う。今でも毎日人が死んでいるんだ。平和なんかじゃない。」
これまで長い間繰り返されてきたフツとツチの虐殺の歴史の傷は簡単には癒されるものではないようだ。
僕たちは明日虐殺記念館に行く。(昭浩)
木のベッド上に白い人の形をしたものが放置されている。もともと学校の教室だったその部屋に何十体もある。中は鼻を刺すような強烈な腐敗の臭いが充満している。大人、子供、赤ん坊、すべて白色ミイラ化した人間。顔もわかる。
これらは何だ?
TVの画像でも見ている気分だ。そこから虐殺の悲惨さが伝わってこない。頭の中のどこかの回路が遮断されているじゃないか。異様な光景をうまくのみこめない。その臭いだけが、それが生き物であったことを物語っている。
何のためにこの記念館はあるのだ?もう二度とこんなことが起きないよう、人々の記憶から1994年の虐殺の歴史を忘れ去られないようにするため?世界の人々・未来の人々に悲惨な史実を伝えるため?
僕がこの記念館に来て思ったことはこういうことだ。この記念館には意味があるのか。僕たちがここを訪れることに何の意味があるんだ。ここを東アフリカ最大の見所という人はいるけど、僕はまったくそう思わない。見ているだけでシアワセな気持ちにさせてくれるマウンテンゴリラのほうが100万倍いいと思った。(昭浩)
ルワンダには3日しかいなかった。だからこの国について語ることはできない。でも、そこに形の見えない影を感じたのは確か。例えば、僕たち日本人が酸鼻極まる南京大虐殺の歴史を聞かされたり、北京の抗日記念館にある日本虐殺館を訪れたりしたときに感じるイヤーな気持ち、ブルーにさせられる気持ち、そんなものが重い空気をつくって、足元に澱んでいる。普段その空気を吸うことはないけど、たまにそのイヤーな空気が鼻をかすめたりする。そういったものがあるように感じた。だから、ルワンダを抜けて少しホッした、それが本音。(昭浩)