5月17日〜5月29日
朝5時くらいから、外は騒がしい。自転車タクシー(通称チャリタク)の兄ちゃんの「マイフレンド、レッツゴー、マンディンバボーダー」という声も聞こえてきた。6時に国境が開くということは知っていた。でもお疲れ気味の私たちは、6時に起きて7時に出る予定だったのだ。
実際は、7時よりも早く出た。チャリタクの兄ちゃんが、私たち2人に対して、5,6人待ち構えている。私は、一番座り心地のよさそうなチャリを選んだ。兄ちゃんの名前はジェームス。こいつがまたいい奴だった。坂道やガタゴト道で「降りようか?」と言っても「No」 と言ってがんばってくれた。それに比べて、あきちゃんの方のチャリタクの兄ちゃんは、ヘタレな上に後から「もっと金をくれ」と言ってきたのだ。
マラウイ側の出国はスムーズだったのに、モザンビーク側で少しもめた。1人10ドル払えと言うのだ。レシートを見ると、2人で2ドルくらいの価値のモザンビークの通貨の金額だ。即、その辺の闇両替の兄ちゃんから両替して払った。しかし、もういきなり英語が通じず、ポルトガル語のみである。つらい。でも、数字はスペイン語と同じ、他にも同じ単語が多いようだ。
バスデポット(バス乗り場)でジェームスたちと別れ、クアンバ行きの車を待つ。朝早くに車は出てしまうと聞いていたので、「今日はもう来ないかもね」なんて言いながら、卵サンドを食べていた。
大きなトラックが現れた。クアンバに行くという。中は結構広くて、何人か座れるようになっている。ラッキーだと思ったのもつかの間、道は悪いし、よく故障するし、もう散々だ。あとから出たはずのピックアップトラック3台くらいに抜かされた。挙句の果てに、最後少し歩かされて、マーケットではドライバーの買い物のため待たされた。9時に出たトラックがクアンバに到着したのは、夕方5時ごろ、もうクタクタだよ。(映子)
クアンバからナンプラ間のモザンビークの列車のなかはたいへんな状況だった。
3等車両の座席は3人がけの固いベンチイスが向かい合ったボックスシート。この3人がけに4人の人が座る。3人がけに4人、これはアフリカの常識だから驚かない。問題は野菜。
ちょくちょく停まる駅ではそのあたりの畑でとれた野菜や豆が売られている。産地直売ってやつだ。それらを乗客のほぼ全員が「お前は八百屋か!」というくらい大量に買い込む。駅に着くたびに駅で仕入れたものは車内で積まれていく。通路や荷台に乗せられた荷物のさらに上やあらゆる座席の下に。ちなみに僕の座席の下には大量のキャッサバ、豆の入った大袋、生きたニワトリ2羽(たまに暴れる)が押し込まれている。
通路に立っている人々は厳密に言えば通路に積み上げられたキャッサバの上に立っていることになる。しかも山の手線のラッシュアワーのときのような混雑ぶり。
始発から乗っている僕たちは座っていられるのでラッキーなのであるが、こんな状況ではとうていトイレなんかいけない。それにトイレの中は積まれたキャッサバでいっぱいに違いない。小さい子供は窓からおしっこをし、ビニール袋のなかにウンコをする。
そんななかで朝5時から9時間以上もイスにへばりついている。それがモザンビークの列車の旅である。(昭浩)
確かにそこは、昔へとワープしたような雰囲気がただよっていた。
車一台分の幅しかない細い橋がかかっていた。2km以上ほどあるその長い橋が外界との唯一のパイプ。橋の下は透き通った南国の海。そこを渡るとそこにはずいぶんと昔から時間の止まった空気が流れていた。
19世紀のポルトガルの植民地時代の町が風化している。建物がそのまま使われているところもあれば、壁や天井がくずれて廃墟のようになっている建物もある。人の姿はまばらで車は走っていない。強い海風だけがぼうぼうと吹いていた。
幅500m長さが3kmほどの小さな島は、まるで古いフィルムの中のような色褪せた風景だ。海と空の青だけが鮮明で、本来美しいパステルカラーだった黄色やピンクやオレンジの壁はどれも古びていた。
Time-warp atmosphereと英語の本は紹介していたが、まさにそんな世界だった。(昭浩)
(参照:モザンビーク島へ行ってきました!)
朝一からバス乗り場まで歩いた。ほぼ島の端から端まで歩いたことになる。7時だというのに、すでに日差しは強い。でも朝の風が心地よい。
サンセバスチャン要塞へ行った。中は広く、多くの兵隊がいたことがうかがえる。トイレもいっぱいある。そして、おそらくこれがガイドブックに載っていた「真水が湧いている場所」だろう、プールのような水がたまっているところがあった。でも今は、ゴミがたくさん浮いていてとても汚い。
城壁のところには、大砲がたくさん並んでいる。一つ一つに、ポルトガルの印か、王冠マークがついている。そして、年号だろうか、1823、1824などと書いてあった。
朝3時過ぎにごそごそ起きだした。3時半くらいにはほぼ出発の用意ができていたけれど、バスのおっちゃんが部屋まで呼びに来てくれたのには驚いた。「Let’s go」実はドライバーだったそのおっちゃんは言った。下に降りてみてまた驚いた。ほとんどの乗客がすでに乗り込んでいる。そして、私たちの席には、すでに間違って座っているおやじがいる。(本当はお兄ちゃんと呼ぶくらいの年かも、だけどムカつくからおやじで良いのだ。)そいつは、席が違うと何度言ってもすまして座っている。最後はバスの係のおっちゃんに言われてやっと席をどいた。ざまあみろ、思わず「バーカ」と言ってしまったが、ポルトガル語では、牛のことなのだ。まあほめているとは思わないだろう。はっはっはっ。
ミシュランの地図どおり、途中で道がとっても悪い地帯があった。ほぼ4時ちょうどに出発したバスは、明るくなった6時ごろに一度トイレ休憩。男はバスの前、女は後ろと分かれてみんなすごいとこで、すごい格好で用を足してる。とても直視できないけど、立ってやってる人がいた。みんな地雷がこわいのか、草むらの中には入っていかない。
超悪い道が終わる、モロケという町に着くと食事休憩。それから、モクバという町まで、道は再びあまりよくなかった。アスファルトが壊されていたり、橋が壊されていたり、内戦のため、だろうか。
カイアという町に着いたのは、4時ごろ、いよいよザンベジ川を渡る。今にも沈んでしまいそうな、船とは呼べないような、イカダのようなものに、バスと大きなトラックと私たち乗客を乗せて動き出す。意外と速い。しかし、待ち時間が長かったせいか、対岸に着いたときにはもう5時ごろ。そしてさらに食事休憩。だが、たいした食べ物は売っていない。魚か、クッキーか・・・パンがかろうじてあったので買う。30分後にバス出発。
新しく2人の欧米人が乗ってきた。私の横に来たのは、スペイン人のカルメン。マヨルカ島出身。その前の席にだんなさんのガブリエル。聞くと、彼は熱があり、マラリアかも・・・と言っている。彼女も3日前にマラリアになったと言うので、私たちのケースと同じだからきっとそうだと話した。そして、夜9時ごろ、ゴロンゴサに着いたときに、私たちが持っていたマラリアの薬をガブリエルに渡した。今夜はここにバスが停まって、一泊だ。私たちはバスの中で眠った。
翌朝4時にバスは再び出発した。ずっとバスの中にいるので、寝たような寝てないような感じでまだまだ眠い。まだ暗い中、ベイラとの分岐点でバスが止まる。なんだかよくわからない停車だったが、その間にカルメンが木彫りのブレスレットを買ってきて、私にくれた。多分、昨日の薬のお礼だと思うけど、わざわざそんなことも言わず、さりげなく自分とおそろいのブレスレットを買ってくるなんてにくいなと思った。彼女のその気持ちがとてもうれしかった。
小さな川をいくつか渡り、今日も大きな川を渡るのは知っていたが、私が寝ている間に大きな橋を渡ったらしい。すっかり見逃してしまった。残念。あきちゃん、起こしてよー。道はすこぶるよくて、バスはわりと飛ばしている。カルメンは本読んでるし、あきちゃんは寝たり空想にふけったりしてるし、私は昨日と違って真ん中の席で景色が見づらいし、暇なのでよく寝た。
窓から見える風景は、森、サバンナ、キャッサバ畑、そして人々の家はわらぶきで丸いものが多いように思う。ガブリエルは薬が効いたのか、目に見えて元気になってきた。時々笑顔もこぼれるくらいに。4人ともマシシで降りて、2人はイニャンバネ行きの船に乗りに、私たちは宿探しへと別れた。そうして、長かったマシシまでのバスの旅は終わった。(映子)
「地球をライブする」
これは昔のエービーロードのCMコピーだ。まだ学生だった僕はエービーロードのCMを見て、曖昧なニュアンスだけど、そんなことがしてみたい、そう思っていた。その言霊が現実となって今の僕たちの状況があるんじゃないかって思える。
バスのなかで朝を迎え、夕日がアフリカのサバンナに沈むのをバスの窓から眺める。いろんなことを思い、考え、そして眠る。長いバスの移動は、地球の上に自分の足取りを線で結びたい、そんな旅を実感させてくれた。(昭浩)
そこにはすばらしいダイビングスポットがあるときいて僕たちはトーフというところを目指している。昨日泊まったマシシというところからボートで湾を渡り、イニャンバネというところまで来ていた。ここからトーフまで20km、乗り合いトラックでそこへ目指す。しかし、あいにく今日は日曜日。乗り合いトラック乗り場にいても人はまばら。乗り合いトラックの客引きの兄ちゃんが言い寄ってきた。
「今日は日曜だから人は集まらない。10万MT(500円)でお前たちだけのためにトーフまでダイレクトにいってやる。」
ゴー・ストレイト・ダイレクトリーとそれを殺し文句といわんばかりに言ってくる。
そのまま待っていても埒があかないのでその乗り合いトラックにのることにした。僕がOKといった瞬間、「今までどこにいたの?」って人がぞろぞろでてくるではないか。そして荷台に乗り込んでくる。
(なんだいこりゃ、これは俺たちのチャーター便じゃないのか?)
さらにトラックの兄ちゃんはトーフ!トーフ!と他の客を集めはじめる。客引きが勢いよく声をあげるたびに僕らは力なくうなだれる。他の地元の乗客は5,000MT(25円)しか払っていない。
やるせない気持ちでいっぱいだったが、僕たちが納得して決めた値段だ。無事にトーフに着ければヨシとしよう。
・・・しかし、そんな負け惜しみもむなしく僕らを乗せた軽トラックは止まる。エンジントラブルのようだ。何度トライしてもエンジンはかからない。そこは山と畑に挟まれた何もないところだった。
仕方がないので僕らはその車に見切りをつけて降りた。いくら払おうか少し考えて、二人で2万MT(100円)渡した。ドライバーは半分の5万MT(250円)払えとジェスチャーしていたが、
「ノット ゴー ストレイト!」と言い捨ててその場を去った。
トーフに着いたときは肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。乗ってきた軽トラックを降りてから、かなりの距離を重い荷物を背負って歩いた。途中で親切で金持ちそうなモザンビーク人の車に拾われたからまだよかったものだが。
トーフでは、このあたりでは唯一安く宿泊できるファティマネストというところに泊まった。安いといっても備え付けのテントに泊まって600円もするのだから、テントで600円そりゃないでしょ、って気持ちになるのだが他に選択肢がないから仕方がない。しかも
そこにはあと2つのテントしか空きがないくらい混んでいたのだ。
その日の夜、映子がキレる。
9時頃から音楽のボリュームが上がり、なにやらパーティらしきものが始まった。バーのすぐ裏のテントで早々と寝ていた僕らはそれで起こされる。スーパーウーハーの大型スピーカーから腹の底から頭の芯までひびく低音バイブレーション、打楽器系リズム中心としたサイケデリックな音楽(60年代生まれの僕にとってはドンドンドーンの連続にしか聞こえない)、そんなのがそれからずっと続いた。眠れない。
映子がその宿をしきっているレゲエファッションのローレンスに「この音楽のボリューム下げてよ」、と言いに行ったが、まったく意に介せずといった対応をされ、映子はキレまくり。今度は怒りで眠れない。
リゾートとはリラックスするべきところだ。パーティはきらいだ。そう思うのは年とったせいなのかな。(昭浩)
はじめてマンタを見た。
マンタとは巨大なイトマキエイのことでダイバーのあこがれの対象となっている。僕は10年以上もまえからかねがねマンタが見たい見たいと懇切している者である。
トーフでの最初のダイビングでマンタが僕らの前に姿を現したときは感動よりも驚きのほうが大きかった。美しい流線型シルエット。妙に大きい。そんなものがなぜ水中を泳いでいるのか。しかも目の前で。ヒラヒラヒラヒラ。水中を優雅に飛んでいる。
その日のダイビングはマンタだけでなく、バラクーダの群れ、カツオみたいなやつの群れ、レオパードシャークといったエイのようなサメなどと遭遇でき、なかなか濃い内容のものだった。でも、やはりマンタに尽きるダイビングであった。(昭浩)
この日のダイビングは、一生に一度あるかないか、そのくらいの幸運に恵まれた、まさに僕のなかのベストダイビングであった。
潜行したときにその予兆はあった。水深25mほどの水底に着いたとき、僕のすぐ真横をマンタが通り過ぎる。そして見上げると違うマンタがまたもや・・・海ガメ、ハリセンボン、ハコフグ、モンガラカワハギなど、たくさんの魚のなかをヒラヒラと飛んでいる。
しばらくするとまたマンタが、しかも5枚、円を描くようにまわっている。おおっ!マンタの群れ!と思って見とれているといつのまにか自分たちを真ん中にしてまわりをぐるぐるとまわっている。前も後ろも右も左もマンタ!手を伸ばせば届きそうなところにいる。少し怖いくらいだ。
そのダイビングはそれだけではなかった。なんとも贅沢な話しであるが、ジンベイサメも見られたのだ。ジンベイザメをボートで追いかけてその近くでシュノーケリングする、というのはよく聞く話だが、スキューバーダイビング中にジンベイが見られることはたいへん稀なのだ。ここトーフでガイドをやっているスコットもはじめてだというのだから。
ここはちょっと自慢したいところなので少し強調しておきたい。最初に発見したのは僕である。普段はあまり見ないのに、なぜかそのとき、ふと上の水面を見上げてみた。すると巨大なクジラのようなサメのような影がこちらに向かってくるではないか。はじめ、自分の目を疑った。しかし、それはまぎれもないジンベイザメの特徴的なシルエットだった。
映子に向かって、「・・・」(口のなかでは、ワワワワワワーと叫んでいる)
上を見ろ!と暴れるように大きくジェスチャーしているのに、まったくあさっての方向を向いている。次にガイドのスコットに知らせようと必死にもがくが気づいてくれない。ダイブマスター講習生のエドワルドが近くにいたので、捕まえて、肩をつかみ、テメェ上を見ろっていうのがわかんねぇのか!てなイキオイで上を指す。ジンベイザメを見たのが自分ひとりだったら感動を共有する人がいないし、しかも本当にいたのかどうかの信憑性も疑われかねない。だから必死だったのだ。
その魚の怪物はくねくねと体を揺らしながら僕らの真上を通り過ぎていった。
全員エアーは十分あった。でもそれ以上潜っていられなかった。スコットから非情にも浮上のサイン。その時の僕たちは、またしてもマンタに巻かれていた。もう少しこのまま巻かれていたい・・・後ろ髪ひかれる思いだ。まわるマンタを見下ろしながら、少しずつゆっくりゆっくり浮上した。マンタはその姿が深い青のなかに見えなくなるまでずっとまわっていた。(昭浩)
ムカつくローレンスに別れを告げて、イニャンバネへ向かう。しかし、実は彼も今日マプトに行くらしい。私たちは、あえて彼の乗るエクスプレスのバスには乗らず、マシシから普通バスに乗ることにした。大きな荷物を持っての船の乗り降りは好きじゃないのだけれど。
マシシには、マプト行きのバスがたくさんある。しかし、すぐ出発した大型バスには乗りそこね、小さなバスも席がないと言われ、その次のバスにやっと乗る。そのバスはエクスプレスじゃないので、途中でよく止まる。人を乗せたり降ろしたりはもちろん、荷物も乗せたり降ろしたりしているようだ。乗ってる人たちも、よく買い物をする。バナナ、オレンジ、カシューナッツ、魚、などなどだ。
道は、とてもよくてまっすぐとどこまでも伸びているといった感じ。風景は果てしなくサバンナ地帯が広がる。牧草地帯の風景に変わった後、道の悪いところがあったが、それからの道はすこぶる良くて、ドライバーは飛ばしまくっている。今までちまちま止まっていたのを取り戻すかのように。いろんなバスに抜かれ、エクスプレスにも抜かれたけど、また何回か抜き返したのだ。しかし結局マプト到着は5時半ごろ、日は沈んでいる。そして、町中いろんなところに止まって、人を降ろすので、私たちがバスを降りてシャパに乗ったのは、6時半くらいだった。もう暗くて、すっかり夜だった。宿はトーフとオーナーが同じのファティマだが、ローレンスはいないし、スタッフは親切、とても良いところだった。(映子)
革命博物館 モザンビークについて、私はほとんど知らない。少しでも知ろうと思ってこの博物館に行った。幸いなことに、学生証を見せるとタダだった。説明がポルトガル語なので、わかったことは少ない。革命の主導者、建国の父の二人の顔はわかった。1975年に独立したこと、その後15年間内戦が続いていたこともわかった。そのせいで、未だに地雷が残っているところがあるのだ。
鉄道駅と鉄の家 どちらもエッフェル塔で有名なエッフェルさんの設計。駅はなかなか立派。鉄の家は、意外としょぼくて、見逃しそうになるくらいだが、個性的ではある。
要塞にも行ったけど、閉まっていた。手前の道で、バティック染めの布売りの少年に出会った。いつもは全然興味を示さないあきちゃんが、急にほしくなったのか、その布を買ったのでびっくりした。宿に戻ると、歩き疲れた私は、ロンプラを読みながら寝てしまった。(映子)
モザンビークのなかでもマプトだけは特殊な街だった。マプト以外がたいへん田舎なので、そこだけが驚くほど都会に感じられる。もうここはモザンビークではなく南アフリカ共和国の一部じゃないの?って雰囲気。レストランも宿も質が上がって、少しほっとしている。予約したケープタウンに向かうバスもトイレの付いたきれいな豪華バス。もう泥くさいアフリカの旅も終わったのかな、今の僕たちにとってそれはうれしい期待であった。(昭浩)