8月23日〜9月23日
僕たちの乗ったイベリア航空6050便はアンゴラ、コンゴ、カメルーン、ナイジェリアといったディープなアフリカの上空を越え、朝7時前にはマドリッド国際空港に到着した。そこで国内線に乗り換えてバルセロナに着いた。
ここでプロブレム。僕の大きなバックパックが出てこない。そこにあるすべてのターンテーブルをくまなくチェックした。3時間くらい他の便で来ないだろうかとマドリッドからの飛行機が着くたびにチェックを繰り返した。が出てこなかった。
これまで中国から南アフリカまで問題なく一緒に来たバックパックが飛行機でロストバゲージなんて。ビジネスクラスにアップグレードされてもロストバゲージじゃあ割りにあわないよ。夏の太陽がまぶしいバルセロナの空とは対照的に僕の心の中は暗雲で真っ暗。幸先が悪いスペインだった。(昭浩)
飛行機から、バルセロナの街が見えてきた。7年ぶりになる。サグラダファミリアが見えてきた。7年前のあの時、もう一度来ようと思って飛び立ったけれど、本当に来れるとは自分でも思っていなかった。
宿に向かう地下鉄のホームは暑くて、汗びっしょり。さらに駅から歩いたので、汗だくだった。ひさしぶりに、しかも急に夏が来てしまった。南アフリカでは寒い寒いといっていたのに・・・。
宿から歩いていける観光地、グエル公園へ行った。前回閑散としていた冬のグエル公園で、へんなおっさんに追いかけられそうになったのを思い出した。その時はおかげであんまりゆっくり見ていなかった。今回は夏、びっくりするくらいたくさんの観光客がいた。ガウディが住んでいたピンクの家へ行く。中には、すわり心地のよさそうな木のイス、クッション付の1人掛けのイス、明るい書斎、ベッドルームなどがある。昔来たけど中はあんまり覚えていない。
グエル公園の高台から眺めたバルセロナの街は、昔と変わったような気もするし、変わっていない気もする。ただ、この街に私はまた戻ってくることができたんだなあと思った。(映子)
違和感を覚える。まったく黒人がいない。これまでスーダンから数えて約7ヶ月、常に黒人がまわりにいた。黒人が全然見あたらないというのは、何かが欠けているように感じる。ヨーロッパに来たんだなあ、そう思った。ずっとアフリカにいたから世界の見え方がかわっているのだろう。(昭浩)
7年ぶりのバルセロナを観光してみると、ピカソ美術館では見たことのある絵があまりないと感じ、サグラダファミリアはかなりできていて、中に博物館もできているのですごいなと感心した。パエリャ2人分を1人で食べたあのレストランはどうも昔とは違う。という風についつい昔のことばかり思い出し、思い出のかけらを探そうとしてしまう。でもそれはあまり意味のないことなんじゃないかと思い始めた。今を生きること、楽しむことこそ大切なんじゃないだろうか。(映子)
久しぶりに観光したのですっかり疲れてしまった。ツーリストがやたら多いので人酔いしているのかもしれない。疲れていても、日没が8時半ごろなため、つい夜更かししてしまう。南アフリカの日没は6時。夜は外にはほとんど出ることはないから、9時や10時には寝てしまう。しばらくそんな生活をしていて、急にはなかなか慣れないものだ。
ヨーロッパは物価が高いから長くは居られない。短時間でどれだけ回れるかが勝負だ。疲れていたり睡眠不足だったりしても、どこかでのんびり過ごすというのは難しい。ヨーロッパの旅というのは体力を使うハードなものになるのではないか。覚悟して旅しなきゃ。(昭浩)
初めてくる街なので、昔はこうだったとか、思い出に浸ることもなくてよかった。古い建物より、新しい建物のほうが多い気がする。ヨーロッパ的な教会がたくさん立ち並ぶ、大都会。私にとってはバルセロナよりもヨーロッパを感じさせる。きれいな街だった。(映子)
バレンシアでは時報がわりにチャイムが鳴る。街のなかを響きわたるチャイムは、懐かしい学校のチャイムと同じ音。昔からこの習慣は続いているのだろうか?夜中まで鳴っている。日本だったらクレームが出て、そういうものはすぐになくなってしまうものだが、ヨーロッパって過去からの習慣や雰囲気を残そうとする意識が強いのかな。こういうのっていいな。(昭浩)
8月最後の水曜日、毎年バレンシア近郊の町ブニョールでは、トマト祭りが行われる。僕たちはこの祭りを見るため、その日程にあわせて南アフリカから飛んできた。
朝9時ごろの電車に乗ってブニョールに向かう。車内はトマト祭りに参加しようとする人たちでいっぱいだ。ゴーグルを首にかけてやる気まんまんの人たちも大勢いる。日本人も多くみられる。ハッピをきている若者、柔道着と浴衣姿のカップルもいる。
30分ほどでブニョールに着いた。そこから人の波の流れにのって町の中心部へ。そこではワインやホットドッグが地元の人々の奉仕で配られていた。
参加する人々は大きく3つのタイプに分かれる。超やる気戦闘態勢バッチリのフーリガンを思わせる怖い感じのお兄ちゃんたち、そしてあくまで観光でトマトを投げ合わなくてもただ見られればいいという人たち、最後に僕たちのように、痛い思いはしたくないけどちょっとはトマトを投げてみたいそんな人たちだ。
人の流れに進んでいたらいつのまにか僕らは祭りの行われる通りの中心部にいた。不本意にも戦場のまんなかにきてしまっていた。そこからは、人が多くて前にも後ろにもいけない。
はじまる1時間も前から通りには人がいっぱい。河口湖マラソンのスタート直前の雰囲気を思い出させるが、人の密度が全然ちがう。まわりの建物の屋上で見ている人が上から水をかける。たいへん蒸し暑いので、それはありがたい水のようだが、僕らのいる場所には幸か不幸かかかってこない。
テンションがあがってくる。僕たちは祭りがはじまってもいないのにすでに興奮する人々のるつぼのなかにいた。「オーレ・オレオレオレー」人々は歌い、手を上げ、叫ぶ。どこからでてきたのか緑色の大きな風船が人波の上をはねている。誰かが脱いだぬれたTシャツが飛び交いはじめる。女性のブラジャーも飛んでいる。僕たちの立っている場所のすぐそばではたきあいがはじまった。ぬれたTシャツではたきあっている。まわりの無抵抗な人々にもはたいている。フルチンではたきあっているものもいる。どさくさのなか、建物の壁によじ登ってマスをかいているものもいる。興奮のるつぼは狂喜のるつぼへと変わっていた。
12時ちょうど空砲の合図が鳴った。遠くからトラックが密集の人々をかきわけてやってきた。トラックの荷台からトマトがごっそりとおろされていよいよトマトの投げ合いがはじまった。硬いトマトが容赦なく飛んでくる。顔面直撃をくらうとアザができそうだ。僕らも負けじと投げ返す。だんだんと体中がトマトの汁にまみれてくる。トマトのすっぱい匂いでいっぱいになる。目はトマトの汁でしみてくる。3回ほどトラックがやってきてはトマトを落としていき、そのたびに火に油をそそぐかのように、戦闘は激しさを増していった。
長い1時間のバトルは空砲の合図とともに終わったが、通りではまだ興奮さめやらぬ様子で、しばらくトマトの投げ合いはつづいていた。タンカで運ばれている女性もいた。
祭りは終わった。みんな頭からつま先までトマトだらけだ。町の人たちがいたるところで水を用意していて、汚れた人々に水をかけていた。(昭浩)
バレンシアからバルセロナ行きの電車は少し遅れて発車した。とはいっても、他の電車はもっと遅れてたから、たいしたことはない。隣の電車なんて、でかいバックパックを背負った女の人が、走り始めた電車に乗ろうとして振り落とされるなんてことがあった。そのせいでさらに遅れていた。
バルセロナ到着は夜9時ごろ、宿に着いたのは10時、すでにダブルルームはフルで、ドミトリーしかなかった。そこは、2組のカップルがいちゃつく、地獄のように暑い部屋だった。耐え切れず水を浴びて戻ってくると、アラ不思議、ウソのようにすずしい。だけどやっぱりヨーロッパの人はおかしい、と思う。こんなに暑いのに、ファンもない部屋で裸で抱き合ったりなんかして、あー暑苦しい。
再び耐え切れなくなって外に出て涼んでいると、火星が見えた。昨日が一番地球に近づく日だったとか。星は数えるほどしか見えないこのバルセロナで、一際明るく輝いていた。(映子)
前回もなぜか見逃したカタルーニャ音楽堂、今回も行ってみたが入れず。コロンブスの塔、ランブラス通りは昔と変わっていない。が、火事で焼けてたリセウ劇場はきれいに出来上がっている。グエル邸では、ガウディのいろんな工夫に感心。カサ・ミラは外から見ただけ。そして再びグエル公園へ行って夕涼み。
今日はバルセロナ最後の夜、ライトアップされたサグラダファミリアを見ながらディナーを楽しんだ。2回目のバルセロナだから、ガイドブックなんてなくても大丈夫と思って持ってこなかったけれど、甘かった。私はこの街のことをまだ何も知らない気がする。(映子)
バルセロナからマドリッド方面へ電車で5時間のところにあるサラゴサという町へ行った。南アフリカのオーバランドツアーで知り合ったフアンチョとクリスティーナがそこに住んでいるので会いに行ったのだ。
サラゴサ駅に着くとすぐにふたりは現れた。ひさしぶりという感覚はないが、ツアー中とはいくぶん違った感じにふたりがみえる。人は旅のなかでと地元のなかでは、やはり違うものになるのだろう。
スペイン式の両頬にチュッチュッとする挨拶に少し戸惑いながら再会を喜んだ。
フアンチョは新型のホンダシヴィックでサラゴサを案内してくれた。サラゴサなんて聞いたこともない町だったので、ツーリストインフォメーションがあること自体驚かされる。日本人もたまにくるらしい。
イスラム教とキリスト教、ふたつの様式がミックスされた建物が珍しかった。イスラムタイルで装飾されているのにそれはモスクでなく教会なのだ。あとで知ったことだが、それは世界遺産にもなっている。
町の中心にある日本武道館をふたつ並べたくらい大きなカテドラルは、たくさんの彫刻と絵で装飾されていて美術館のようだった。GOYAという有名な画家の絵も丸い天井に描かれていた。
サラゴサは見るべきものがないとフアンチョは言っていたが、なかなかやるもんである。
しかし、それよりも新鮮に映ったのは夜の街であった。
連れて行ってもらったバルは、フローリングの床にカウンターとテーブルが少しあるだけのところで、ほとんど人々は立ったまま飲んだり、カウンターに並んだ数え切れないほど多種類のタパスと呼ばれる小さなつまみを勝手に食べている。お金は自分が何を食べたか自己申告して飲み物代と一緒に払う。その開放的で、いいかげんで、気ままな雰囲気が日本のお店にはないものだ。客層は、お年寄りの婦人グループ、若いカップル、子供づれの家族やおじさんたち、すなわち老若男女問わず、みんなそれぞれバルでのおしゃべりを楽しんでいる。
その日の昼はたくさんのごちそうをレストランで無遠慮に食べていた。スペインでは昼ごはんがメインと聞いていたので、では夜の分まで・・・といった貧乏根性も働いて気合を入れていっぱい食べた。夜は2,3軒バルを渡り歩きながらタパスをつまんだ。昼食べ過ぎたせいもあって、それだけでお腹がふくれてきた。だから、もう少し酒を飲んだら帰って眠ろうと思っていた僕は、これからレストランに行く、と聞いたときはウゲッと思った。 夜も遅いのにこれから晩飯だあ、意表をつかれたと同時にこんな遅い時間にレストランに行くということ自体がまだ信じられずにいた。
入ったレストランは地元でもおいしいと評判なお店で、料理は絶品であった。バルでタパスを食べて、だいぶお腹を膨らましてしまったことを心底悔やんだ。
食事が終わって、外に出たころはすでに夜中の1時ごろだったが、まだまだたくさん人が、夜はこれからだ、とばかりに、次のバルをどこにしようかウロウロしていたり、通りで出会った知り合いと立ち話をしたりして、たいへんなにぎわいをみせていた。恐るべしスペイン人。(昭浩)
フアンチョとクリスティーナ、そして義理のお兄さんミゲルと私たちの5人でパンプローナへ向かった。
途中で止まったオリテという小さな村には、立派なお城がある。お城からの眺めは最高。折しもお祭りをやっているらしく、広場には人が集まっていて、大きな人形とか、えんじ色の同じ服を着た人々が見える。
昔のように、大きな桶のようなものにぶどうを入れて、男の人2人が足で踏んでジュースを作る。それがワインになるというわけだけど、お祭りではそのジュースをみんなに配っていた。絞りたてのブドウ生ジュースだ。足で踏んでいるのを見ると、きれいなのかなあ?なんて思ってしまうけど、これがうまい!
パンプローナでは旧市街を歩いた。パンプローナは大きな都市だけど、旧市街は車が通れないような細い路地がたくさんあって、いい感じ。7月にあった有名な牛追い祭りを想像しながら歩いた。そして教会を見て、バルをはしごした。
パンプローナの近くの村に住んでいるフアンチョのおばさんちへ行く。こじんまりとした村なので、少し歩くとすぐにおばさんの知り合いに会う。バルに入っても知り合いばかり。今日はここでお世話になる。フアンチョも泊まっていくのかと思ったら、すぐサラゴサに帰るという。お別れは突然やってきた。急に訪れた私たちを本当に暖かく迎えてくれて、いろんなところに連れて行ってくれて、いろんなおいしいものを食べさせてくれた。本当にどうもありがとう。(映子)
フアンチョのおばさんが、ローマ遺跡へと案内してくれた。古い貯水場と水路がきれいにのこっている。おばさんは、元先生だけあって、一生懸命スペイン語で説明してくれる。土地や村の名前とか、貯水の仕組みとか、分からなそうにしていると、何回も説明してくれた。
ワイン工場でワインを試飲。うまいなあ。これ。買っていきたくなる気持ちをぐっとこらえる。
ローマ時代の橋(プエンテ・デ・レイナ)を見て、サンチアゴ・デ・コンポステーラに思いをはせる。
おばさんは小さな橋でバックしたときに車をぶつけた。びっくりした。しかしおばさんは、「この車もうすぐ買い換えるから」と平気な顔をしている。その後は順調だった。
バス停のカフェでお茶してからお別れ。おばさんもいろんなところを旅行していて、その土地の人たちと話をするのが楽しい、世界中の言葉が同じだったらいいのに、と言う。そして最後に「Estoy muy contenta.(私はとても満足よ)」と言ってくれた。
1時半発のビルバオ行きのバスに乗る。小雨が降ってきた。バスは山がちな道を走る。途中の小さな村々が美しい。
バスク地方の中心的な都市、ビルバオには3時ごろ着いた。南アフリカのオーバーランドツアーで知り合ったフリアンとイニャキはこの近くに住んでいる。イニャキが迎えに来てくれていた。雨が激しくなってくる中、イニャキの車でフリアンの家へ行った。バルで一杯やっていい気分のフリアンは両手を広げて迎えてくれた。
地下鉄でビルバオの街へ、フリアンが案内してくれた。川沿いのモダンな遊歩道を歩いて、フニクラールで山へ登り、町を見下ろす。古いものと新しいものが一緒になっている大都市ビルバオ、きれいだった。(映子)
フリアンは朝5時に起きて仕事に行く。私たちは、ゆっくり好きな時間に起きる。そしてふらりとイニャキのタバコ屋に出かけると、イニャキは私たちを待っていたようで、仕事の合間を縫って(お店を姪っ子にまかせて)、車でいろんなところに連れて行ってくれた。
海沿いにある小さな村でビールを飲み、うまいおつまみを食べる。そして大きなつり橋のような橋へ行く。別の日には、お城を見に行った。森の中にひっそりとたたずむお城。そしてビーチにも何度となく連れて行ってくれた。
フリアンは、いつも3時半に帰ってくる。仕事は2時に終わり、その後バルをはしごしてから帰ってくるのだ。それから昼食。その後は決まってシエスタをする。
夕方から、散歩に行った日もあった。近くの小さな村まで歩いた。大都会のビルバオとは違って、緑がいっぱいの静かなところ。「この木はユーカリ」とか、「この草はミント」とか言いながらフリアンは歩く。
シエスタの後8時くらいから出かける。そしてバルでの飲み歩きが始まる。最初は何も知らなくて驚いた。バルでは、1杯飲むだけですぐに次のバルへ行く。そしてまた1杯。日本のように居酒屋に1時間とか2時間とか長居はしないのだ。毎日、5〜6軒は平気ではしごする。最初の日は、ワインを飲んでヘロヘロになったので、次の日からビールにした。
支払いの仕組みもちょっと変わっている。バルに入って、もし友達がいたら友達が自分たちの分を払ってくれる。そして次のバルでは、自分が払う。つまりこれは、一緒に飲み歩くような友達の間に成立するルールのようだ。逆に自分が飲んでいるときに友達が来たら、友達の分を払う。
私たちはいつもフリアンと一緒に3人で現れるから、出会った友達は3人分払わなければならない。いいのかな?なんて思うけど、カップルで現れたり、1人や2人友達を連れてきたりするのは、そんなに珍しいことではないようだ。そうして飲み歩くうちに4人や5人になるから、順番に支払いをしていくためにも、4〜5軒のはしごはあたりまえなのだ。
さて、そうしてさんざん飲んで、家に帰ると夕食なのだ。すでに夜11時くらいである。もちろん食べるときもワインを飲む。お昼から飲んでいるので、一日のアルコールの量は半端じゃない。
朝早くから仕事に行くフリアンは、夕飯を食べてすぐ眠りに着く。私たちも食べてすぐ寝ると太るよなあ、と思いつつ程なく眠りに着くのであった。(映子)
山歩きの会に参加することになった。この山歩きの会というのは、日本でもよくある山歩きの会と同じようなもので、町内のハイキング好きの同士が集まって、月に1度か2度くらいのペースで山へ行くという趣旨の会なのである。
金曜日の夜にビルバオを出発した。山の会で貸し仕切られた大型バスほぼ満席である。40人くらいの参加者のほとんどは40から50歳くらいの中年の男女で占められていた。山登りやハイキングが中高年に人気があるのは日本と同じだ。
バスは途中ドライブインに停まった。どうやらここで夜ごはんを食べるらしい。この団体は、いくつかのグループに分かれて、ドライブインのレストランのなかのテーブルにそれぞれ陣取る。飲み物だけそこのレストランで頼み、食事はおのおのが持ち寄った食べ物・・・フリアンの友達であるホセとオルガ夫婦はオムレツと野菜のフライを、仕切っているけどいつも酔っ払いのようにフラフラしているおじさんは魚のフライ、人によく説教くさいアドバイスをするおやじは焼きブタ、ヘススという僕と同い年くらいの物静かな男(この男グルメとみた)は、1994年ものの極上ワインにたぶんこだわって選んだふうのチーズに生ハム、フリアンはアンチョビサンドイッチ・・・をテーブルに広げてみんなでシェアして食べる。広げた弁当箱から勝手に人のおかずをつまんで食べたり、人に自分の持ってきたものを、これを食え、とばかりに押し付けるようにすすめたり、そんな光景がレストランのあちこちで展開されているのである。(昭浩)
森のなかから突然つきでてきたような断崖が緑の高原を囲むように立っている。そこは僕のなかにあるスイスのアルプスのイメージと同じようなところだった。ピコス・デ・ヨーロッパなんて聞いたこともないところだったので、まったく期待なんてしちゃいなかった。しかし、すばらしい自然美の景色だった。
岩の断崖の上まではロープウェーを使って登る。壁の上と下では高度差が1000m。身震いする高度感だ。その壁の上側からさらにいくつもの尖ったピークが伸びていて、今日はそのひとつを登る。山登りといっても、登り2時間下り2時間のイージーなもので、登山と呼べるようなものではなく、いい運動といった類のものだ。
スペインでは山に登ること自体がメインではない。やっぱり楽しみの中心は飲んで食べておしゃべりすること。中腹部の草が生え広がる場所を選んで、昨日の夜も一緒だったみんなで囲むように座る。そこでまたおのおの持ち寄った食べ物と飲み物を出し、みんなでそれらをシェアするのだ。ワインはわざわざ山にまでボトルごと持ってきていたり、皮製のボダと呼ばれる水筒に入れてもってきていたり。それらを回し飲みし、わいわいとおしゃべりしながら、2時間ほど飲んで食べるのだ。
(この人たちはこのために山に登っているにちがいない。)
水と同量かそれ以上のアルコール(ワイン以外にもビールも持ってきていた)をかばんにいれて、山に登る。そこまでの執着は日本人の僕にとってはただただ感心するばかり。
それにしても、きれいな山の景色のなかで生ハムやチョリソと飲むワインは、何事にもかえがたいシアワセな気分にさせてくれたのであった。(昭浩)
緑に映えるオレンジ色の屋根、それもやはり僕の中のアルプスの村の景色だった。
ピコス・デ・ヨーロッパの基点となる町ポテス、町の中にはデバ川という小川が流れている。この川にかかるローマ橋、石畳の細い路地、そんなものが中世のヨーロッパの雰囲気の町が美しい山に囲まれた場所にある。
ここは観光客がたくさんくるところらしくお土産屋も多い。ワイン、りんご酒、チーズ、チョリソ、生ハム、ポストカードなどが売られている。もちろんバルも多い。僕たちも3軒はしごする。バルではまたしても生ハムざんまい。
かなりいい気分になったところで、おいしい牛肉で有名なレストランに連れて行ってもらう。かつおのたたきのように表面だけしか焼かれていないスーパーレアーの肉は、柔らかく生肉のウマミがひきたっていた。その究極のステーキはやはり濃い赤ワインがよく合った。結局、今日も行き着くところは食べ物と赤ワインで、それがスペインでの山の楽しみ方だと、あらためて思い知らされたのである。(昭浩)
私たちがビルバオの新聞に載りました。
このあいだフリアンとイニャキの4人で昼食を食べに行った村で、たまたまツーリストインフォメーションに立ち寄ったからだ。
「日本人ですら来るこの村に観光に来てください。」という宣伝のような記事だった。フリアンはうれしそうにみんなに自慢していた。その日一日、私はその新聞記事をポケットに入れて持ち歩き、フリアンが説明するたびに自慢げに見せた。
その日の夕方、フリアンの友達の友達に会いに行った。その人は、日本人でスペイン人の女の人と結婚して今はマドリッドに住んでいるけれど、今ビルバオに来ているという。フリアンは、日本人同士で話がしたいだろう、と気を使ってくれたのだ。
ところが、行ってみるとその人はいなくて、フリアンの友達のじいさんとスペイン人顔の若い男がいるだけ。その若者はどうやらその日本人の息子らしく、日本語が話せるらしいが、「Hola(こんにちは)」と言ったきり、日本語は一言もしゃべらなかった。
私たちよりもフリアンのほうがすっかりがっかりして「Lo siento(ごめんよ)」 と言う。フリアンは全然悪くないのに。
この事件で私は思った。言葉が通じていても話が通じないことってあるんだなあ。私たちとフリアンとイニャキは言葉がよくわからないんだからもっと通じないかと思うけれど、そうでもない。言葉の問題じゃないのかもしれない。言葉よりも大切なものがそこにあるのだ。(映子)
風が強くて寒い日だった。朝は雨も降っていた。出かけるときにはやんでいたけれど、気分はあんまり乗らない。バスに乗って、サンセバスチャンってどんなとこだろう?とパンフレットを読もうとするがすぐに寝てしまった。
12時過ぎに到着した。フリアンをはじめ、ビルバオの人はみんな絶賛するサンセバスチャン。バスを降りたところは、特に変わった風ではない、普通の都会。何がそんなにいいんだろう?
宿が決まってから散歩をした。すぐ近くにビーチがある。海はすごく荒れていて、波が高く、海沿いの遊歩道まで波が打ち寄せる。遊歩道を歩くと濡れそうなので、海沿いの小高い山に登ってみた。そこからサンセバスチャンの街が見渡せた。海は荒れているが、街は静かだ。バルセロナと同じようなカテドラルが中心にある。大きな建物がたくさん密集している、なかなかの都会である。旧市街はそんなに古い感じではなく、こぎれいだ。
夜はバルをはしごした。おつまみが最高にうまい。結局おつまみを2、3軒でつまんでお腹いっぱいになってしまった。夜の散歩も楽しかった。川沿い付近、橋のところはロマンチックな感じ。ライトアップされたカテドラルも良かった。(映子)
ここに住んでみたい、僕は真剣にそんなことを思った。
サンセバスチャンは旅行で来るところというよりもゆっくり暮らすといい感じのところだ。きれいなビーチがあって、夜のバルにはおいしそうなタパスが山のように並ぶ。それだけなのだが、たったそれだけのことがたまらなく魅力的、そんなところだった。(昭浩)
午後のバスでフランス領であるサン・フアン・デ・ルスに向かう。国境を越えたはずなのに国境というものがなかった。いつフランスに入国したのかもわからない。
駅前でバスを降りるが、さて困った。地図もない、言葉はまったくわからない、ガイドブックもない、知り合いもいない、木から落ちたサル状態である。
それでも、道路標識をたよりにツーリストインフォメーションを探しだし、そこで情報を得、数少ない安宿を見つけ、そこにたどり着いたときは、一種の達成感のようなものがあった。
ツーリストインフォメーションは例外として、他のいかなる場所でも英語もスペイン語も通じない。ノイローゼになりそうなくらいフランス語オンリーなのだ。ボンジュールとメルシーはさすがに言えるが、いくら?というのも言えない。数字も1,2,3までしか言えない。ガイドブックの巻末によく書かれている旅の言葉のページ、あんなんでも大変役に立っていたのだなあとしみじみ思う。それすらない僕たちは今日、明日とどうすごせばいいのだ?(昭浩)
言葉がわからない。物価が恐ろしく高い。それがなければ、なかなかよいところであるようにも思う。
砂のビーチ、海を見下ろす小さい丘、丘の向こうは断崖絶壁が海に落ち込んでいる。ビーチ沿いのプロムナードを歩き、丘を越え、断崖絶壁までいって帰ってくる、それが毎日の散歩コース。ときどきベンチで休んで海を見ながらまったりする。
夜になればバルを飲み歩く、それがスペインに来て以来の夜のお楽しみ。・・・しかし、ここはビルバオやサンセバスチャンと同じバスクなのに、すっかりフランス化されていた。飲み歩くという習慣がないのか夜中に出歩いている人は少ない。開いている店は観光客相手のレストランだけ、しかもオフシーズンということもあってあまり多くはない。バルで飲み歩きはここでは無理のようだ。
やっぱり、どうも好きになれそうもないや。はやくスペインに戻りたい。フランスに来てまたさらにスペインが好きになった。(昭浩)
朝ルイ14世の家を見に行った。ルイ14世が住んだのはほんの40日間らしいが、おかげでここは観光名所となっている。絵がたくさんある応接間から、ベッドルーム、テラスのように眺めの良い部屋、キッチン、シンプルなダイニングへと続く。見学できるのは2階の1フロアーだけ。他の階は人が住んでいる。
次に、ルイ14世が幼いスペイン王女マリアテレサとの結婚式を挙げた教会へ。外から見ると何の変哲もない教会だが、中はなかなかの見ものである。
入ってすぐのところにぶら下がっている帆船、そして祭壇を見ると思わず「あっ」と声を上げそうになる。壁の色が、模様が、とても鮮やかなのである。一見布でも張っているかのように見えるそのきれいな壁は、明らかに今まで見てきたどの教会とも違うものだった。
ビルバオへと向かうバスに乗る。サン・フアン・デ・ルスから、フランスとスペインへの国境へは30分くらいで着く。とは言っても今は国境なんてないのである。多分この辺りであろうというところを通過したと言うほうが正しい。私たちの座席の前に座っていた旅行者らしき欧米人が運転手に何かを聞いた。
「No hay frontera.(国境はない)」というのがその答え。やっぱりそうなのだ。
フリアンちには4時ごろ着いた。久しぶりで話したいこといっぱいあるはずなのにうまく言葉にならない。夕方バラカルドというところまで散歩した。夕焼けがきれいだった。そこではおいしいガリシア料理を食べた。(映子)
イニャキの車でカランサへ行った。くねくねの山道をドンどこ登っていく。自転車で登っている人が多い。緑が多くて、木漏れ日の中を走るのは気持ちよさそうだ。1時間くらい走っただろうか、見晴らしのいい教会のところに来た。緑の山々の中に小さな村がぽつぽつある。 その景色は、まさにアニメのハイジの世界。
さらに走ると、秋吉台のようなカルスト地形の山がある。そこには、秋吉台と同じように鍾乳洞があった。ここの目玉、注目すべきポイントはエキセントリックな鍾乳石。ぐちゃぐちゃとなった木の枝のようなところが、天井のあちこちに見られる。思ってたより大きくて見ごたえがある鍾乳洞だった。
面白いなと思うのは、中国と同じようにあの鍾乳石の切り口はチュレトン(フィレ肉)に似ているとか、大きなあの塊はパイプオルガンに見えるとか、いちいち説明していること。国が違っても人間ってああいうのに名前付けたり、想像力を働かせたりするの好きだなあと思った。
次にカプリンというところへ行った。ここは、まあいうなれば子供の遊び場。恐竜もいるというので最初はびっくりしたが、もちろんニセモノだ。他にも本物の動物はたくさんいて、いろんな鹿やワシ、珍しい猫のようなヤツ、熊もいた。立派な角を持った鹿がファイティングしていた。(映子)
ビルバオ・アスレチック対マヨルカ、午後7時開始。
スペインでのサッカー観戦はとても楽しみにしていた。それはスペインでなくイタリアでもよかったのだが、どちらにしろ、本場、と呼ばれるところでのサッカーがどんなもんか見ておきたかった。今年からベッカムの入ったレアル・マドリッドの試合が見られれば本当はベストだったのかもしれないが、ホームのビルバオでビルバオ・アスレチックの試合というのも大変興味深い。なぜなら、ビルバオ・アスレチックはそのサッカークラブ自体スペインで2番目に古い歴史をもち、プレイヤーはすべてバスク出身の人たち、外人助っ人に頼らずこれまでずっと一部リーグをキープしている。スペインではほとんどのクラブが2部を経験しており、ずっと一部リーグにいるのは稀有の存在。それだけにビルバオ・アルレチックはバスクの人々の大きな誇りなのだ。その思い入れは日本人から見れば異常といえるものだ。
スタジアムに入ると当然ながら観客の99パーセント、いやたぶん100パーセントアスレチックのファンで埋め尽くされていた。赤と白の縞々だらけだ。
試合開始。持ってきたワインを回し飲みしながら、ひとつひとつのプレイに一喜一憂する。オーバーアクションなのはやはりスペインならでは。
ゴール!1点目をアスレチックがゲット。その興奮たるや、ワールドカップでの日本がゴールを決めたときさながらのハイテンション。隣の人と抱き合い、手が痛くなるほどの強いハイタッチ。
Jリーグ発足当時、川渕チェアマンが「Jリーグは地域に根ざしたものでなけらばならない」と言った言葉を思い出した。たぶん川渕チェアマンの理想とするサッカークラブ像というのは、このビルバオ・アスレチックのようなクラブなのだ。スペインの中でもバスクというところは、チャンスがあればスペインから独立したいとさえ思っているほどのところで、郷土への愛着が強い。だから、たかが国内リーグの試合でも、国際試合の重みを持つ。
試合は4−0でビルバオ・アスレチックが勝った。今シーズン3試合目にしての初勝利だった。
「君たちが応援に行ったから勝ったんだ。君たちはグッドラックだ。」
試合の後バルで飲み歩いているときいろんな人からそう言われた。
うれしかった。
Jリーグでどのチームのファンか?と聞かれてもぶっちゃけよくわからない。だけど、世界のなかでどのチームがファンか?と聞かれれば、迷わずビルバオ・アスレチックと答えるだろう。(昭浩)
たいへんおめでたい。阪神が優勝した。
僕は阪神ファンだ。本当いうとずっと阪急ブレーブスの大ファンだったが、阪急がオリックスになったときに阪神ファンになった。
阪神優勝のニュースはBBCニュースで知った。阪神の優勝は国際ニュースでも扱われるほどの事件なのだ。しかし、野球のシーンはまったくテレビには映らない。映るのは道頓堀に飛び込むちょっとおかしな日本人ばかり。スペイン人もクレイジーだけど、スペインにいると、日本人もかなりクレイジーだ。スペイン人もそう思っているに違いない。だってスペイン人の誰もが知っている日本語は、「コンニチワ」でも「アリガトウ」でもなく、「ハラキリ」と「カミカゼ」なのだから。(昭浩)
フリアンが荷物を持って帰ってきた。南アフリカから飛んできたときにロストした僕の荷物だ。 奇跡としかいいようがない。ほとんどあきらめていた。パソコンに必要な電源コードなどが入っていたため、日本でしか変えない必需品を両親に買って送ってもらうようお願いしていたくらいなのだから。
3日前に荷物が見つかったという朗報を聞いた。それから今日はくるだろう今日はくるだろうとジリジリと待っていたのだ。その知らせを聞くまで、実は3度も荷物が見つかる夢を見ている。それは正夢だったんだ。
僕のバックパックがロストしたのはこれで2度目のこと。一度目はパキスタン航空でケニアから帰ったときロストした。そのときは1週間くらいで日本の自宅にもどった。そして今度も約1ヶ月ぶりに戻ってきた。このバックパックはよほど僕から離れたくないのだろう。10年以上ずっと使っているこのバックパック、だいぶボロくなってきているがもっと大切にしてやろう。(昭浩)
「あそこの扉の向こうも展示ホールなんだよ」
映子に説明するため、そう言って丸めたパンフレットでその扉に向かって指さした。
そこに、たまたま日本人らしき人が立っていた。指された彼は、ニコニコと親しげな笑みを浮かべて近づいてくる。
(あれ?どうしたんだろう?何か勘違いされてしまったかなあ?)
彼は僕たちのすぐ目の前で立ち止まった。
(はてな?この人どうしたんだろう?)
「覚えてくれてますか?」
(ん?そういえばどこか見覚えがある気がする)
「えっと・・・(思い出した!)タイのチェンマイの・・・トレッキングで一緒だった・・・」
向こうの表情がキラリと光った。
「あれからまだ旅続いているんですか?」
彼とは2002年3月、タイ・チェンマイのトレッキングで一緒だった。
「どうしてまたビルバオなんかにいるんですか?」
それは僕らのほうが聞きたい質問だ。ビルバオなんてあんまり日本人見かけないし、見所があるところとは思えないからだ。
「このミュージアムのためだけにビルバオには来たんです。」
それが彼からの答えだった。僕たちが今いるグーゲンハイムミュージアムは大変有名らしい。この建物をデザインしたフランコ・オー・ゲーリという人は、現代建築家のなかでも5本の指にはいる人なのだそうだ。だからそのミュージアムに展示されているもの以上にこの建物は見る価値があるといわれている。そんなこと知らなかった。ヒマだから博物館でもいってみるか、そんな安直な発想とはまったく次元の違う志を持って彼はやってきたのだ。でも、それを聞いてなんか得した気分になった。ただの石ころと思っていたのが実はダイヤモンドだった、そんな気分である。
出会いとは不思議だなとあらためて思う。僕らはビルバオには長くいるが、たまたま今日なんとなく気が向いて博物館にやってきたら、あらあらそこには以前会った人が・・・出会いとは半分の偶然と半分の必然、そんな思いにかられてしまう。(昭浩)
フリアンとイニャキ、このふたりのスペイン人と僕らはとても気が合う。それは、言葉のギャップはあるけど、それも含めて気が合うということだ。一緒にいると楽しいし、心が落ち着く。
心が落ち着く・・・それは、うまくいえないけど、穏やかな気持ち、やさしい気持ち、平和な気分、になれる、そんなようなことだ。
僕たちは当初ビルバオに来る予定はまったくなかった。
このふたりに呼ばれていたんだろう、と思う。(昭浩)
バスクで過ごした時間。それらを僕はどう言い表したらいいのかわからない。そこには、この旅のなかでは特殊で、何もしていないのに濃い時間があった。思い出されるのは美しい自然よりもフリアンやイニャキやポジョといった友達の言葉だったり仕草や表情である。
フリアンは、僕たちを見送ったあと、ひとり家に帰って、またひとりぼっちだ。食べ忘れて残された3つのプリンや僕らの大好物のアグーラ(うなぎの稚魚)、最後の日に飲もうといってそれも飲み忘れて残されたシャンパン、そして僕たちのいなくなったガランとした部屋、そこに残されたものたちを思い浮かべるたびに胸がしめつけられる。
駅のプラットホームで僕らは別れた。列車の中、となりで映子は泣いていた。
その日僕たちは、昼フリアンの作ってくれたサンドイッチを食べ、お腹がすいてはフリアンがもたせてくれたフルーツを食べた。フリアンにもらったビールとコーラでのどを潤し、夕方再びフリアンのサンドイッチを食べる。その日一日フリアンの愛情で僕たちは生かされていた。
ビルバオを発ったとき袋いっぱいだった食べ物が少しずつ減っていった。減っていくたびにフリアンやイニャキやポジョから離れていっている、そんな気がしてとても切ない気持ちになった。(昭浩)
サンチアゴ・デ・コンポステーラはカトリック三大聖地のひとつだ。そんなことスペインに来るまで知らなかった。 聖地好きとしては、はずかしい話である。映子は前から来たかったところだったようだが、僕にとってはなりゆきで来てしまったところだ。
聖人ヤコブの墓のあったところに建てられた大聖堂は大きく、いろんな聖人たちが彫られたものものしいデコレーションが、いかにも、といった貫禄ではあるが、だからといって、心を大きく揺さぶるほどでもない。
カミノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴへの巡礼道)というピレネー山脈から続いている巡礼の道がある。世界遺産にもなっている有名な道だ。その道最終地点がここサンチアゴ・デ・コンポステーラ。1ヶ月以上かけてこの道を完歩し、ここまでやってくる巡礼者は多い。
しかし、それだけの苦労してまで来るほどのものだろうか?キリスト教徒でない僕にはわからない。
聖堂の奥には聖人ヤコブが祀られており、細い通路を通ってその後ろに行くことができる。僕らは信者をまねて、聖人ヤコブの背中にキスをした。
僕たちは、キリスト教徒ではないが、しっかりとキスをしながら願をかけるのであった。(昭浩)
今日、本当は国境を越えてポルトガルに行くはずだった。しかし、行けなかった。意外とスペインからポルトガルへ越境するバスや電車は少ないのだ。
スペインでの一日を得した僕たちは、やはり飲んで食べて、町を散歩して、シエスタして、また飲んで食べて・・・そんな一日を過ごした。スペインの旅は飲んで食べてばっかりだった。(昭浩)