2月18日〜2月21日
昨日の夜バスに乗り、今朝9時ごろにフエについた。世界遺産であるこの街には、見所がたくさんある。着いたばかりだったけれど、早速王宮へ行くことにした。
王宮に向かっていると、橋の上で同じ宿に泊まっている日本人の男の子に会った。彼も王宮に行くらしい。一緒に行くことにした。王宮の門をくぐると、彼は、「あ、いいやん」と言った。なるほど、なんだかこの空間は、昔にタイムスリップしたような、ちょっと違った雰囲気がある。メインの太和殿は、中国の故宮をモデルにしたらしいけど、故宮より小さい。黄色い屋根のすぐ下の壁には、色とりどりの絵が書いてあって、明るくてかわいい。建物の手前の、アーチと言うか、鳥居のような門も好きだ。しかし、一緒に来た彼は、その後すぐに強い日ざしにやられて、つらくなってきたと言って、帰ってしまった。
その他の建物は、戦争で破壊されて、ほとんど何もない、廃墟と化していた。ものすごく広い敷地なのに、本当に何もないのだ。建物の土台くらいだ。はっきりいってびっくりした。これほどまでにすごいとは。太和殿だって、再建されたものなのだ。その他の建物も、再建しようとしているところがいくつか見られた。20年以上たった今でも、戦争の傷跡があまりにも深く残っている王宮だった。
フエは、日本でいえば京都のような所、ベトナムの昔の都なので、その当時の皇帝の墓がたくさんある。その主なものをまわるのが帝廟ツアーで、いろんな情報を見ると、いまいちと言う人もいるけれど、どんなものなのか、行ってみることにした。
まずは、ボートに乗ってフォーン川からスタートだ。船からの景色は結構好きだ。最初に行ったのは、トゥドゥック帝廟だった。船着場から、バイクタクシーを使って行く。交渉して、少し値切った。この帝廟は、とても日本っぽいところで、池がたくさんある庭園の中にお墓があった。皇帝が別荘としてつかっていた所にお墓を作ったという感じだ。広いので、思っていた以上に、見るのに時間がかかる。でも、与えられた時間は短かったので、急いで、駆け足で見た。
次のカイディン帝廟も、船着場からバイクタクシーで、例によって値切ってから行った。ここは、さっきみたいに広くはないけれど、建物が立派だった。階段を登っていくと、西欧風の建物があり、フレンチコロニアルという感じ。建物の中は、陶器とガラスのモザイクが壁中にちりばめられていてきれい。カイディン帝の像と、その後ろに棺があった。
最後のミンマン帝廟は、中国風だった。昨日行った王宮に似た建物があった。庭と池もきれいだった。どの廟も、建物の前に、象と馬と役人たちが向かい合わせに両側に立っていて、そのお墓を守っている。3つ見ると、それぞれに特徴があっておもしろいと思った。ただ、それぞれに入場料とバイクタクシー代がかかるのと、時間が限られていてゆっくり見れないのが不評の理由のひとつだろう。(映子)
僕は、ミンマン帝でテレビ番組の撮影に来ていた川上麻衣子が今日一番印象に残った。特にファンってことはないんだけど、僕は金八先生世代だから、「おっ 川上麻衣子!」と少しテンションがあがってしまうのは仕方がない。「撮影がんばってください!」と近くまでいって声をかけると、「わっ びっくりしたっ!」と突然の日本語の声援に驚いていた。撮影用カメラにはTBSと書いてあったけどなんの番組だろう?(昭浩)
DMZとは「DEMILITARISED ZONE」、つまり非武装地帯のことである。ベトナムが、北と南に分かれていたとき、定められていた、北緯17度線の国境付近である。このあたりのベトナム戦争の激戦地を回る、DMZツアーに参加した。
まずは、アメリカのロケット基地だったというロックパイル。そこだけぽこっと高い山があって、山の上に物資を運ぶために、ヘリコプターを使ったそうだ。まわりには、高い木がない。アメリカ軍がゲリラを恐れてナパーム弾で焼き払ってしまったらしい。また、木を植えるにはお金がかかるので今もそのままなのだそうだ。
次にダクロン橋。戦後再建されただけあって、新しいきれいな橋。その橋を渡ると、「ホーチミン・トレイル」、そこは北ベトナム軍のための物資を運ぶ道だったのだ。自転車に物資をのせて運んだらしい。
メインともいえるケサン基地に向かおうとしたのだけれど、道が工事中でどうしてもいけない、ということになった。仕方なく、近くにある別の基地に行った。そこは、戦車が1つと、建物の跡のようなところが少し残っているだけだった。ここは、北ベトナム軍の11台の戦車に3方から攻められて占領されたらしい。ケサン基地も同じように取り囲まれた。死者は北ベトナム軍の方が多かったけれど、アメリカ軍は撤退したので、北ベトナム軍の勝利だと言えると、ガイドのHaiさんは言っていた。
バスの中で、Haiさんはいろいろ説明してくれた。実際に彼女も戦争中に、多分小さかったのだと思うけど、お母さんが彼女を籠に入れて、5日間歩いて逃げたという話をしていた。そして、小学校では、同級生が不発弾で1人なくなって、20人くらいケガをして、彼女も背中にケガをしたそうだ。たくさんの子供たちが、不発弾や地雷で死んでしまったそうだ。また、戦後、精神的におかしくなってしまって、結婚もせず、1人孤独に生きている人もいるらしい。そして、枯葉剤の話もしていた。ホーチミントレイルで物資を運んでいた男の人の子供が生まれてきたら、頭が2つあった。他に3人子供ができたけれどみんな死んでしまったそうだ。
最後に、北緯17度の南北の境界線(ベンハイ川)を渡って、北ベトナム軍のトンネルに行った。そこは、海沿いにあって、トンネルを通って外にでると、そこは海だった。そこから「海のホーチミン・トレイル」で、南に物資を運んだらしい。トンネルの中は、暗くて、せまくて、「こんなところで4年間も生活したのかあ」と、なんともいえない気持ちになった。特に、トンネルの中で生まれた子供が17人いて、その子たちは、私と同じくらいの年だということを考えると、よけいに身近に感じるし、考えさせられる。トンネルの中に入って、すぐに引き返して出て行く人がいるくらい、息苦しい所だ。それでも、外で生活して殺されるよりはいい。そんな時代だったのだろう。
ガイドのHaiさんは、こう言っていた。戦争は、もういい。そして、アメリカ人がベトナムに来ることは、拒否しても仕方がないことだ。今はもう、そんなことはいい。でも、戦争で起こったことは、決して忘れない。
いろいろ学ぶこと、考えることの多いツアーだった。(映子)
ベトナムに入るまで僕たちはツアーというものを嫌っていた。なぜなら自分たちの好きなように動けないからだ。しかし、ベトナムに来て少し考え方が変った。ツアーに参加していいガイドにあたるといろんな話が聞ける。DMZの近くで生まれたガイドのHaiさんの話は、非常に勉強になった。実際に体験している人の言葉を聞けたってことは、とても貴重な経験だったと思う。(昭浩)