タイであったドイツ人は言った。
「インドは、人がよくない。100人インド人がいたら、そのうちいい人は1人だけで、あとの99人はケツの穴だ。」
インドに行ったことのあるネパール人は、言った。
「俺は、二度とインドはごめんだね。特に人が悪いよ、人が。」
インドってどんな国だろう。インド人って・・・
ネパールとインドの国境は、他とちょっと違う。スノウリという町を走る一本の道、その道の途中に、しかたなく国境がひかれているといった様子。インド側のイミグレーションは、食堂や雑貨屋の並ぶ商店街の中にまみれ、ネパール人とインド人は、国境を自由に行き来している。国と国との境界線としての威厳がまったくない。しかし、インドに入ったとたん空気の密度の違いに気付く。明らかに人は多く、肌の色の濃い人が目立つ。
バスステーションはイミグレーションから5分くらい歩いたところにあった。バスを探すまでもなく、いろんな人間に囲まれる。「どこに行きたいんだ?」「ゴーラクプルへ行きたいのなら、このバスに乗れ」と教えてくれる。ぎゅうぎゅう詰めのバスだったが、バスの乗務員に席を確保してもらう。僕らは外国人だから気を使ってもらっているようだ。その反対にネパール人たちは、インド人が途中から乗ってきたら、まっさきに「おい、おまえら立て」とバスの車掌らしき人間に高圧的に命令されるのだ。ネパール人は、インドでは、低い立場にあるようだ。
―心から困っていると、不思議と救ってくれる人が現れるものだ.―
3時間程でゴーラクプルについたが、困ったことに気がついた。そう、今日は土曜日、銀行は休みか、半ドンだ。国境であまり両替しなかったことを後悔した。急いで銀行に行ってみると、両替は1時間前にクローズしたから月曜日に来い、と追い返された。銀行のマネージャーらしき人を見つけて、
「俺たちは、インドルピーを持っていないんだ。これからどうすりゃいいんだ。何もできないよ。たのむから、両替してくれよ。」と懇願すると、彼は
「ホテルボビーナに行け」とだけ言って立ち去ってしまった。
また、困った。ホテルボビーナがどこにあるのかわからない。道で聞いても誰も知らない。ロンリープラネットをみると、ボビーレストランというのが地図に載っていたので、そこに行くことにした。そこは、両替とは縁のなさそうな普通のレストラン。絶望的な気分になりながら、レストランの上にある、チープなホテルに入っていった。両替はできないか、という僕たちのお願いに対して、フロントの係員は冷たかった。
「このホテルに泊まるなら考えてもいいぜ。ただし、手数料は25%だ。」
僕たちは、本当に困った。この悪徳係員の言う法外な条件で両替するか、わずばかりのお金で、月曜日まで粘るか、の選択しかなかったのだ。そこに、「私が両替をしよう」と、親切なネパール人が登場した。しかも、レートは公定レートで、手数料なしでいいという。僕には、彼がブッダの化身のように見えた。神様が僕たちを親切なネパール人に会わしてくれた、そう思わずにはいられなかった。神様ってやはりインドだからシヴァさんになるのかな?(昭浩)
"
クシナガルは、ブッダ入滅の地である。僕たちの泊まっているゴーラクプルからバスで20分程で行ける。ブッダが生涯を閉じた涅槃堂公園は、芝生と鮮やかな花が美しいところだった。悪くはないが、僕はルンビニの素朴な雰囲気の方が好きだ。
この日はクシナガルにいったことよりも、夕方に乗ったリクシャー引きのほうがずっと心に残った。僕たちは宿から歩いて50分ほどのところにあるお寺に行った。思ったより遠かったので、帰りはリクシャーを使うことにした。やせ細ったリクシャー引きは、細い足でペダルに体重をのせながら一生懸命こいでいる。坂では、僕たち2人を乗せたまま歩いてリクシャーを引いている。彼はけっしてきれいではなかったけれど、何もいわず黙々と一生懸命にリクシャーを引く姿は心をうつものがあった。ちょっと少ないんじゃないかなあ、と思って渡した10ルピー(28円)を、特に表情を変えることもなく受け取って去っていった。
それは、一生懸命働いているというより、一生懸命生きているというものだった。彼は、当たり前のことを当たり前として受けとめているようにも見えた。僕は、彼の姿を心に刻もうと思った。そして、彼を思い出すたびにこう自分に問い掛けるのだ。「働いていた僕に人の心をうつ一生懸命さはあっただろうか?今の僕にあのリクシャー引きのような一生懸命さはあるのだろうか?」(昭浩)
これから、このヴァラナシにしばらく滞在すると思うととても憂鬱になる。そんな1日だった。
早朝ゴーラクプルを出た列車は、昼過ぎにヴァラナシ駅に着いた。駅から宿まで離れているときって、どうやって宿までいこうかと考えると気が重くなる。駅の改札を出たとたん、思いっきりボッてくるタクシーやらオートリクシャーやら宿の勧誘やら、いろんな人間が寄ってくる。それも正直うっとおしい。
ヴァラナシ駅を出ると、予想外に、多くの客引きはいなかった。ひとりサントスと名乗るオートリクシャーの運転手が話し掛けてきた。僕たちは安いサイクルリクシャーを使うつもりだったので断る。しかし、サントスはついてくる。サイクルリクシャーと交渉しようとすると、横から話し掛けて邪魔をする。ガンガー沿いのオールドシティまで20ルピー(56円)で交渉していると、俺が20ルピーでそこまで連れていってやる、と言って間に割って入ってくる。そして、こう言った。「サイクルリクシャーの人間は英語が話せないから、お前らが交渉しても無駄だ。」その国に来たらその国の言葉を覚え、料金交渉くらいその国の言葉でやるものだ。僕たちはそれを怠っていた。
結局、1時間近く駅のあたりをウロウロしたあげくサントスのしつこさに根負けして、彼のオートリクシャーに乗ることにした。後で考えれば、駅のロータリーで、「足」を見つけようとしていたのが、そもそもの失敗だった。ルータリーを出れば、有り余るリクシャーが道路脇にいたのだ。料金は、20ルピーだったが、僕たちの行きたかった宿には当然行ってくれず、いい宿があるから、といってガンガーから少し離れた宿に降ろされた。サントスに100ルピー近いバックマージンが払われるということもわかっていたが、かなり疲れていた僕たちは、その宿にとりあえず泊まることにした。
宿にいれば、そこのマネージャーが、ボートツアーに明日の朝行けだの安いシルクのファクトリーに連れて行ってやるだの、うるさい。外に出れば、灼熱地獄。ガンガー沿いのガートにいる人は誰もいない。通りにはほこりと車とリクシャーがごった返す。部屋には窓がなく、そこにいると陰鬱な気分になる。
インドを旅した旅人は、ヴァラナシはいい、ってみんな口をそろえて言う。
「こんな疲れるところどこがいいんじゃい!」
僕には、ヴァラナシの良さがわからない。もう少しここにいれば、少しはこの町が好きになれるだろうか?この町に慣れる日は来るのだろうか?(昭浩)
"
窓のない暗い部屋で、暗い1日を過ごし、暗い気持ちだった僕たちは、早朝ガンガーに散歩に出かけた。早朝のガンガーはいい。たくさんの人の神聖な気持ちにあふれている。いいエネルギーがいっぱいだ。昨日の真昼間の誰もいないガートとはうってかわって、朝の陽射しのなか、たくさんの人が沐浴をしている。祈っている人もいる。朝日を吸収してやわらかく光るガンガーとガンジスの民、その光景を見てると心が晴れた。「いいなあ」理屈じゃなくそう思う。僕もインド人といっしょにガンガーで沐浴をする。水は汚く、足元はコケでヌルヌルして気持ち悪い。頭から川の水をかぶる気にはなれない。
ガンガーの裏のの小径がまたおもしろい。そこには、牛、犬、食べ物、着る物、コンピューター、牛のウンチ、人のおしっこ…せまいせまい路地にいろんなものがある。突然目の前に、スッポンポンの子供が飛び出してくる。そして、僕の前で勢いよく「べちん」という音をたてて転ぶ。そういったことも、すべてが自然でぴったりとした光景だ。
僕たちは、宿を変えることにした。宿の選択は、重要だ。その良し悪しでその場所の印象がかわる。日々の気持ちの持ちようだって、宿によって大きく左右されるもんだ。僕たちが選んだのは、ガンガーを見下ろせる大きなテラスのあるところだ。ガンガービューの日当たりのいい部屋は、1日中部屋にいたいくらい居心地がいい。昨日の憂鬱がウソのようになんか楽しい1日だった。(昭浩)
ブッダが初説法を行ったというサルナートへいった。そこには、レンガでできた大きなストゥーパがたっていた。気温43度、観光するには暑過ぎる。オアシスを求めるように近くのレストランに入った。少し高めのレストランであまり食欲のない僕たちは、2人ともチキンヌードルスープをたのんだ。値段が高い割においしくない。お勘定をしてもらうと、サービス料をとっているうえに、さらに20ルピーも高い。ウエイターを呼んで確認すると、メニューの中に、2ヶ所チキンヌードルスープの項目があって、1つは25ルピー、もう1つは35ルピーとなっている。さらに係りのおやじは、
「このメニューは、ミスプリントで、本当の金額は、35ルピーだ。」といって、メニューに載っている“チキンヌードルスープ25ルピー”と書いてあるところをいきなり自分のボールペンで35ルピーと書き直すではないか。「おおっ なんてことを」僕らは、その一連の行動にあっけにとられる。恐るべしインド人。
「こんなもん払えねえ!」と言えば、
「払ってもらわなきゃ、私が払わなきゃいけなくなるから払え」と勝手な理屈を返してくる。
ラチがあかないので、マネージャーを呼ぶことにした。マネージャーはマネージャーで、
「これは印刷屋のミスだから請求したとおり払って欲しい」と言ってくる。恐るべしインドの理屈。
そこで、映子がブチキレた。マネージャーとしばらく言い合った後、
「メニューが間違っているのはお前らのせいだろう、私たちは悪くない。もしお前がマネージャーだったらメニューくらいチェックするのが当然だ。」と激しく迫る。その迫力に押されて、マネージャーはわかったわかったといったゼスチャーをみせ、請求額から20ルピーを引いた額でいいと言った。僕はふたりの英語のやりとりについていけず、アワアワしてぽかんとその様子をみながら、「映子は、よくこんなに興奮しながらも流暢に英語が話せるなあ」と感心していた。それにひきかえ、俺って役立たずだなあ。(昭浩)
朝5時に起きて小舟にのった。ガンガー沿いの火葬場に行って焼ける死体を見た。死体は布に包まれていたモノであった。まったく死体という感じはしない。そこからガンガーの対岸に渡った。ガンガーの対岸は“あの世”といわれている。ガンガーはいわば三途の河だ。そこには、焼かれずに流された死体が岸に打ち上げられている。カラスがその上にとまって、つついている。小さな死体もあった。子供だろうか?3、4体まとまって打ち上げられているのを見ながら、安らかな眠りにつくよう、祈った。この人たちの人生はどういう人生だったのだろうか?そんなことを考えていると、なんか悲しみに似た、でもそれとは少し違った感情がこみ上げてきた。
ガートに戻った。ボートを降りて、歩いているといろんなインド人が声をかけてくる。客引きも、そうでない人も「元気?どこへ行くんだ?」と声をかけてくる。4日前の僕とは違って、少し余裕が出てきたせいか、インド人たちに応えられる。はじめて、この町に来たときは、インド人はみんな悪人に見えた。でも、どうもそうじゃなさそうだ。その時の僕は、神経をはりつめ、心を思いっきり固くガードしていたと思う。この町の人のいろんな言葉をはね返しては、自分も傷ついていた。そして、今固いガードがやわらかくなったら、彼らの言葉なんかが逆に心地よくなってくる。自分のとらえかたが変われば、まわりの見え方が全然変わってくるんだ。
その日の夜は、風が心地よかった。(昭浩)
僕は、どうも詩人にはなれないようだ。
今日も朝5時半に起きて火葬場を見に行った。今度は、川上の方にある小さい火葬場に行った。大きい火葬場に行くと、ボロ布一枚腰に巻いた人相の悪いおっさんが現れて、火葬を見学するならホスピスへチャリティの募金をしろ、としつこく言ってくるからだ。人を見かけで判断するのはよくないと思うが、このおっさんの言うことを信じるお人好しはこの世に存在しない。言うとおり100ルピー(280円)渡して、そのお金がチャリティとしてホスピスにいくことは100%ありえない。
小さい火葬場では、ふたつ火柱が立っていて、ひとつの方はだいぶ焼けた後なのかほとんど焚き火状態だった。もう一方は、まだ人の形が残っていた。細い足が見えるがマネキンが焼かれているように見える。
ガンガーのガートで人が焼かれるのを目にしたら、いろいろ死について考えたり、死生観が変わったりするんじゃないかと思っていた。僕は、人の焼かれる所をみて、死というものについて考えてみたかったのだ。死について考えることは、生について考えることでもあるからだ。村上春樹も小説の中で「死は生の対極にあるのではなく、生の一部として存在する」そんな感じのことを書いていた。
僕は、とくに何も感じなかった。そんな何も感じない自分に少し驚いている。火葬を見て、無理に何かを感じよう感じようとしているのがバカらしくなってきた。
長渕剛は、歌っていた。
〜さよなら名も知らない死に人たちよ。あなたのように強く死ぬまで生きようと〜
僕は詩人にはなれないようだ。(昭浩)
すっかりこのヴァラナシの町とガンガーが自分の生活の一部になってきている。そして、ここでの僕たちの生活の中にいろんな登場人物が個性をもって登場してくる。ガートでいつも「ヒゲを剃らないか?それともマッサージはどうだ?」と必ず聞いてくるおやじや、「お前、俺のこと覚えているか?(覚えてねえぇっつーのby僕の心の声) 昨日ガートで会っただろう?」とうれしそうに僕たちの前に踊り出てきた洋服屋のにいちゃん。ウザイなあと思いながらも、そういうのがとてもうれしかったりする。だから、そのへんをプラプラ散歩するだけでも楽しい。僕たちは、朝昼晩と散歩を楽しみあとは部屋でゴロゴロしている、そんなシャンティな(心穏やかで平和な)日々を送っている。(昭浩)
ヴァラナシでヒンズー語を習おうと思っていた。インドには、2ヶ月近く滞在するつもりだったし、ヒンズー語を少しでも話せた方がより楽しい旅ができると思ったからだ。そして、ここヴァラナシには一週間でヒンズー語をマスターできる!(ホンマかいな)というのをウリにしている言語学者の先生が教室を開いているので、「それじゃ、その先生にヒンズー語をマスターさせてもらおうじゃないの」と超楽天他力本願的思いに期待を膨らましていた。デリーに出張中の先生がようやく戻ってきて、いよいよ、と思ったが、先生はこれからスイスに行くらしく、結局ヒンズー語習得の夢は幻に終わった。ヒンズー語教室には縁がなかったようだ。ナマステー。
ヴァラナシでするべきことは、すべてやったのでデリー行きのチケットを買いに行く。いよいよこのヴァラナシを離れる日も近い。そして、ネパールでトレッキング中に出会ってヴァラナシで再会した横笛くんたちと夜ボートを浮かべて灯籠を流した。一時間以上かけて300個の灯籠を流した。夜、ガンガーにボートを浮かべるのもいいものだ。
その日の夜遅く、とてつもない寒気が襲ってきた。(昭浩)
朝起きると頭が痛い。そして、下痢。しかも体がフラフラする。体温を測ると39.2℃。高熱と下痢、これは赤痢の症状ではないか。赤痢といえば、入院して一週間以上隔離されて、泊まっているホテル中消毒を撒かれて…最悪だ。あまり考えないようにして、寝ていよう…
映子が目を覚ました。僕の様子がおかしいのに気がつく。体にさわった瞬間「あつい!」と驚きの声をあげていた。話をするのもだるかったが、僕は正直に下痢で高熱があることを話した。
「それってヤバイんじゃない?」
「…」 (ヤバイ?そうかヤバイかもしれないなあ。それにしてもなんで映子は、興奮しているんだ?お祭りのような奴だなあ)
「それって、マラリアじゃないの?マラリア」
「…」
「マラリアだ!はやく病院行かないと死んじゃうよ」
映子のテンションがマスマス高ぶってきたので、僕は面倒くさそうに答えた。
「いや、マラリアというよりは、赤痢って感じじゃないかなあ、ガイドブックに載っているから見てみなよ」
「やばいよ赤痢だよ。2週間入院隔離だって、とりあえず病院に行こう。」
そんな会話をしているうちにすっかり重病人の気分になってしまった。僕たちは、入院の用意をしてヒンズー大学病院というところへいった。
病院に着いたが、どうしていいのかわからない。たくさん患者らしき人たちがいる。多分そこが診察室なのだろう。部屋の中にも廊下にもたくさんのインド人が並んでいる。こんな大勢の人の後に並ぶのかと思うと、僕は倒れそうになった。しかも並んでいるインド人はみな元気そう。
ここの病院のシステムは、まず窓口でカルテを買う(5ルピー:15円)。それを持って混んでいる診察室の窓口にいってカルテを渡す。そして待つ。診察室は、学校の教室みたいなところに受付1人と先生が2人、助手が2人、そして並んでいるたくさんの人々がいる。まず、若い先生が診断し、それが終わるともう一人の老練な医師が最終診断を下す。
僕たちは、若い先生に外国人であることをアピールするという少し卑怯な手を使って、すぐに診察してもらった。病状を説明した後、目と舌と脈をチェックして終わり。老練の医師は、カルテを見て、若い医師と同じ質問をした後、薬の名前を書いて処方状上の注意を言って終了。
「えっ それで終わり?俺って赤痢じゃないの?入院は?血液検査もしていないのになぜわかるんだ?」と訴えたいがもちろんそんな英語は出てこない。アワアワするだけ。映子が「彼の病気は深刻なものじゃないの?」と聞いてくれたが、答えはNo。
病院でもらった薬は、漢方薬のような粉薬と黒い丸薬。粉薬は蜂蜜に溶かして飲まなければいけないあたりがマスマス漢方なのである。それでも、薬を飲んで寝ていたら、その日の夕方には、熱は38.2℃まで下がった。下痢は相変らず2時間おきにやってくる。洋式じゃないのでしゃがむのがつらい。(昭浩)
今日は1日療養。朝、熱を測ると36.7℃まで下がっていた。インド医学恐るべし。
唐突だが生き物の話。ここヴァラナシは人間だけじゃなくいろんな動物が同居している。犬、牛はもちろんサル、リスなども建物のまわりをウロウロしている。犬は暑さに参ってぐったりしていることが多いが、牛は少しやっかいだ。人の目を盗んでは屋台のものを盗み食いし、道路を狂ったように走ってきて僕たちを怯えさせ、ウンチをそこらじゅうに撒き散らす。おとなしそうに見えて角で突っついてきたりして人に実際に危害を加えることもある。僕も一度ヴァラナシで牛に襲われた。そして、サル。こいつも手ごわい。サルにも襲われた。捨てたマンゴーのカスを狙って部屋のまわりをサルがうろついていたので、写真に撮ってやろうとしたらすごい勢いで突進してきた。その攻撃をかわしたあとも「キーッ」といって威嚇する。恐ろしい限りだ。
それに比べて、リスはかわいい。彼らはまず危害を加えてこない。表情も愛らしい。そして、僕たちが何よりも可愛がっているのが、ヤモリ。常時部屋には5〜6匹いる。特に映子は、「ヤモちゃん」と気持ち悪いくらい甘い声で呼びかけるくらい溺愛している。蚊を食べてくれるというのがまたポイントが高いらしい。
この町は、そんな生き物たちも自然に受け入れている。そこがまたとても魅力的。でも牛とサルには要注意なのだ。(昭浩)
インドから荷物を送るには、梱包した荷物を白い布で包まなければならない。何の目的でそうしなければいけないのか、意味不明なインドルールだ。しかも、白い布で包むってどうすりゃいいの?
荷物を送った人に聞いてみると、ダンボール箱を持ってウロウロしていると布で包んでくれる人が現れるよ、と言っていた。日本じゃ絶対ありそうもないけどインドではありそうな話だ。半信半疑でダンボールを持ってウロウロすると5分もしないうちに声がかかった。おもしろい国だ。
郵便局まで少し距離があるのでリクシャーで行くことにした。交渉の結果往復で30ルピー(90円)。約束の30ルピーを払おうとすると、「今日はとても暑くて大変だったから40ルピーくれ!」とさも大変そうな身振り手振りで訴えてくる。インドに来たばかりの頃はいちいちそれに怒っていた。毎回同じようなことをやってくるので、だんだんこちらも慣れてくる。そのうち「きたきた。今日はどんな演技をして、どう言ってくるのだろう」と楽しめる余裕も出てくる。
この国では、B級お笑いライブがいつもそこら辺で展開されている。(昭浩)
ガンガーにボートを浮かべる。定番である。僕も、すでに4回以上ガンガーに小舟を浮かべている。毎日の日課の人だっている。
舟から見るヴァラナシは、おもしろい。ガートを舞台にした人間ドラマの演劇をみているようだ。朝日が昇る頃の聖なる時間の沐浴風景、昼間のガンガー沿いの人々の暮らしぶり、日没をともにガンガーに毎日派手にお祈りをするプージャー。いろんな表情がある。対岸に渡れば、そこにはまた違う世界がある。
ヴァラナシを今日去るというのにまだ一度もボートに乗ったことがないという日本人の青年がいた。彼を誘って、またボートでガンガーに繰り出した。彼はとても喜んでいた。ヴァラナシに来たらぜひガンガーに小舟を浮かべて欲しい。(昭浩)
ガート沿いを散歩していると片足のない老人の物乞いが竹のつえをつきながら近づいてきた。彼は何やら言っていたようだが僕たちは無視して通り過ぎた。ガートでチャイをすすっているとまたその物乞いがやってきた。そして、僕たちの近くで同じようにチャイをすすっていた日本の若者に近づいていった。僕は、こっちに来たら面倒くさいなあ、と思っていた。ところが、その片足の老人は、持っているビニール袋からポストカードを取り出して静かに若者に「どうだ、ポストカードでも見てみんか」といわんばかりに渡していた。その光景を見て感動した。
このあたりの足のない人は、そのほとんどは物乞いとして僕たちに喜捨を求めてくる。物乞い自体が1つのビジネスとなっているところもあって、物乞いをさせるために自分の子供の手や足を切り落とすっていうひどい話もあるくらいだ。しかし、その老人は一生懸命ポストカードを売ってお金を得ようとしている。老人を無下にした自分を恥じた。
彼の持っていたポストカードは、すべて神様の絵のものだった。僕たちは、一枚ずつ彼の神様を買った。老人は、いい表情をしていた。奥深く輝きを失っていない目が印象的だった。
ヴァラナシとの出会いは、藤原新也の「メメントモリ」という本だった。これは、以前南米で会った旅人にもらったものだ。そして、その本に添えられたメッセージには、こんなことが書いてあった。
〜本を開いては何かを感じ、閉じては何かを思う。うれしいとき、悲しいとき、つらいとき、いつでも私にいろんなものを与えてくれる、そんな本です。〜
ヴァラナシというところもそんなところだと思う。目を開ければ何かを感じ、閉じては何かを思う、ガンガーとともに過ごした日々はそんな日々だった。
バイバイ ガンジス (昭浩)
デリーへ向かう列車の中、朝7時ごろ床で寝ていた母娘と別れた。彼女たちは、列車がヴァラナシ駅に来たとき、僕たちが予約してあったベッドに寝ていたふたりだった。深夜0時すぎだったと思う。とてもよく寝ているところを申し訳ないなあと思いつつ、ふたりを起こし、僕たちの持っているチケットを見せて、ここは僕たちのベッドだから、と主張して場所を空けてもらった。彼女たちは、座席と座席の間の床に寝るようだった。僕は、彼女たちに持っている銀マットを貸してあげた。すると、母親は「サンキュー」と心から申し訳なさそうに言った。インド人はけっしてありがとうと言わない、ありがとう、というヒンズー語は存在しない、と言われているが、そんなことはなかった。たぶんハローとサンキューしか知らないこの母親が、確かに「サンキュー」と謝意を表したのだ。とてもうれしくなった。しかし、ますます、床で寝かせるのは悪いなあ、と思ってしまう。僕は外国人だったから予約がとれて、彼女はたぶん長いインド人の列に並んだが予約がとれなかったのだろう。母親の気弱な目が印象的だった。
デリーに着いた。その空気の悪さには参った。安宿のある狭い路地、アメ横みたいなメインバザールでは、お店の軒先で自家発電器をまわしている。その排ガスが溜まっている道のなかを歩かなくてはいけない。しかも暑くて人も多い。あまり長居したくないところだ。 (昭浩)
デリー観光するバックパッカーは少ない。僕たちは、そんなことも気にせず今日一日観光に明け暮れた。
■ジャマーマスジット:ここに入るとすぐに親切そうなインド人が建物の説明をしてくれる。
「このモスクは、デリー最大のイスラム寺院で…」
「君は、僕たちのためにガイドしているの?」と聞くと
「いいや、重要なインフォメーションを言っているのだ」とインド人。
「お金はかからないんだよね。」
「50ルピーくれ」
「ノー」
「30ルピーでいいから…」
そのインド人は、たんなるガイドの押し売りだった。
それ以外にも、「暗いミナレットの中を歩くための懐中電灯を貸してやる」だの、脱いでおいた靴を置いておいただけで、「見張り代をよこせ」と言ってくるなど、油断も隙もありゃしない。まあインド的といえばインド的ではある。ここのミナレット(塔)からみるラールキラー城はかっこよかった。
■ラールキラー城:入場料が高すぎる!インド人5ルピー(15円)に対し、外国人100ルピー(300円)は、ちょっとバカにしている。庭園はきれいだし、大理石でできた建物もきれいだけど、100ルピー払う価値は感じられない。
■ガンジー博物館:まあまあ。ガンジーのビデオを上映していたが、これが最高につまらない。よほどガンジーファンじゃないと途中で絶対帰る。
■ ラージガート:ガンジーが焼かれた所。インド人観光客多し。だからなんなの、といった感じ。
はっきり言っちまえば、今日行った観光地はどこもパッとしなかったが、そんなところでも、あとで思い出すと結構いい思い出になっていたりするし、あとからその良さがわかるってこともよくあるもんだ。だから明日もデリー観光なのだ。(昭浩)
僕は旅に出る1年以上前からガイドブックや世界遺産の本などを買って読んでは、自分の頭のなかで世界各地をよく飛んでいた。そのなかで「世界遺産のすごさがわかる本」といった本があって、そこにはクトゥブミナール遺跡にある1600年間錆びない鉄柱が紹介されていた。純度100%の鉄は錆びないらしいのだが、その純度100%の鉄を作る技術が発明されたのは19世紀なのに4世紀の時代の遺跡に錆びない鉄柱があったということ、それがとてもミステリーなのだと書いてあった。宇宙人が残していったものという説まである。そのミステリーにとても興味をもった僕にとって、クトゥブミナールの鉄柱というのは、絶対ハズせないものだったのだ。
でもね、鉄柱ってどんなにミステリーなものであっても鉄柱なんだよね。どんな角度で見ようと、まじまじ見ようと、想像を膨らまして見ようと、鉄柱は鉄柱。純度が高いから光輝くものでもない。僕の鉄柱への熱い思いとはウラハラに鉄柱は冷たく鈍い色を放っていた。(昭浩)
ジャパンカルチャー&インフォメーションセンターで最近の日本の新聞を読んで、ようやくインドとパキスタンの情勢がつかめた。
昨日、メールチェックした時4通来ていたメールのうち3通が、インド・パキスタン間が緊迫しているから気を付けたほうがいい、との内容だった。すぐ逃げろ!というメールもあった。いくらインターネットでニュースが見れると言っても、このテの情報は、友だちからのメールで初めて知るもんだ。
インドは危険だ、という認識はできた。でも、どうすりゃいいんだ?デリーの町には、まったく緊迫感がない。
ワールドカップの日本対ベルギー戦をテレビで観戦した後、僕たちはレストランでタンドリーチキンを食べていた。チキンの足をほおばりながら
「俺たち、今こんなところでタンドリーチキン食べている場合かなあ」
「日本大使館員はもう退避しちゃったのかなあ」
なんてのんきな会話をしている。(昭浩)
日本大使館の女性スタッフはヒステリックな声で、「今すぐ帰国してください」と言った。宿の日本人の間では、もうしばらく待てば避難のためのチャーター機が出るからそのときパスポート持って日本大使館に行けばタダでバンコクまで行ける、そんな噂がでていた。インドから西へ向かうバックパッカーもイスタンブール行きのエアーチケットを買っている。旅行代理店はチケットを買いに来ている旅人でいっぱいだ。町は相変らずのほほんとしているが、バックパッカーの間では避難モードになってきている。
退避勧告が出たらインドを出よう、そう僕らは決めていた。その夜、アムリトサル行きの予定を変更して、僕らはネパールへ向けて出発した。(昭浩)
不本意だ。
自分で決断したことだが、こんな形でネパールに戻されるというのは、精神的にもこたえる。
僕は、インド人の着るクルタとパジャーマーを買った。映子はパンジャビードレスをオーダーメイドで仕立てた。しかも、昨日できたばかりなのでインドでは一度も袖を通さずじまいだ。ヒンズー語を勉強するために本だって買った。けっこうまじめに勉強もしていた。僕たちなりに一生懸命インドのなかに入って旅をしようと思っていたのに残念だ。タージマハールだって見ていない。
もう少しインドで様子を見てもよかったんじゃないか、東インドだったら大丈夫だったんじゃなかろうか、そんな思いがよぎる。
インドを旅する時期じゃなかったのだ、インドが今は呼んでいなかったのだ、流れに逆らうな、そういって自分を納得させようとする。
デリーを出て24時間、ようやくネパールに着いた。少し疲れた。ノドも痛いし熱もあるようだ。とにかく今は早くカトマンズに行って休みたい。(昭浩)